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「すっかり右傾化して、しきりに敵を作りたがっている一部の(で在って欲しい)日本の若者に言いたい。戦争が起こっても、小泉純一郎も安倍晋三も戦場には行かないんだよ。行って殺し合うのは、君達なんだという事が判っているのか。自衛隊に入らなければ大丈夫とせせら笑っているが良い。そう簡単には済まないのだ。『敵が居なければ、戦争は起こらない。』」 (大橋巨泉氏、「週刊現代」連載コラム「内遊外歓」より)
「軍隊が国民を守ってくれるというのは誤り。ソ連が満州に侵攻した際、日本の陸軍は自国民を捨てて我先に逃げ出したし、沖縄にアメリカが攻めて来た時もそうだった。結局、軍隊が守るのは軍隊(という組織)なのだ。」 (西村京太郎氏、「韓国新幹線を追え」より)
「(堀江貴文氏が証券取引法容疑で逮捕されて以降)堀江君を自分達と同じ世代と感じる多くの若者は、今回の事件に上の世代からの攻撃、悪意を感じている。」 (大学時代の堀江氏のゼミを担当していた船曳建夫・東京大学教授、東京新聞より)
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最近読んだ文章で、印象に残ったものを3つ挙げてみた。(西村氏の文章に付いては、手許に当該作品が無い為、記憶に頼って書いた。多少の違いは御容赦願いたい。)パッと見は何の関連性も無い文章だが、微妙にリンクしてはいまいか?
一つの事象に対して、「正義v.s.悪」という安直な対立構図を作り上げるのが、マスメディアの常套手段。昔からこんな遣り方が行なわれて来てはいたが、昨今に於いてはその度合いが酷くなって来ている様に思う。そして受け取る側の人々も、そういった色分けを極度にする様になった気もしている。
特定の国や新聞、組織、人物等に対して、激しい嫌悪感を打ち出し徹底的に叩く。確かに、その対象物には自分も嫌悪感を持つ所も在るし、非難する気持は理解出来る。でも、「A国及びA国民は全ておかしい!」とか、「B新聞の書く事は全て間違っている!」といった論調でのバッシングが目立つのは、何処かおかしくなはないだろうか。例え相容れない相手で在っても、端から全面否定では何もプラスのモノは生まれて来ない。「此処は間違っているが、この部分に付いては正しいと思う。」といった是々非々のスタンスこそが必要ではないか。(かく言う自分も、人の好き嫌いが激しいので偉そうな事は言えない。
でも、出来得る限り第三者的な視野で見る努力はしているつもり。)
映画「理由なき反抗」の例を挙げる迄もなく、何時の時代に於いても、若者は大人や既存の組織に対して、反抗的な気持を持っているに違いない。自分もそうだったし、その様な気概を持つのは決して悪い事では無いと思っている。そういった気概が盛り上がり、新しい時代を作り上げて行った事も在ったろう。だから、堀江氏にシンパシーを覚えてエールを送り続けて”いた”若者が居るのも当然だろう。しかし、容疑が確定した訳ではないにしても、逮捕されたという事実を前にして、「これは上の世代からの攻撃だ!」で片付け、エールを送り続けるというのはどんなものだろうか?これでは、単に贔屓の引き倒しで在り、現実逃避ではないだろうか。
自分と相容れない存在としての「敵」を作り上げ、その敵を徹底的に叩く。嘗て、「鬼畜米英」をスローガンに掲げ、泥沼の戦争に突入して行った我が国。その過ちを繰り返さない為にも、国民個々が「敵を作り上げる競争」に明け暮れるのではなく、どんな相手で在っても、「正しき事には支持、誤った事には批判」するといった”流されない”思考を持つ事だと思う。戦争に突入した場合、一番の被害者は為政者等ではなく、一般国民なのだから・・・。
「すっかり右傾化して、しきりに敵を作りたがっている一部の(で在って欲しい)日本の若者に言いたい。戦争が起こっても、小泉純一郎も安倍晋三も戦場には行かないんだよ。行って殺し合うのは、君達なんだという事が判っているのか。自衛隊に入らなければ大丈夫とせせら笑っているが良い。そう簡単には済まないのだ。『敵が居なければ、戦争は起こらない。』」 (大橋巨泉氏、「週刊現代」連載コラム「内遊外歓」より)
「軍隊が国民を守ってくれるというのは誤り。ソ連が満州に侵攻した際、日本の陸軍は自国民を捨てて我先に逃げ出したし、沖縄にアメリカが攻めて来た時もそうだった。結局、軍隊が守るのは軍隊(という組織)なのだ。」 (西村京太郎氏、「韓国新幹線を追え」より)
「(堀江貴文氏が証券取引法容疑で逮捕されて以降)堀江君を自分達と同じ世代と感じる多くの若者は、今回の事件に上の世代からの攻撃、悪意を感じている。」 (大学時代の堀江氏のゼミを担当していた船曳建夫・東京大学教授、東京新聞より)
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最近読んだ文章で、印象に残ったものを3つ挙げてみた。(西村氏の文章に付いては、手許に当該作品が無い為、記憶に頼って書いた。多少の違いは御容赦願いたい。)パッと見は何の関連性も無い文章だが、微妙にリンクしてはいまいか?
一つの事象に対して、「正義v.s.悪」という安直な対立構図を作り上げるのが、マスメディアの常套手段。昔からこんな遣り方が行なわれて来てはいたが、昨今に於いてはその度合いが酷くなって来ている様に思う。そして受け取る側の人々も、そういった色分けを極度にする様になった気もしている。
特定の国や新聞、組織、人物等に対して、激しい嫌悪感を打ち出し徹底的に叩く。確かに、その対象物には自分も嫌悪感を持つ所も在るし、非難する気持は理解出来る。でも、「A国及びA国民は全ておかしい!」とか、「B新聞の書く事は全て間違っている!」といった論調でのバッシングが目立つのは、何処かおかしくなはないだろうか。例え相容れない相手で在っても、端から全面否定では何もプラスのモノは生まれて来ない。「此処は間違っているが、この部分に付いては正しいと思う。」といった是々非々のスタンスこそが必要ではないか。(かく言う自分も、人の好き嫌いが激しいので偉そうな事は言えない。

映画「理由なき反抗」の例を挙げる迄もなく、何時の時代に於いても、若者は大人や既存の組織に対して、反抗的な気持を持っているに違いない。自分もそうだったし、その様な気概を持つのは決して悪い事では無いと思っている。そういった気概が盛り上がり、新しい時代を作り上げて行った事も在ったろう。だから、堀江氏にシンパシーを覚えてエールを送り続けて”いた”若者が居るのも当然だろう。しかし、容疑が確定した訳ではないにしても、逮捕されたという事実を前にして、「これは上の世代からの攻撃だ!」で片付け、エールを送り続けるというのはどんなものだろうか?これでは、単に贔屓の引き倒しで在り、現実逃避ではないだろうか。
自分と相容れない存在としての「敵」を作り上げ、その敵を徹底的に叩く。嘗て、「鬼畜米英」をスローガンに掲げ、泥沼の戦争に突入して行った我が国。その過ちを繰り返さない為にも、国民個々が「敵を作り上げる競争」に明け暮れるのではなく、どんな相手で在っても、「正しき事には支持、誤った事には批判」するといった”流されない”思考を持つ事だと思う。戦争に突入した場合、一番の被害者は為政者等ではなく、一般国民なのだから・・・。

仮に若者の一部に「日常への不満」のあまり戦争という異常事態への一種の“憧れ”があるとしたら怖いです。少年漫画誌には「戦いモノ」が多いのは自然ですが、近年のそうした漫画(表面的な感想ですが)には「日常への不満」が特に盛り込まれ、読者もそれに共感しているようにも思えます。これは「男は戦いが好き」「日常は退屈に感じがち」と言ってしまえばそれ迄でしょうが、気になる所です。
太平洋戦争時の沖縄の教訓は我々に何を問うのでしょうか。軍隊は国を守る為に存在している。国を守る、とは国民を守る事なのでしょうが…。奇麗事では片づけられない、現実があるのでしょうけどこれは戦争を知らない私には深く考えども結論の出ない問題です。
最後の堀江氏についての話、ですが。昔から特に若い世代と中・老年世代の対立はありましたが、今の日本ではその対立は大変深くなりつつあるように思います。上の世代はこれ迄の常識が通用しなくなった社会に余り適応できず不安や不満を覚え、下の世代はその実力重視の競争社会に適応できる者は適応していくが一方で“年功序列”が以前存在するこの社会に閉塞感を感じる者もいる。
全て一緒くたにはできませんが、堀江氏への評価が年齢によって異なる向きがある事も今の日本が世代間で意識の差が激しい事を表しているのかもしれません。
いずれにしても「敵」を作り上げる事は感心できません。そこには自分が「絶対正しい正義」で相手が「絶対間違っている悪」という考えが透けて見えるような気がしてしまいます。感情は人間の大事な部分ですがそれに身を完全に預けてしまってはいけないでしょう。感情論は水掛け論にしばしばなってしまいます。幾ら「相手が嫌い」でも、特にそれが国と国の関係ではどこかで折り合いを見つけ付き合っていかなければならないのではないでしょうか。
個人であれば隣人が嫌なら引越しすればいいです。しかし隣国の政治体制が変わる事はあっても、国家として存在する限りいつまでも「隣国は隣国」であり、とんでもない地殻変動で世界地図が大きく変化でもしなければ彼らとの近所づきあいからは逃れる事は決してできません。
「敵」視するだけでは何も生まれません。批判すべきは批判し、逆に私達も自分達が批判されるような事をしていないか時々省みるべきでしょう。ともかく「『敵』を作る競争」なんて無意味で不毛ですし、何より哀しいだけだと思います。
以前、美輪明宏氏が書いていた事なのですが、或る時街を歩いていると後ろから、「この前の殺人犯って未成年だろ?どうせ死刑にならないんだから、もっと一杯殺しちゃえば良かったのになあ。」という会話が聞こえて来たのだとか。ビックリして後ろを振り返ると何人かの学生(中学生位の子と書かれていた様に記憶しますが。)が話している会話だったそうです。美輪氏の形相を見て、「おー怖い!」と笑いながら逃げて行ったそうですが、美輪氏は冗談にも言って良い事といけない事の区別が付かなくなっている事の恐ろしさを語っていました。
精神的に未成熟な頃って、大人の立場からするととんでもない事を平気で言ってしまうものでは在りますが、この発言といい、「戦争すれば良い。」と軽々しく口にする風潮といい、一寸従来のタイプとは異なる部分を感じます。それはhigu様が書かれる所の「日常の不満が嵩じて、異常事態への憧れ(これは非現実的な世界への逃避とも言えるかと思うのですが。)」が根底に在る様に自分も思います。
「それ迄の価値観を全て否定され、自信喪失した大人達と、民主主義という新たな息吹を胸の奥底迄吸い込めた子供達」といった状況に在った戦後間もない頃の世代間の意識の差も凄かっただろうなあと思いますが、現在の世の中もそれに近い差が在るのでしょうね。その差を”迎合”という形ではなく、如何に”御互いが”納得して歩み寄って行くか、それがこれからの大人達と子供達に与えられた命題でしょう。
「敵を作る競争」に汲々としているのは、唯々不毛なだけです。
そういう風潮っていつでもあるんですよね。
それで裏工作して忘れたころにニュースに出てくる。
最近じゃぁ建築偽装やLD問題やすごいですよね。
どんどん湧き出てくる。
俺は平和主義者だから敵は作りたくないし、戦争どころかケンカそのものが嫌いですわ。
まあ格闘技は別として・・・(^^;。
ただ、お互い伸びるように刺激していい意味でのライバルを作るってのは悪くないと思います。
暴力反対とか言いながら戦争しているわけですから、矛盾しているし被害にあうのは一般市民になりますね。
それはgiants-55さんのおっしゃるとおりですね。
でもそれはその奥に原因があるのでそこから解決しないといけないですね。
「正直者はバカを見る」そんな時代はとっくに終わっています。
メディアにしてもでっちあげが多いのでどこまで信用できるかが問題ですね。
普通の新聞は大丈夫だと思いますが、スポーツ系は大げさに書くので紛らわしいですね。
週刊誌になると売り上げを伸ばすことしか考えていないから半分以上はガセだと思います。
なぁんて偉そうなこと書いていますが、自己中心的な世の中はとっくに終わってるんですよね。
願わくば、世界中で文化の違い思想の違いを認め合えば戦争なんて起こらなくて済むんです。
俺は敵じゃなくて仲間を作りたいですね。
いつもそう思っています(^^)。
それと、うちのブログにリンクを張りたいんですが、よろしいでしょうか?
ところが、現状では『戦地』のイラクに自衛隊を派遣し復興支援と言う名の米軍支援を行っています。
確かに、僕は自衛隊の憲法内での位置付けをきっちり定めて、後ろ指刺されない良いうにすべきだとは思っておりましたが、現状の自衛隊の海外『支援』・国際貢献は再考の必要があると考えます。
さらに、朝日新聞も嫌いですし、韓国も中国にも好意的な印象は持っていませんが、ネット上に飛び交うこれらの全否定の感情にもついていけないと思ってます。もっとしたたかにならないといけないのにねぇと思ってます。