今回の熊本地震は、「4月14日21時26分頃に、熊本県熊本地方を震源として発生した、マグニチュード6.5、最大震度7の地震。」が当初は本震とされていたが、其れから1日以上経った「4月16日1時25分頃に、熊本県熊本地方を震源として発生した、マグニチュード7、最大震度6強の地震。」が本震で、14日(21時26分頃)の地震は前震だったと訂正された。“余震の多さ”や“震源地が東に移動している様な点”等、従来の地震とは違うタイプの様な所が、実に不気味。
14日の前震でも、其の被害の大きさに暗澹とさせられたが、16日の本震災により被害は一気に拡大し、報じられる情報や映像を見て愕然とさせられる許り。
今から四半世紀近く前、阿蘇を旅した際に地元のおっちゃんから「一般的には知られていないけれど、ツーリングしている連中の間では『泉質が良く、風情が在る温泉。』と口コミで広まった、御薦めの温泉が近くに在りますよ。」と教えて貰い、実際に訪れたら非常に良い所で、以降、3度利用させて貰った地獄温泉の清風荘も、大きな被害を受けたと知り、心が痛む。
現地からリポートする人達を見ていて、少し気になる点が在る。余震の多さから、リポートしている最中に地震が発生する事が結構在り、慌ててしまうのは判らないでも無いけれど、言葉遣いやら表現が滅茶苦茶だったりするのだ。普段の生活から意識して、きちんとした言葉遣いや表現をしていない事も在るのだろう。
1995年に発生した「阪神・淡路大震災」では、現地に乗り込み、ヘリコプターで被災地の様子を伝えた筑紫哲也氏が、到る所で火災が発生している状況を「丸でまるで温泉街に来ている様です。其処ら中から、煙が上がっています。」と発言し、「悲惨な被災地を、温泉街に喩えるとは不謹慎だ!」等と大バッシングされた。筑紫氏の言わんとしていた事は理解出来るけれど、被災者達の事を思えば、不適切な表現だったろう。
自分は、“言葉狩り”の様なムーヴメントが好きじゃ無い。だから、言葉遣いや表現に対していちゃもん付けの様な事をしたくは無いのだが、其れでも「被災者達に配慮した表現をして欲しいな。」と思う事が、今回の地震でも結構在る。
大陥没し、幅広く寸断された道路の前から、若い若い男性記者が「道路が、“見事に”寸断されています!」と伝えていた。“見事”という言葉には、確かに「すっかり。」とか「完全に。」という意味は在るものの、一般的には「素晴らしい。」という意味合いが強いと思うし、「道路が、“完全に”寸断されています!」と表現した方が良かったのではないか。
又、被災状況を伝える若手女性アナウンサーが、「生き埋めが居(い)ます。」と何度も口にしていた。物では無いのだから、「生き埋めが居(い)ます。」というのは無いだろう。「生き埋めとなった方が居(お)られます。」等、もっと適切な表現が在ったと思う。
日常でなら話は別だが、大地震で身も心も疲弊しておられるで在ろう被災者達は、一寸した言葉遣いや表現によって、大きく傷付けられる事が在るだろうし、だからこそもっと配慮した表現を、報道する側には御願いしたい。
見方を変えればあらかじめ用意された無難な言葉でなく、惨状をナマの言葉で伝えたいという本音の言葉なのかもしれません。
しゃべりのプロとしては恥ずかしい、と言ってしまえばそのとおりなのですが。
giants-55さんもその辺のところは十分理解したうえでのコメントなので、私が口出しするまでも無かったですね。
「被災者達に、もっと配慮した表現をすれば良いのに。」と思う一方で、“見事に”という表現には、「普段の“台本(事前の打ち合わせ)に従ってのリポート”とは違う、“生の声”が出てしまったんだろうな。」という感じはしました。
余りにも非現実的で、且つショッキングな光景を眼前にしてしまうと、彼の筑紫氏ですら不適切と捉え兼ねられない言葉を口にしてしまう。そういうのは在るんでしょうね。
今回の地震では、ローソン等一般企業から、被災地に逸早く物資が届けられている。例えばローソンでは「震度6以上の地震が発生した際、本社で直ぐに緊急対策本部を立ち上げ、“事前に決められている段取り”(被災地に近い場所から、物資を具体的に届けるか等。)に基づいて対応する等、過去の大震災が教訓とされているそうです。阪神・淡路大震災や東日本大震災等では、多くの人命が失われましたが、彼等の死が無駄になっていないという現実は、辛い天災の中でも一筋の明かりに思えました。
言葉で人を動かすよりも、自分で発する言葉を操る方が、難しいのは、仰る通り、素が出るからだと思います。誰の為のニュースか、という事は、現地が最大限の報道から情報を引き出せねばならず、また、知人・親戚等が居る人々もあり、仕事に対する余念は不要だと思います。
それでも、一切の余念や悩みを断ち、隠す事は出来ないでしょう。今回の地震では、報道に緊張感があると思いますが、それも、言葉の枝葉にこだわれば、いくらでもアラは出て来ると思います。仕事をしている人、仕事に向かう人、それぞれが震災で失われた仕事とか、活動への敬意は失いたくないですね。
現場からのレポートは、非常に難しいと思います。より詳しく説明しようと思う余り、だらだらとレポートするのは駄目だし、だからと言って簡潔過ぎるのも、見ている側に伝わる物が無かったりする。感情移入し過ぎるのも、又、逆にドライ過ぎるのも良く無い。
自分が実際に現場に身を置いたら、今回指摘した人達と同じ事をしてしまうかもしれない。だから偉そうな事は言えないのだけれど、絶対に忘れていけないのは、被災者達への最低限の配慮。最近ではそういうのを見掛けなくなったけれど、一昔前は近しい人間の安否が判らない人間に対し、マイクを突き付けて、「今の御気持ちは?」なんぞとアホな質問をするレポーターも居た。そういう配慮の無さは、本当に止めて欲しいもの。
震災に遭われた方へのメッセージは必要で、その支援とか、中枢からの連絡が、そうした形で伝えられるのは、別段悪い事ではないと思います。メディアは双方向であるべきで、キー放送局からの出向であったり、場合によっては、必要とされる支援とか、政策を、現地の側から出される事があるべきと思いました。
昨日、報道番組を見ていた所、自宅が崩壊してしまった被災者(高齢者の男性)が、レポーターに対し、「自宅がね、もう見事に壊れてしまったよ。」と苦笑いを浮かべ乍ら話されていました。被災者で在る彼が、“見事に”という表現をされていた事で、「男性記者が“見事に”という表現を使った事に、『配慮が無いなあ。』と感じたけれど、考え過ぎだったのかなあ。」と思ったりもしました。
「そうした現地の状況は、マイナーな方よりも、カメラ映えする、メジャーな方が良い、という事なのでしょう。」、此れは在ると思いますね。日本人は概して“箔”に弱く、無名な人物よりも、少しでも名の知られた人物の言動を受け容れてしまう傾向が在るから。
「TVというメディアの役割が、昔程大きくなくなっている。」と良く言われますが、そうは言っても、未だ未だ影響力は大きい。取材を受ける側と視聴者を結び付け、一方からだけの発信では無く、双方からの発信の為の“軸”となるというのが、理想だと思います。