何度か書いた事だが、幼少時は名古屋に住んでいた。生まれながらのジャイアンツ・ファンを自認している自分だが、当時は地元チームのドラゴンズが20年ぶりの優勝を果たし、板東英二氏が歌う「燃えよドラゴンズ!」が大好きでしばしば口ずさんでいたので、今でもドラゴンズというチームには郷愁の様なものを感じている。カラオケで「闘魂こめて」を歌う事は殆ど無いが(「ファインプレーを君と一緒に~GO!GO!ジャイアンツ~」に到っては、歌おうという気力すら湧いて来ない。)、「六甲おろし」と「燃えよドラゴンズ」は先ず歌う十八番の曲。だからこそ先日、ハムぞー所長様のブログ「ハムぞーの『職業野球研究所』」にて「『燃えよドラゴンズ!』を分析する。 」という記事がアップされた時は、懐かしさと共に嬉しさが込み上げて来たものだった。
板東氏の歌う「燃えよドラゴンズ!」は、今でも歌詞を見ずに空で歌える。6番の歌詞は、「近藤コーチの作戦に♪」で始まっている。その近藤コーチ、近藤貞雄氏が昨日80歳で御亡くなりになられた。先月亡くなられた仰木彬氏と同様に、愛すべき野球人の一人が又しても鬼籍に入らてしまった・・・。
自分の中で「近藤貞雄」という名前が登場する最も古い記憶は、上記した1974年にドラゴンズのヘッドコーチ兼投手コーチをされていた時の事。それより遡る歴史は書籍類で仕入れた情報になってしまうのだが、彼はジャイアンツに選手として一時期在籍していた。1944年から戦争を間に挟んで1947年迄で、61試合に登板して26勝20敗(防御率2.50)の記録を残している。26勝の内23勝を1946年の1年だけで勝ち取ったというのも凄い話だが、不幸な事にその年の秋季キャンプで進駐軍のジープに撥ねられ右手中指を負傷。結果的に神経に深い傷が残り、満足な投球が出来なくなった事から、1947年にジャイアンツを解雇される。移籍したドラゴンズで、偶然3本指で投げた球が妙な落ち方をした事で、それを武器にして再び勝ち星を上げる様になった。擬似とはいえ、チェンジアップを投げた魁と言われる所以だ。
現役を引退しドラゴンズの投手コーチに就任した際には、連投に次ぐ連投をさせた事で肩を痛めさせ、結果的に投手生命を失わせてしまった権藤博投手の起用法を猛省し、それが故に「先発―中継ぎ―抑え」という、現代野球ではポピュラーとなった投手分業制を提唱した人物でも在る。
1982年にドラゴンズの監督として優勝した時の事も記憶に強く残っているが、監督としての集大成は1985年に就任したホエールズ時代だったと思う。屋鋪要選手、高木豊選手、加藤博一選手という3人の俊足打者を1~3番に据え、「スーパーカートリオ」と銘打ってセ・リーグを盛り上げてくれた。我がジャイアンツは、スーパーカートリオにかなり引っ掻き回されたという印象が強いのだが、ホエールズのチーム成績としては2年連続で4位と、必ずしも大満足とは言えない形で監督を辞任。とは言え仰木彬氏と同じく、ファンを魅了する野球を常に心掛けていた監督だったと思う。両手を後ろに廻し、胸を迫り出した格好で、唾を飛ばさんばかりにして審判団に抗議していた”瞬間湯沸かし器”ぶりが懐かしい。
その後、ファイターズ監督に就任した際、サヨナラ安打を放ってベンチに戻って来た大島康徳選手に抱き付いてキスをした御茶目な面も在ったが、試合中は兎に角情熱に溢れ、一歩試合を離れるとダンディズムを漂わせるといった、実に多面的な魅力を持っていた。
球界の実力者に媚び諂うOBが少なくない中で、近藤氏の阿らない姿勢と一言居士ぶりを貴重に感じていた。*1頑固だけれどもフレキシブルな面も兼ね備えているた人物。亡くなられた事を心より残念に思う。合掌。
*1 右打ち職人様のブログ「田無の万華鏡(旧名田無の日記帳)」でも、「近藤貞雄氏、逝く」という記事がアップされていた。その中で、近藤氏が嘗て発言された(or書かれた)言葉が幾つか載っている。中でも一番心が揺さぶられた言葉を引用させて戴く。
「僕は巨人OBだが、巨人のOB会には行かない。以前OB会に行った時、終戦直後、巨人の苦しい時代を支えた筈の或るOBが会場の隅っこで寂しそうにしていたからだ。」
板東氏の歌う「燃えよドラゴンズ!」は、今でも歌詞を見ずに空で歌える。6番の歌詞は、「近藤コーチの作戦に♪」で始まっている。その近藤コーチ、近藤貞雄氏が昨日80歳で御亡くなりになられた。先月亡くなられた仰木彬氏と同様に、愛すべき野球人の一人が又しても鬼籍に入らてしまった・・・。
自分の中で「近藤貞雄」という名前が登場する最も古い記憶は、上記した1974年にドラゴンズのヘッドコーチ兼投手コーチをされていた時の事。それより遡る歴史は書籍類で仕入れた情報になってしまうのだが、彼はジャイアンツに選手として一時期在籍していた。1944年から戦争を間に挟んで1947年迄で、61試合に登板して26勝20敗(防御率2.50)の記録を残している。26勝の内23勝を1946年の1年だけで勝ち取ったというのも凄い話だが、不幸な事にその年の秋季キャンプで進駐軍のジープに撥ねられ右手中指を負傷。結果的に神経に深い傷が残り、満足な投球が出来なくなった事から、1947年にジャイアンツを解雇される。移籍したドラゴンズで、偶然3本指で投げた球が妙な落ち方をした事で、それを武器にして再び勝ち星を上げる様になった。擬似とはいえ、チェンジアップを投げた魁と言われる所以だ。
現役を引退しドラゴンズの投手コーチに就任した際には、連投に次ぐ連投をさせた事で肩を痛めさせ、結果的に投手生命を失わせてしまった権藤博投手の起用法を猛省し、それが故に「先発―中継ぎ―抑え」という、現代野球ではポピュラーとなった投手分業制を提唱した人物でも在る。
1982年にドラゴンズの監督として優勝した時の事も記憶に強く残っているが、監督としての集大成は1985年に就任したホエールズ時代だったと思う。屋鋪要選手、高木豊選手、加藤博一選手という3人の俊足打者を1~3番に据え、「スーパーカートリオ」と銘打ってセ・リーグを盛り上げてくれた。我がジャイアンツは、スーパーカートリオにかなり引っ掻き回されたという印象が強いのだが、ホエールズのチーム成績としては2年連続で4位と、必ずしも大満足とは言えない形で監督を辞任。とは言え仰木彬氏と同じく、ファンを魅了する野球を常に心掛けていた監督だったと思う。両手を後ろに廻し、胸を迫り出した格好で、唾を飛ばさんばかりにして審判団に抗議していた”瞬間湯沸かし器”ぶりが懐かしい。
その後、ファイターズ監督に就任した際、サヨナラ安打を放ってベンチに戻って来た大島康徳選手に抱き付いてキスをした御茶目な面も在ったが、試合中は兎に角情熱に溢れ、一歩試合を離れるとダンディズムを漂わせるといった、実に多面的な魅力を持っていた。
球界の実力者に媚び諂うOBが少なくない中で、近藤氏の阿らない姿勢と一言居士ぶりを貴重に感じていた。*1頑固だけれどもフレキシブルな面も兼ね備えているた人物。亡くなられた事を心より残念に思う。合掌。
*1 右打ち職人様のブログ「田無の万華鏡(旧名田無の日記帳)」でも、「近藤貞雄氏、逝く」という記事がアップされていた。その中で、近藤氏が嘗て発言された(or書かれた)言葉が幾つか載っている。中でも一番心が揺さぶられた言葉を引用させて戴く。
「僕は巨人OBだが、巨人のOB会には行かない。以前OB会に行った時、終戦直後、巨人の苦しい時代を支えた筈の或るOBが会場の隅っこで寂しそうにしていたからだ。」
自分のブログでも書きましたが同郷の近藤さんの死去はショックでした。
今のプロ野球でセットアッパー、クローザーは欠かせない存在。その基盤を築き上げた近藤さん。
天国でゆっくりと休んでもらいたいです。
今迄BBSのログは定期的に保存していたので、ちょっとショックが大きいですね。
まぁ、無料レンタル鯖だから文句は言えないですよ。(苦笑)
理想は年中プロ野球があるとイイなぁ、なんて勝手なコトを思っていたりします。(^^ゞ
投手分配制度を提唱した人だったんですかぁ・・
先日の仰木氏と今回の近藤氏と、球界は偉大な人を失ってしまいましたね。。
野球に興味を持つきっかけとなったのが、
1974年のドラゴンズ優勝でした。
『燃えよ!ドラゴンズ』ええ、歌えますとも。
1984年のオフまでドラゴンズファンでしたが、
田尾選手がライオンズにトレードされた時点で
スッパリやめました。
近藤さんは仰木さん同様、「ダンディ」という言葉が
よく似合ってましたね。
首に巻いたチーフがまたオシャレで。
今頃、先人達と天国で仲良くやっていらっしゃるでしょうか。
攻撃力は元々あるので、やはり巨人は手強いチームです。
なにはともあれ、開幕が待ち遠しいです♪
横浜は、去年並みの健闘をすれば上位進出も充分有り得ます。
広島は監督交代で不気味な存在!!
去年迄の様にはいかないでしょう。
ドラも一歩間違えれば最下位の可能性があるのでは・・・(汗)
最近は「口うるさく注意すると嫌われる」傾向があります。銭湯オヤジがいなくなったのも、そのせいでしょうね。
きっと、今ごろ天国では楽しい野球がされているのではないでしょうか?
「よ~あ~け~のけいじ~♪」歌詞が此れだけ繰り返して、ポールロジャース氏が歌っていましたし、鈴木ヒロミツ氏も、「思い出の~丘が あるという~ 懐かしい人々が住むという ここにおいでよと 小鳥がささやいた 駈けていくには~♪
しばらくは、この歌も鼻歌になりそうです。
いい思い出をありがとう。
子供のころは、巨人の星の影響でジャイアンツだったのだが、あの漫画で星一徹のその後の移籍先?が、中日ドラゴンズでした。ドラゴンズが硬派な野球職人連中の集まりの気がして、一発で惚れました。この歌も軍歌調で、当時の応援歌の中では、個人的に一番好きでした。
今、思うと近藤氏は、星一徹にも見えました。
竜と聞いて中国を思い出してしまうような、このご時世。もう一度名古屋球場にあの竜の雄叫びを、と切に願いますな。
こういった話は、おもしろく伝わるので、チェンジアップのほうが本当かもしれませんね。
東海地方のTV局において、日本ハム監督就任時、「ストップ・ザ 西武」を力説してみえました。
東京の某TV局でも、力説していたのを見たことがあります。
当時は、西武黄金時代。
近鉄の感動の優勝に、間接的に貢献したのは、近藤氏だと僕は信じています。
巨人も必ず台頭してくるでしょう!!
阪神・ヤクルトしかり・・・
今シーズンのセ・リーグは希にみる激戦になると思います。
さて近藤さんといえば、仰木さんよりも先に「ダンディ」と言われた監督さんでした。
なぜか抗議シーンを思い出します。
スーパーカートリオも彼の命名でしたね。
お年での采配でしたが、アイデアマンでした。
また少し寂しくなりました。
東部の田舎育ちです。
近藤貞雄氏が亡くなられたのは大変残念です。
近年、あまり姿を見掛けないなぁと思ってはいました。
ドラゴンズの御意見番でもあった近藤氏のご冥福をお祈り致します。
今年こそは52年振りの日本一を!!