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太平洋戦争末期の1944年秋、連合軍の圧倒的な戦力を前に敗戦に次ぐ敗戦を喫した日本軍は、戦闘機に爆弾を搭載して敵艦に体当たりする特別攻撃隊、所謂「特攻隊」の編成を決める。「国の未来を背負って立つ若者達に対し、国体護持の為に死ね!」と軍部が命令を下したのだ。
特攻隊の基地が置かれた鹿児島県の知覧町で軍の指定食堂「富屋食堂」を営む鳥濱トメ(岸惠子さん)は、家族と遠く離れて出撃を待つ若者達が母親と慕う存在だった。出撃すれば二度と帰らない彼等を引き留める事も出来ず、唯、「此の世に少しでも未練を残さぬ様に。」と慈愛の心で彼等を見守るトメ。
死の恐怖に怯え、愛する人達と今生の別れをしなければならない哀しみや理不尽さに懊悩する特攻隊員達。「軍人としての本分を貫きたい。」という思いと共に、「死ぬ事が目的の作戦に従事する事が本当に意味の在る事なのだろうか?」という疑問を抱えて悩む中西少尉(徳重聡氏)は遺品の郵送を、そして仲間に先立たれて死を急ぐ板東少尉(窪塚洋介氏)は、自分が死んだ後に特攻に志願した事を父親に伝えて欲しいと、それぞれトメに託すのだった。
1945年8月15日、日本は敗戦の日を迎える。特攻隊員として出撃しながら生き残った中西達にとって、”生き地獄”とも言える日々が始まった。戦時中は「御国の為に命を捨てる”生きた軍神”」と賛美された彼等が、生き残って終戦を迎えると手の平を返した様に「特攻崩れ」と卑下され、死んで行った仲間達に対して罪の意識を持ち続けて行く事になったからだ。トメはそんな彼等の試練を、まざまざと目の当たりにする事となる・・・。
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井筒和幸監督が「大概にしときやと言いたい。戦争を美化する作品は嫌。若者を右へ倣えさせたいだけ。」とコメントし、それを受けて窪塚洋介氏が「この映画を見て戦争賛美だという奴はアホ。先ず作品を見てから言って欲しい。」と返した事でも話題になった映画「俺は、君のためにこそ死ににいく」を先日観て来た。当ブログをしばしば覗いて下さっている方ならば御存知の事とは思うが、自分は石原慎太郎氏が”人として”大嫌い。その理由を改めて書くのは控えるが、兎に角彼の言動に嫌悪感を覚える事数知れずという状態。そんな彼が特攻隊を描いた作品の脚本&製作総指揮に当たったこの作品、「どうせ『天皇陛下万歳!』と必要以上に叫ばせたり、『国家の為に死ぬ事は美しい!』といった価値観を押し付けまくりの作品なんだろうな。」という予想をしていた。ネット上では概して酷評が目立ち、自分も批判的な感想を記事で記す事になるのだろうなという思いも少なからず在った。唯、どんな作品を見る際にも心掛けているのは、極力先入観を排除した真っ新な頭で鑑賞するというスタンス。星野仙一氏と並んで大嫌いな石原氏の作品と雖も、そのスタンスは死守したつもりで在る。
見終わった感想は「結構良い作品じゃない。」というもの。表面的な部分で言えば、「天皇陛下万歳!」なんて台詞は一切登場しないし、「国家の為に死ぬ事は美しい!」的な描写も自分には感じられなかった。「国体の護持の為に死んで貰うのだ。」といった軍部の御偉いさんの台詞が在ったが、これだって戦争や死を美化しているのでは無く、戦争の虚しさを逆に感じさせる為のアンチテーゼとして入れ込んだ台詞の様に思えた。
機体にトラブルが在ったとして帰還する特攻隊員達に「生きて戻るとは何事だ!」と怒鳴り、整備担当者に対しては「徹底的に整備し、特攻隊員達に戻る口実を与えるな!」と指示する上官の姿。「先ず死ぬ事在りき。」の狂った世界に、背筋が寒くなった。「志願した兵士を特攻隊員とするのか?それとも、軍部として特攻隊員に命じるのか?」と迫る部下に、軍の御偉いさんが「志願では無く、命令に決まっている!死ぬ定めの特攻隊に、御前達が志願するかどうか考えてみろ。」といった言葉を返すシーンも寒々しいものが。戦争の虚しさが其処には在った。
突っ込み所が無い訳では無い。「桜が満開の季節に、蛍の大群が舞うというのは妙。」、「渡辺大氏(渡辺謙氏の息子。)や勝野洋輔氏&勝野雅奈恵さん(勝野洋&キャッシー中島夫妻の息子と娘。)等の二世タレントがやけに目立つなあ。それに主役の徳重聡氏の他に、宮下裕治と木村昇氏が出演って、これはナンチャラ軍団全面バックアップ作品?」、「最初に特攻隊員に任命された関大尉が、頭を抱えて懊悩するシーンがまるでコント。演じている的場浩司氏の演技力、申し訳無いけど下手過ぎ。」、「幼少時にはのっぺりした顔の少年が、15年経ったら非常に濃い顔に変わっているっていうのはどうなの?温水洋一氏みたいな顔の少年が居たとして、15年後にその子の顔がデーブ・スペクター氏みたいに変わっていたら、そりゃあ不自然でしょうが。」等々。
この作品が「戦争を美化している。」と捉える向きも在る様だが、「戦死者への敬意を描く事」と「戦争を美化している様な描かれ方」というのは紙一重の差と言え、その辺で個々に感じ方が異なるのではなかろうか。個人的には戦争を美化した作品とは感じなかったが、その作品からどういうメッセージを受け取ろうがそれは全くの個人の自由で在って、某所で見られた「この作品を非難するのは許せない!そんな反日な輩は『パッチギ!LOVE&PEACE』でも観ていれば良い!!」という書き込みはどうかと思う。「Aじゃ無ければ、その反対軸のBしか在り得ない!」といった非常に近視眼的な思考は、様々な可能性を自ら閉ざしてしまうだけではないだろうか。数多の犠牲者の下に、我が国の今の平和が在る訳で、戦死者の御霊に弔意を表したいというのは多くの人間が思っている事だと思う。なのに、御互いに言葉尻や表面的な部分だけを捉えて、やれ反日だ、やれ極右だと痛罵し合う虚しさは無い。
「国体護持の為に犠牲になれ。」というので在れば、先ずは上官達から率先するという考えは無かったのか?「上官が居なくなれば、指揮系統が混乱する。」なんて言い訳はしないで欲しい。それならば順繰りに、下に指揮権を移管して行けば良いだけの話。部下に「死」を押し付けながら、自らは安全な場所でヌクヌクと生き長らえた上官達に疑問を覚えるならば未だ判るが、不毛なだけの痛罵合戦はもう止めにした方が良い。
岸惠子さんや石橋蓮司氏の芝居の上手さも加味して、総合評価は星3つとする。
太平洋戦争末期の1944年秋、連合軍の圧倒的な戦力を前に敗戦に次ぐ敗戦を喫した日本軍は、戦闘機に爆弾を搭載して敵艦に体当たりする特別攻撃隊、所謂「特攻隊」の編成を決める。「国の未来を背負って立つ若者達に対し、国体護持の為に死ね!」と軍部が命令を下したのだ。
特攻隊の基地が置かれた鹿児島県の知覧町で軍の指定食堂「富屋食堂」を営む鳥濱トメ(岸惠子さん)は、家族と遠く離れて出撃を待つ若者達が母親と慕う存在だった。出撃すれば二度と帰らない彼等を引き留める事も出来ず、唯、「此の世に少しでも未練を残さぬ様に。」と慈愛の心で彼等を見守るトメ。
死の恐怖に怯え、愛する人達と今生の別れをしなければならない哀しみや理不尽さに懊悩する特攻隊員達。「軍人としての本分を貫きたい。」という思いと共に、「死ぬ事が目的の作戦に従事する事が本当に意味の在る事なのだろうか?」という疑問を抱えて悩む中西少尉(徳重聡氏)は遺品の郵送を、そして仲間に先立たれて死を急ぐ板東少尉(窪塚洋介氏)は、自分が死んだ後に特攻に志願した事を父親に伝えて欲しいと、それぞれトメに託すのだった。
1945年8月15日、日本は敗戦の日を迎える。特攻隊員として出撃しながら生き残った中西達にとって、”生き地獄”とも言える日々が始まった。戦時中は「御国の為に命を捨てる”生きた軍神”」と賛美された彼等が、生き残って終戦を迎えると手の平を返した様に「特攻崩れ」と卑下され、死んで行った仲間達に対して罪の意識を持ち続けて行く事になったからだ。トメはそんな彼等の試練を、まざまざと目の当たりにする事となる・・・。
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井筒和幸監督が「大概にしときやと言いたい。戦争を美化する作品は嫌。若者を右へ倣えさせたいだけ。」とコメントし、それを受けて窪塚洋介氏が「この映画を見て戦争賛美だという奴はアホ。先ず作品を見てから言って欲しい。」と返した事でも話題になった映画「俺は、君のためにこそ死ににいく」を先日観て来た。当ブログをしばしば覗いて下さっている方ならば御存知の事とは思うが、自分は石原慎太郎氏が”人として”大嫌い。その理由を改めて書くのは控えるが、兎に角彼の言動に嫌悪感を覚える事数知れずという状態。そんな彼が特攻隊を描いた作品の脚本&製作総指揮に当たったこの作品、「どうせ『天皇陛下万歳!』と必要以上に叫ばせたり、『国家の為に死ぬ事は美しい!』といった価値観を押し付けまくりの作品なんだろうな。」という予想をしていた。ネット上では概して酷評が目立ち、自分も批判的な感想を記事で記す事になるのだろうなという思いも少なからず在った。唯、どんな作品を見る際にも心掛けているのは、極力先入観を排除した真っ新な頭で鑑賞するというスタンス。星野仙一氏と並んで大嫌いな石原氏の作品と雖も、そのスタンスは死守したつもりで在る。
見終わった感想は「結構良い作品じゃない。」というもの。表面的な部分で言えば、「天皇陛下万歳!」なんて台詞は一切登場しないし、「国家の為に死ぬ事は美しい!」的な描写も自分には感じられなかった。「国体の護持の為に死んで貰うのだ。」といった軍部の御偉いさんの台詞が在ったが、これだって戦争や死を美化しているのでは無く、戦争の虚しさを逆に感じさせる為のアンチテーゼとして入れ込んだ台詞の様に思えた。
機体にトラブルが在ったとして帰還する特攻隊員達に「生きて戻るとは何事だ!」と怒鳴り、整備担当者に対しては「徹底的に整備し、特攻隊員達に戻る口実を与えるな!」と指示する上官の姿。「先ず死ぬ事在りき。」の狂った世界に、背筋が寒くなった。「志願した兵士を特攻隊員とするのか?それとも、軍部として特攻隊員に命じるのか?」と迫る部下に、軍の御偉いさんが「志願では無く、命令に決まっている!死ぬ定めの特攻隊に、御前達が志願するかどうか考えてみろ。」といった言葉を返すシーンも寒々しいものが。戦争の虚しさが其処には在った。
突っ込み所が無い訳では無い。「桜が満開の季節に、蛍の大群が舞うというのは妙。」、「渡辺大氏(渡辺謙氏の息子。)や勝野洋輔氏&勝野雅奈恵さん(勝野洋&キャッシー中島夫妻の息子と娘。)等の二世タレントがやけに目立つなあ。それに主役の徳重聡氏の他に、宮下裕治と木村昇氏が出演って、これはナンチャラ軍団全面バックアップ作品?」、「最初に特攻隊員に任命された関大尉が、頭を抱えて懊悩するシーンがまるでコント。演じている的場浩司氏の演技力、申し訳無いけど下手過ぎ。」、「幼少時にはのっぺりした顔の少年が、15年経ったら非常に濃い顔に変わっているっていうのはどうなの?温水洋一氏みたいな顔の少年が居たとして、15年後にその子の顔がデーブ・スペクター氏みたいに変わっていたら、そりゃあ不自然でしょうが。」等々。
この作品が「戦争を美化している。」と捉える向きも在る様だが、「戦死者への敬意を描く事」と「戦争を美化している様な描かれ方」というのは紙一重の差と言え、その辺で個々に感じ方が異なるのではなかろうか。個人的には戦争を美化した作品とは感じなかったが、その作品からどういうメッセージを受け取ろうがそれは全くの個人の自由で在って、某所で見られた「この作品を非難するのは許せない!そんな反日な輩は『パッチギ!LOVE&PEACE』でも観ていれば良い!!」という書き込みはどうかと思う。「Aじゃ無ければ、その反対軸のBしか在り得ない!」といった非常に近視眼的な思考は、様々な可能性を自ら閉ざしてしまうだけではないだろうか。数多の犠牲者の下に、我が国の今の平和が在る訳で、戦死者の御霊に弔意を表したいというのは多くの人間が思っている事だと思う。なのに、御互いに言葉尻や表面的な部分だけを捉えて、やれ反日だ、やれ極右だと痛罵し合う虚しさは無い。
「国体護持の為に犠牲になれ。」というので在れば、先ずは上官達から率先するという考えは無かったのか?「上官が居なくなれば、指揮系統が混乱する。」なんて言い訳はしないで欲しい。それならば順繰りに、下に指揮権を移管して行けば良いだけの話。部下に「死」を押し付けながら、自らは安全な場所でヌクヌクと生き長らえた上官達に疑問を覚えるならば未だ判るが、不毛なだけの痛罵合戦はもう止めにした方が良い。
岸惠子さんや石橋蓮司氏の芝居の上手さも加味して、総合評価は星3つとする。
特攻隊については、その成立過程から敗北を認めたくない戦争指導者たちの「現実逃避」に過ぎないと考えています。「私も後に続く」といった指揮官達のうち、その言葉を実行した者は数えるに過ぎません。特攻を命令したものと命令されたもののその心情の違いに憤りを憶えざるを得ません。
”石原慎太郎ワールド”が繰り広げられている作品かと思いきや、意外にもまともな描かれ方が為されていたので、拍子抜けしてしまったというのが正直な所。
「国体護持」の美名の下に、死ななければならなかった多くの御霊には心より弔意を表したいと思っておりますし、この作品がこういった描かれ方をしていた事にホッとしています。唯、o_sole_mio様も書かれておられます様に、内容がまともだっただけにタイトルはもっと考えて欲しかった。誤解を招きかねないタイトルでは無く、「知覧」といった様なスッキリしたタイトルの方が良かった様に思ったのですが、(o_sole_mio様の情報の様に)石原氏は元々違った描き方をしたかったというのが在ったのかもしれませんね。美しくも聡明な岸惠子さんには、流石の御仁も逆らえなかったという事なのでしょうか。
戦時中に生まれていなかった自分としては、あくまでも推測でしか物を言えない訳ですが、”時代の空気”というのが大きな力を持っていた様に思います。恐らく、あの頃の日本では少なからずの人間が「戦争は嫌だ。」と心の中で思っていたのでしょうが、隣組だ憲兵隊だの目が光っている中ではそういった思いを公然と言える筈も無く、愛する身内に”赤紙”が届いた際も「顔で笑って心で泣く」といった状況では無かったかと。「御国の為に子供を差し出せるなんて、これ以上名誉な事は無い。」等と口にする近所の人達も、自分達の身内が既に軍隊に召集されたり、或いは亡くなったりしているからこそ、「うちも送り出したのだから、貴方達が拒むのは許さない!」といった捩れた思いも在ったのでは無いでしょうか。色んな意味で、狂った時代の様に思います・・・。
石原慎太郎氏がレット・バトラーですか。数多在る映画の中でも一番好きな作品が「風と共に去りぬ」で、恐らく10数回はこれ迄に見ています。そしてレット・バトラーは同性の自分でも見惚れてしまう人物なんですよ。ですから、彼と石原氏を重ね合わすのは勘弁願いたい所ですが(笑)。
唯、唯我独尊で直截な物言いや、幼児性を秘めているという点では、確かにレット・バトラーに似ているのかもしれません。
でも、レット・バトラーには男の弱さから来る可愛さ?を感じるのですが、石原氏からは狡猾さしか自分は感じられないんですよ。
奇しくも慎太郎もスカーレットも、太平洋戦争や南北戦争で国家崩壊や価値観の天変地異を目の当たりにし、父親を亡くしたり廃人になったりで弱冠19歳にして家長になった点は共通していると思います。
同じく大嫌いな星野仙一氏がたまに的を射た発言をしている様に(笑)、石原慎太郎氏にも「それは言えている。」と同意出来る部分が無い訳では無いんです。唯、どうしても受け容れ難いのは、余りにも言動不一致さが目立つ点。憂国的発言が目立つのに、結果的にはその国から金を毟り取る様なみみっちさが時折見られるのが、どうしても駄目なんですよ(苦笑)。カリスマ性が在るのは認める所ですが・・・。
それにしても、スカーレット・オハラのあの逞しさは凄いですね。
それに「まばたき」が多いのが致命的。どんなにタカ派的言動が多くても所詮は人一倍気が弱い証拠です。
これでは国を憂いてなんとかしようにも金アサリにあけくれるのが関の山、なるほど、スカーレットやバトラーとは似て非なるものがありますね。
残念ながら、人類は今に至るまで「国際紛争の最終解決手段」として戦争以外の方法を見いだしていないのもまた事実なのです。
さて、国体を守る為にとか、神の教えに殉ずることに違和感を感じる人が多数派のようですが、最近起きた戦争では「民主主義を守る為」とか「人権を守る為」に多数の人と金が投入されました。大儀の中身こそちがえども、レトリックにさほどの差はないのに、違和感を感じる人は少ないようです。もし、民主主義や人権思想が間違っていたとしたら、その為に死んだ人々に対して大衆はどう扱うのでしょうかねえ。