日テレG+の番組「徳光和夫の週刊ジャイアンツ」【動画】で、3週に亘って「レジェンド 還暦三人衆 飲み会SP」というコーナーが放送された。1970年代後半から1980年代に掛け、投手としてジャイアンツを支えて来た西本聖氏、角盈男氏、そして定岡正二氏の3人をゲストに迎え、後輩の元木大介氏が色々聞き出すという内容。昨年、揃って還暦を迎えた3人が、酒を飲み乍らという事も在ってか、結構際疾い話を口にしていた。
「今のジャイアンツに対する思い」や「地獄の伊東キャンプ」(「定岡投手が、参加させて貰っていなかった。」というのは、初めて知る事実だった。)等、とても興味深い話が多かった(江川卓投手に対して、西本投手が強いライヴァル意識を持っていたのは有名な話だけれど、角&定岡両投手も、当時は江川投手に対して複雑な思いを持っていた事が、会話から窺い知れた。)のだけれど、第3回目の昨夜は「3人がジャイアンツを“離れる”時の逸話」も、中々の内容。
本題に入る前、1979年の「ジャイアンツ・小林繁投手とタイガース・江川卓投手との電撃トレード」の裏側が明らかにされた。当初、タイガース側がトレード要員として要求したのは、西本&角両投手だったと言う。然し、ジャイアンツ側の或る人物が「2人は将来的に良くなるので、ジャイアンツから出しては駄目。」とした事で、代わりに小林繁投手がトレード要員になったそうだ。古くからのジャイアンツ・ファンだが、此の話は全く知らなかった。
で、3人がジャイアンツ離れる時の逸話だが、角氏の場合は1989年の事。新聞紙上ではプロ入り1年目(1978年)から、何故かトレード要員として良く名前が挙がっていたという角氏。上記した様に、1979年に自身がトレード要員となって以降も、トレード要員として何度か名前が挙がっていたが、1989年の6月下旬は「今季、自分がトレードされる事は無いな。」と安心していたそうだ。と言うのも、「6月末以降、トレードは出来ない。」という決まりになっていたから。
ところが、6月29日、遠征先の広島のホテルで休んでいた角氏の元をマネージャーが訪れ、「監督の部屋に来てくれ。」と伝えられた。当時の監督だった藤田元司氏の部屋に行くと、御偉いさんがずらっと揃っており、藤田監督から「力が衰えて来ている事から、今後は(角投手の)起用機会は減る。ファイターズの近藤貞雄監督から『角投手を先発で使いたいので、トレードして貰えないか?』という申し入れが在るのだけれど、どうだろうか?」と。「『どうだろうか?』と言われても、直ぐに返事は出来ない。」と考えた角氏は、「少し考えさせて欲しい。」と答えた。其れに対し、「東京に角氏だけ帰すと、試合前に彼が居ない事で『トレード要員になったのでは?』とマスコミが騒ぎ出すから駄目。」と他の人間がストップを掛けたが・・・。
「彼の時、『藤田さんって格好良いなあ。』と思った。」と前置きした上で、角氏は「そうしたら藤田さんは、『何言ってんだ。角の好きな様に遣らせてやれ。』って言ったんだよ。」と。
結局、東京に帰った角氏は、知人等に相談し、ファイターズに行く事を決意。以降、1992年にスワローズで引退する迄の3年間、プロの世界で生き続けた。
西本氏がジャイアンツを離れる事になったのは、角氏と同じ1988年オフの事。当時の代表から「トレードだ。」という電話が在った。藤田氏が初めてジャイアンツの監督を務めた1981年~1983年、自分としては「チームに多大な貢献をした。」という自負が在り、「来年(1989年)から再びジャイアンツの監督に復帰する郷土の先輩・藤田氏の為に、又頑張ろう。」と燃えていた西本氏としては、トレードに出されるというのが納得出来ず、藤田氏の元を訪ねた。其の時、藤田氏から次の様に言われ、納得してトレードに応じたと言う。
「藤田元司個人としては、御前を残して遣りたい。でも、監督・藤田元司としては、チームを勝たす事が、俺の仕事だ。チームを勝たす為には、(当時ドラゴンズに在籍していた)中尾孝義が欲しい。過去に、此の様な大型トレードは無いだろう。此れからのプロ野球発展の為に、ニシ(西本)判ってくれ。」。
前任の王貞治監督がまさかの解任となり、ジャイアンツの監督に復帰する事となった藤田氏。1980年に長嶋茂雄氏が電撃解任された際、後任の監督となったのも彼だった。“プロ野球界の至宝”とも言える長嶋&王両氏が解任された後に監督就任した事で、藤田氏への風当たりも結構強かったと記憶している。長嶋氏の後を継いだ時と同様、「チームの不振を理由に前任者が解任された以上、何としてもチームを強くしなければいけない。」という強い思いが藤田氏に在った事は、想像に難くない。「チームの為にずっと頑張って来てくれた人間で在っても、チームを強くする為には放出も止むを得ない。」という苦渋の決断が、西本氏への言葉からは感じられる。「百条委員会で、結局は全てを“部下の所為”にしていた様な女々しい御仁。」には、到底吐けない言葉だ。
其れから7~8年位経った時、東京の或るホテルで開かれたパーティーで、西本氏は藤田氏と会った。藤田氏は傍に居た川上哲治氏に、「川上さん、僕は西本に借りが在るんですよ。」と言ったそうだ。こういう上司なら、部下も惚れ込んで頑張るだろう。
西本氏は、移籍したドラゴンズで大活躍。其の後、ブルーウェーブを経て、1994年、復帰したジャイアンツで引退する事に。
最後に定岡氏だが、ジャイアンツを離れる事になったのは1985年オフの事。唐突に球団から電話が在り、「バファローズとのトレードが決まったから。」と言われたそうだ。角氏の様に部屋に呼ばれて通告されたのでも無く、監督から説明を受ける事も無かった定岡氏は、何度も「2人は良いよな。」と言っていた。今でも当時の蟠りを持っている様な定岡氏に、角氏がニヤッと笑い乍ら、「其の時の監督って誰よ?」と(判っていて)聞いた所、定岡氏が「其れは言えないよ。」という様な引き攣った顔をし、テーブルの下で角氏を突っ突いていたのが、とても笑えた。(当時のジャイアンツの監督は王貞治氏。)
「ジャイアンツで野球人生を終えたい。」と考えていた定岡氏は、球団からのトレード通告を拒否。「トレード通告を拒否すれば、“引退”か“残留して飼い殺し”という2つの選択肢しかなかった当時。」故、定岡氏は此の年で引退する事に。