有川ひろ(昨年、「有川浩」から改名。)さんのエッセー集「倒れるときは前のめり ふたたび」を読破。最も印象に残ったのは、「読書感想文廃止論、加えて」というエッセー。「宿題で読書感想文を強制するのは子供さんの読書嫌いを加速させるだけだからやめてほしい、ということを今までも再々発信してきました(教育関係の方に会ったら必ず言います。)。」という有川さんの主張には個人的に反対(何から何迄強制というのは反対だが、「嫌な事は全て、する必要が無い。」という“ホリエモン的主張”は違うと思う。自身の経験から、子供の頃に親から強制されて嫌々して来て、結果として好きになれなくても、今となっては「していて良かった。」と、自身の“血肉”になっている事も在るので。「子供が嫌がるなら、強制はしない。」というのでは、子供の“可能性”を狭めてしまい兼ねないと思う。
読書感想文の強制に加え、有川さんが「勘弁して欲しい。」と思っているのは、「『学校の授業で作家に手紙を書く。』という課題が幅を利かせている。」という事。今はどうか知らないが、少なくとも此のエッセーが書かれた2016年10月頃には、結構流行っていた様だ。
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最近は「手紙を書く」という文化が廃れているため、学校で手紙の書き方を教える課題として教育現場で好まれているとか。どうか、これもやめていただきたい。宛名を「有川造」、「有川告」と間違える程度にしか私に興味のない子供さんの「上手に書いた作文」を大量に送りつけられても、正直言って困惑するばかりです。同じ地区・同じ学年、加えて同じ学校名が自己紹介で並べられた手紙が一時期に集中して届く時点で、学校の授業の課題だなという事は判ります。宿題としての強制力のある読書感想文が子供さんの読書嫌いを助長するのと同じように、さして興味のない作家に強制的に手紙を書かされるということも、読書に忌避感を抱かせかねないものだと思います。
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「好きな作家に手紙を書く。」という授業の課題自体は、決して悪い事では無いと思う。問題は「そういう手紙を、作家に送り付ける。」という事だろう。読書感想文なら強制で在っても、“採点”するのは教師だ。でも、手紙の場合は「採点する事も無く、作家に送り付けて終わり。」という事ではないのか?作家の側からすれば、「授業の課題として書か“された”手紙を、時には大量に送り付けられる。」というのは迷惑なだけ。「読まないで捨てる。」という訳にもいかず、結局は全て読まざるを得ないだろう。作品が本当に好きで書いた手紙とそうでは無い手紙では、伝わって来る“熱量”が確実に違い、限られた時間内で作品を仕上げなければならない売れっ子作家にとって、苦痛以外の何物でも無いだろう。
又、「交通費無し。ノー・ギャラで講演に来て欲しい。」という“御願い”が、学校関係者から結構来るそうだ。編集部が其の点を尋ねると、「子供の教育の為なのに御金を取るんですか?」と咎められる事もざらで、「無邪気に『教育の為なら部外者が無償で尽くしてくれて当然。』という考えの人が先生を遣っている事に、一寸目眩がします。」と有川さんは書いている。
有川さんも指摘している様に、“課題として送り付けられた手紙”を読むのも、講演をするのも、作家だけでは無い、少なからずの人達の“時間”が割かれる。だから、作家本人が自主的に「無償で講演しますよ。」と言うので無ければ、「教育の為なんだから、無償で講演するのは当然でしょ。」とするのは非常に傲慢な事だと自分も思う。“教育”という言葉を持ち出せば、全て許される訳では無いのだ。
有識者会議のメンバーで安倍政権に近い人物、有川博氏と間違えかけました(苦笑)。
「図書館戦争」の作者ですね。
学校で読書感想文を書かされたこと、私は嫌でした。
そもそも授業で習う文法の意味が分からず、作文も何を書けばいいのか、苦痛でしかありませんでした。
そんな私が作文嫌いでなくなったのは、中学校の図書室でSFに出会ってからでした。
世の中にこんな面白い小説があったのか、自分でも書いてみたい・・・と。
なので興味を持って本を読むことで、理詰めで詰め込む「文法」ではなく、文章のながれから自然と決まり事を覚えていったと言えるでしょう。
他人の文章を読んで「てにおは」に違和感を持つことはあっても、文法の「五段活用」や「助動詞」の意味などは未だに理解しきれていません(苦笑)。
勉強だからと言って嫌なことを強制するより、興味を持てるよう仕向けることが大事なんだと思いますね。
作家などに対する無償での講演依頼なども、教育だからという半強制ではなく、作家自身が興味を持って動いてくれるよう仕向けるのが筋でしょう。
今はどうか知りませんが、50年前は私たちアマチュアがSFイベントをするとき、普通なら講演料1時間数十万円以上の有名作家が、講演料どころか、交通費まで自腹の手弁当で参加してくださったものです。
今思えば赤面の厚かましさですが、作家自身も日本でSFを普及させたいとの熱い思いがあってのことだったんでしょうね。
良い時代でした。
そうそう、「図書館戦争シリーズ」等の書き手で在る有川ひろさんです。有川博氏では在りませんけれど、其の書く文章を読むと、彼女にも“其方寄りの思考”を感じなくも在りませんが。
学科としての「歴史」が苦手という人は、概して「歴史=年号等、記憶するだけの学問」という意識が強い様に感じます。試験の関係も在り、どうしてもそういう部分は拭えない訳ですが、「歴史」は本来「同じ過ちを繰り返し勝ちな人間が、先人達のして来た事を学ぶ事で、出来る限り過ちを繰り返さない様にする。」というのが大事な気がしています。どんなに文明が進歩した所で、人間のする事ってそんなに変わる物じゃ無いし。
学科としての「国語」も同様で、悠々遊様が書かれている様に「五段活用」だ何だという事を覚える事に汲々とさせられ、其れが故に「読書」自体が嫌いになってしまうのは、実に本末転倒。
唯、自分から進んで「読書」という道を見付けられる子は良いのですが、そうで無い子にとっては或る程度の強制も必要な気がしています。飽く迄も“或る程度”で在り、其れでも子供本人が「嫌。」というので在れば、其れ以上は強制せず、子供の意思に任せる。ですから、悠々遊様が書かれている「興味を持てる様仕向ける事が大事。」というのは、全く同感です。
SF黎明期だからこそ、手弁当で参加してくれた作家氏の話は、ぐっと来る物が在りますね。彼等の熱意は間違い無く在ったと思いますが、其れに加えて“出版関係の環境の違い”というのも在ったかも知れませんね。「出版関係の厳しさが言われて久しく、手弁当で行きたくても行けない。」、今はそんな時代なのかも。昔は“作家の善意”で、何とか回るだけの余裕が在った様にも感じます。
万分の一も恩返ししたいうちに、亡くなられたことは、慙愧にたえません。
手塚治虫氏が話していたと思うのですが、我が国のSF黎明期、SF作品は“悪い意味で”「子供向け。」というレッテルが貼られていて、手塚氏を含めた作り手達は悔しい思いをしたし、だからこそ「『万人向けの素晴らしい作品なのだ。』という事を知って貰う為必死だった。」と。そういう先人達の強い思いが在ったからこそ、多くの名作が生み出されたし、幅広く愛される存在になったのだと思います。