
「十人十色」という言葉が在るけれど、或る事柄に付いてどう考えるかは、人其れ其れ異なって当然だと思う。明々白々に違法だったり、他者に迷惑が掛かる場合は別だが、そうじゃなければ、どう考えようが個人の自由だ。
「死刑制度」も同様で、賛否色々在って良い。「職務放棄か?はたまた完遂か?」等、過去に何度か記事にした様に、個人的には死刑制度に賛成の立場だが、でも、だからと言って「殺人者=全て死刑」と考えている訳では無い。「北斗 ある殺人者の回心」等、此れ又過去に何度か触れている様に、「永山則夫連続射殺事件」を引き起こした永山則夫元死刑囚の如く、残忍な殺人を繰り返すも、其の余りに過酷な生い立ちを考えると、情状酌量を願ってしまうケースも在るから。
「永山則夫連続射殺事件」の詳細に付いては上記のリンク先を見て戴ければと思うが、「1968年10月11日から11月5日という短期間に、東京、京都、函館、名古屋の4ヶ所で、4人が射殺された事件。」だ。犯人として逮捕されたのは当時19歳の少年・永山則夫。「見ず知らずの人間を、無差別に殺害。其れも犯人は、19歳の少年。」という事実は世間を震撼させたが、徐々に明らかとなった彼の余りに過酷な生い立ちに、人々は改めてショックを受ける事に。
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日本社会を震撼させた、19歳の少年による連続射殺事件。其の犯人、永山則夫が全てを語り尽くした膨大な録音テープの存在が明らかになった。100時間を越える独白から浮かび上がる、犯罪へと向かう心の軌跡。人が人を裁く事の意味を問い続け、講談社ノンフィクション賞、新潮ドキュメント賞を受賞した著者が再び永山則夫に向き合い、「貧困が生み出した悲劇」と言われて来た事件の背後に隠された真実に迫る。
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「永山則夫連続射殺事件」に関するノンフィクション作品を、過去にも手掛けられた堀川惠子さん。今春、彼女が上梓した「永山則夫 封印された鑑定記録」を読了した。
1974年1月16日から約3ヵ月間、八王子医療刑務所内で、当時、犯罪精神医学者として嘱望されていた精神科医・石川義博氏(当時24歳)による面接&精神鑑定が行われた。完成した「永山則夫精神鑑定書」は、「PTSDに着目した日本初の鑑定書」としても有名だが、面接した際に録音された約100時間分のテープが、石川氏の手元に保管されており、其れを元にして「永山則夫 封印された鑑定記録」は構成されている。
どういう理由が在るにせよ、殺人という行為が許される訳では無い。其れは、永山元死刑囚の場合も例外では無い。又、貧困の中で育ったからと言って、皆が皆、犯罪に手を染める訳でも無い。極貧生活を送り乍らも、立派な大人になった人は少なく無いのだから。
其れは判っているのだが、今回の本で改めて永山元死刑囚の生い立ちを振り返った時、知らなかった事実も含めて、其の余りの過酷さに、「自分がもし彼の立場だったら、100%犯罪に手を染めないで来れたと、果たして断言出来るだろうか?」と悩んでしまう。「貧困が生んだ犯罪」と単純に括れない様々な要素、特に「根深い恨み」というのが、「永山則夫連続射殺事件」の背後に感じられた。
8人兄弟の7番目の子(四男)として生まれた彼。林檎の枝の剪定師として優秀だった父(勉強も可成り出来た様で、彼の子供達は概して優秀だったと言う。)が、家族に暴力を振るう等粗暴な面が在り、軈ては博打に狂い、家を出てしまう。行商をしていた母は子供達に対して無関心で、幼い子供達だけを残して、何度か家を飛び出す。一番年上でも10歳前後の子供達(当時、永山元死刑囚は4歳。)を、長期間放置状態にしていたというのは、とても理解出来ないし、乞食同然の暮らしを送っていた子供達の事を思うと心が痛む。
そんな過去を(石川氏との面接時)母は時には笑いを浮かべて、淡々と語っている。「何故、そんなにも罪悪感が無いのだろうか?」と不思議でならなかったのだが、石川氏の聞き取りで明らかとなった母の生い立ちを知って、納得出来た。彼女自身も親からネグレクトされていたのだ。親から暴行を受け続けていたというのも然る事乍ら、「9歳で樺太に置き去りにされ(其の後、ロシアに渡る。)、12歳迄“1人で”生き続けた。」という事実は、過酷以外の何物でも無い。「負の連鎖」、即ち「親から虐待され続けて来た子供は、自分が親になった時、同様に子供を虐待してしまう傾向が強い。」を感じさせる話で、永山元死刑囚の母としては「自分が普通にされた事を、自分は子供達にしただけ。」という思いしか無く、其処に「罪悪感」が介在する余地すら無かったのだろう。
「御袋は、俺を3度捨てた。」と言い続けていたという永山元死刑囚。幼い子供達だけが残され、極貧生活を送る中で、兄(次男)から激しい暴力を受け続ける。他の兄は永山元死刑囚を馬鹿にしたり、完全無視したりしていた様だが、十代になった彼が最も依存するのが次男。其の理由に付いて石川氏は、「他の兄達が差別や無視をする中、非常に惨い事だけれど、次男は『殴る事による肌の接触』が在った。殴られるという接触でも、無視される等よりは、永山元死刑囚にとって増しだったのでしょう。人間にとって無視される事が一番辛く、厳しい事ですから。」という趣旨の分析をしているが、何とも遣り切れない話だった。
フョードル・ドストエフスキーの小説「カラマーゾフの兄弟」に登場する4人の兄弟の関係が、余りにも永山家の兄弟と似通っている事に驚かされる。親から疎外され、過酷な環境下で育って来た永山家の子供達は、長女を除いては概して他者に無関心で、冷淡な感じが見受けられる。永山元死刑囚以外の兄弟達、長男が学生時代に産ませ&捨て去った子供(永山元死刑囚にとっては、姪に当たる。)、そして永山元死刑囚の両親の其の後も記されているが、「悲惨」という一語に尽きる。「永山元死刑囚の事件によって、彼等の人生が狂わされた。」というのでは無く、悲惨さを生み出した根っ子はもっともっと遡った所に在る様に感じた。
読後にどう感じるかは人其れ其れだろうが、多くの人に読んで貰いたい1冊。
昔はこういう子の姿が見えていた。昭和40年代ぐらいまでは確かに見えていた。そしてそういう子を蔑視する大人たちの姿、見てみぬ振りする我々の姿が…。昔は良かったって言うけど、「善良な家庭人」が一皮向くとこういう子らに水かけて追い払う一面を持ってる世の中でもありました。
だからそういう大人がガマンならなくて革命を起こしたいと思う「子供たち」も一杯いた(過激なことをやるものだけではない。「うたごえ運動」とか優しい方向でがんばろうとした者もいたし、そういう子の方が実際は多かったですね。過激な奴は自分に酔って「歌って踊って革命か」とそういう子らを馬鹿にしていた。そんな根性では普通の人に好かれるわけがない)。
藤圭子の訃報にもそんな昔を思い出しましたよ。
今あの子の歌聞くとなんて歌詞だろうと思う。本当に「昭和」だと。でもあの頃はあの歌詞にリアリティーがまだあった。
藤圭子さんの件、飛び降り自殺をしたビルが新宿という事で、彼女のデビュー曲「新宿の女」を、そして其の波乱万丈な晩年を思うと、「15、16、17と 私の人生 暗かった 過去はどんなに 暗くとも 夢は夜ひらく♪」という「圭子の夢は夜ひらく」(http://www.mahoroba.ne.jp/~gonbe007/hog/shouka/keikonoyumewa.html)の歌詞を、どうしても思い浮かべてしまいました。
「彼の頃は彼の歌詞に、リアリティーが未だ在った。」、其の通りですね。彼女の歌は「演歌」というよりも「恨み歌」、そう「怨歌」という文字が当て嵌まる。
曲調等は全く違うけれど、さだまさし氏が作詞&作曲した「不良少女白書」(http://www.youtube.com/watch?v=_31EszeKiyw)にも、「圭子の夢は夜ひらく」と同じ匂いを感じてしまう。此の曲は1981年に発表されましたが、未だ此の頃にはそういった歌詞にリアリティーが在ったという事ですね。
唯、そういった歌詞の曲は見受けられなくなったけれど、仰る様に「過去に少なからず存在していた哀しい現実」が、今は無くなったという訳では無い。存在しない物として封じ込められただけで、だからこそ「考えられない様な幼児虐待やら残忍極まりない事件」が発生すると、人々は驚く一方で、そういった事実から意図して目を背けていた事を思い知らされ、何とも言えない気持ちになってしまうのでしょうね。
もしかしたら「この中」でやっと「人扱い」されたからこそなのかなあと思いました。「支援者」(確か「フランシーヌの場合」の歌手と結婚した?)、「読者」もそうでしょうけど、日頃会話する看守や雑用係りの受刑者仲間のような人たちとの生のふれあいがあったろうなあと。
此の本を読むと、逮捕される迄の永山元死刑囚は、日々を生き抜く事だけで精一杯という状況だった様に感じました。逮捕された事で多くの人との触れ合いが在ったのも然る事乍ら、多くの書物に当たる事で、自分の半生を振り返る時間も持てたのでしょうね。其の中で贖罪の思いも生まれたろうし、同時に「生への執着」というのも生まれたのかもしれません。