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ば○こう○ちの納得いかないコーナー

「世の中の不条理な出来事」に吼えるブログ。(映画及び小説の評価は、「星5つ」を最高と定義。)

言葉狩りと同じでは?

2005年02月13日 | 時事ネタ関連
大津市職員互助会が発行した本年度の職員手帳約3,800冊が回収&焼却処分される事となった。手帳内に「大安」や「仏滅」といった六曜が記されており、滋賀県内の人権団体が差別意識を助長すると噛み付いたからだという。同市は、「人権啓発の主体である市が、非科学的な迷信を載せ、配慮に欠けた。反省している。」とのコメントを出している。

元々、西日本では問題を始めとした諸差別問題に対する人権教育は盛んと聞く。江戸時代に作り出された「士農工商」なる身分差制度。そして、その4つの身分の下に設けられた「えた」や「」という、理不尽で何の根拠もない最下層に押し込められた人々。彼等の末裔が、未だに視されている現実が在るのだとしたら、差別撤廃の為の人権教育は必要不可欠だろう。

しかし、人権団体の中に「差別問題を錦の御旗として、自らに都合の良い事を好き勝手に押し進めている」所も在ると聞く。人権団体の関係者や人権団体が推薦する人物であれば、”実質”無試験で公務員として採用している都市も在るのだとか。これでは、差別撤廃を隠れ蓑にした単なる圧力団体に過ぎず、逆差別を生み出していると言っても良いだろう。

話を戻すが、自分は六曜なるものを信じてはいない。費用が安くなる仏滅に結婚式を挙げても良いじゃないかと思う男だ。同様に占いの類も全く信じていない。人を人とも思わない発言を連発する占い師等、糞食らえといった思いだ。でも、だからと言って六曜や占いを信じる事は否定しない。個々人の勝手だからだ。

六曜が差別を助長するというのも、言い掛かりの様な気がする。信じようが信じまいが、それは個々人が決める事。手帳に書かれているからと言って、信じろと強制されている訳ではない。”直接的に”差別を生み出す様な事が手帳に書かれているならば、それはバッシングされても仕方ない。六曜にそこ迄差別を助長するものが存しているのだろうか?ましてや、六曜は鎌倉時代末期から脈々と受け継がれて来た庶民文化の一面をも持っている。六曜を全く信じていない自分でも、そういった面を無視して、差別を助長するからの一言で切り捨てられてしまうのは変な気がしてならない。

片手落ち」や「聾桟敷」といった古くから使われて来た言葉が、「差別的だ!」の一言で”死語の世界”に追いやられた。当該する身障者への配慮と言うが、確かに使われる事で嫌な思いをする人も居るだろう。でも、使っている方に差別的な意識は意識は無いと思うし、寧ろそれを差別と捉えてしまう意識の方が過度に差別的な気がする。もし、自分自身が盲人だったら、「」と呼ばれるよりも、「目の不自由な方」という持って回った言い方の方が意図的差別を感じてしまう。「当事者じゃないからこそ、そう言えるのだ。」と言われてしまえばそれ迄だが・・・。

今回の話は、言葉狩りと同じ匂いを感じてしまう。
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6 コメント

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Unknown (やま)
2005-02-14 01:06:14
 どういうへ理屈で六曜が差別を助長するのかさっぱり分かりませんが、大安、仏滅わかんなかったら不便だと思うんですがね。

 非科学的なことを無かったことにするって、まぁ良くあることですがそれに影響される人がいる以上それを無視するのは人間関係としてどうかなぁと思いますね。

 自分が信じないからって信じてる人に非科学的と押し付けるのも、自分が信じているものを人に押し付ける行為となんら変わらない行為ですね。よけーなお世話。

 まぁ、自分も占い信じない口なんで今日は仏滅だから・・~しちゃいけないと言われるとむっとすると思いますがね。
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関西 (kawahara)
2005-02-15 13:23:36
>

しかし、人権団体の中に「差別問題を錦の御旗として、自らに都合の良い事を好き勝手に押し進めている」所も在ると聞く。人権団体の関係者や人権団体が推薦する人物であれば、”実質”無試験で公務員として採用している都市も在るのだとか。これでは、差別撤廃を隠れ蓑にした単なる圧力団体



関西のことはよくわからないのですが、大学時代に関西で過ごした父の言動から察するに、差別・朝鮮人差別がかなり他地域より根強いのでは?と思います。もっとも私の故郷は関西よりも田舎、差別撤廃運動などで表面化しないだけのことなんでしょうが・・・。

ところでそういう「枠」でもないと雇用しない企業が多いのではないでしょうか。これらに限りませんが、興信所を使って内定者を調査すると、いうのは大企業では当然のように行われています。とくに関西が本社の企業が好んで用いているとか。私にはそちらのほうが問題だと思えます。

特にアメリカであることなのですが、いわゆる大学入学等での「ヒスパニック枠」「黒人枠」「先住民枠」にネオコン系の保守派学生(大部分が白人)が抗議運動を行うという報道を見たことがあります。しかし、人種・階級差が激しい欧米ではこういった枠でも設けなければかなり厳しいのでは?と思います。日本の場合もそうかもしれません。



差別語に関しては「ジャップ」の受け取り方、が印象深いです。日本人はアレルギーを起こしやすいのですが、外国人にしてみれば「Brit(イギリス人)」「Sweds(スウェーデン人)」「Ausie(オーストラリア人)」を使うように使っているだけだったりすることが多いようです。多分、第二次世界大戦によって意味合いが変わった(日本人にとっては)言葉だと思います。

むしろ長年英国の敵だったドイツやフランス、オランダに対する略称の方がかなりえげつない響きです。



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言葉に魂入れるのは使い手ですよね (かめちき)
2005-02-16 18:46:52
そういう意味からも言葉狩りの風潮は苦々しく思っています。どう言い換えたところで、その言葉を使う側の意識が変わらない限り、言い換えられた言葉がまた差別の色を重ねていくだけではないでしょうか。挙げられている例え、そういうことと解釈しました。

では、実際にそういう呼称で傷ついている方のことはどうしましょう、というところで軟弱な自分の思考ははたと立ち止まってしまうのですが。

それでも、落語も時代劇もピーだらけ、というのはどう考えてもおかしいと思うのです。

一方で、高校時代に関西で見た市役所の垂れ幕の衝撃を思い出しています。こんなに声高に語られることなのか、という。

…とはいえ、なんで六曜でそこまで?(私は記載のない手帳を好みますが)
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>かめちき様 (giants-55)
2005-02-17 02:54:39
書き込み有難うございました。



かめちき様の仰っておられる事、正に自分の言わんとしている事を代弁して下さっています。差別や偏見の無い自然体で発せられた「盲」という呼称と、腹の中に強烈な偏見を抱きながらも猫撫で声で発せられる「目の不自由な方」という呼称のどちらを好ましいとするかという事だと思うんですね。結局は、表面だけ着飾っても何も解決しない。個々人の意識が変わっていかないと、くだらない差別や偏見の根は絶てないと考えます。



唯、記事でも書いておりますし、かめちき様も御指摘されている様に、悪意を持っていない呼称でも、傷付く人が居るのであれば、それは考慮しなければいけないとは思いますが、でも、それを逆手にとって圧力団体として動いている組織には心底腹立たしさを覚えてしまいます。



言葉狩りや妙な思考で、筒井康隆氏が断筆に一時追い込まれたり、手塚治虫氏の作品が掲載出来なかったり、そして御指摘の通り無理無理にTV番組の音声が消し去られたりするのは、それこそ文化に対する冒涜の様な気がします。
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さすがにこれは…… (higu)
2005-02-20 12:58:53
はじめまして、私は元滋賀県民です。

滋賀で小学校まで教育を受け、中学校で関東に引っ越しました。

確かに、滋賀は「人権教育」が盛んなところです。関東に来た時は滋賀との差に正直戸惑いました。



>高校時代に関西で見た市役所の垂れ幕の衝撃を思い出しています。こんなに声高に語られることなのか、という。



すみません、私はそれが「当然」と信じて疑っていませんでした。お恥ずかしいです。



>結局は、表面だけ着飾っても何も解決しない。個々人の意識が変わっていかないと、くだらない差別や偏見の根は絶てないと考えます。



でも「言葉」はその人の考えを如実に表しているとも思います。「死ね」とか「シンショウ(身体障害者)」なんて言葉を使うのはね……。「言葉」は普段使う身近なもの。そんな言葉を使っているのに差別はいけない、という意識は育たない気がします。

こう言う考えなのは育った地域のせいかも知れませんね。



けれどさすがに今回は……。やりすぎだと思います。

ただ痴呆症など当事者の中には本当に嫌、と言う人もいますから一概には言えないかも知れませんけど。



別にその人権団体の弁護はする気はさらさらありませんが、「地域性」を多少考慮して頂ければ幸いです。

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>higu様 (giants-55)
2005-02-20 16:14:28
書き込み有難うございました。



基本的に、書き込みして下さった方のブログへ、直接レスを付けさせて戴く形を取っているのですが、貴ブログが見当たらなかった為、こちらに書き込む失礼の段を御許し下さい。



知り合いの教師は、元々関東圏で教鞭を執っていました。その後、関西圏に移ったのですが、やはり人権教育の熱心さに驚いたそうです。最初は、戸惑いながらも差別を生み出してきた土壌を学んで行く過程で、人権教育の必要性を感じたと語っていました。でも、同時に、記事でも触れた様な差別問題を食い物にしている組織や不逞の輩が少なくない現実が在る事も、非常に腹立たしい事だとも。



higu様が書かれておられる様に、関東圏に長らく住んでいる自分には見えて来ない地域性も、こういった問題に於いては考慮しないといけないのでしょうね。



自分はこう呼ばれても気にならないが、そう呼ばれて嫌だという人も居るでしょう。それは慮らなければいけない問題なのかもしれませんが、だからと言って言葉狩りの様になってしまうのも行き過ぎな気がしてしまう自分です。



これからも宜しく御願い致します。
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