愛知県の幼稚園に通い、卒園後は矢張り愛知県の小学校に通った。父の仕事の関係で関東に引っ越したのは、小学3年生の新学期から。以降、中学に高校、そして大学も関東だ。詰まり「幼稚園は1校(園)、小学校は2校、中学は1校、高校は1校、そして大学は1校。」と、自分には合計で6つの“母校”が存在する。
幼稚園卒園したのは、もうウン十年も前の事。でも、“園歌”は今でも空で歌える。否、幼稚園だけでは無く、小学校から高校迄の4校に関しては、其の“校歌”を空で歌える。でも、時間的には一番近い大学の校歌は、全く覚えていなかったりするのだ。色々理由は在ろうが、「歌う機会が、幼稚園~高校に比べると極端に少なかった。」というのが大きいのだろう。
もう15年近く前になろうか、プライヴェートで愛知県に行った際、嘗て住んでいた場所を見て回った。引っ越してから1度だけ訪れた事が在ったのだけれど、其れからもう随分の月日が経っていた。住居も然る事乍ら、通っていた幼稚園や小学校も、余り雰囲気が変わっていない事に驚かされたもの。
インターネットが普及した事で、我々は多くの情報を即座に得られる様になった。勿論、嘘情報も少なく無く、きちんと検証する必要は在るのだけれど、“母校の今”を知る事は容易になった。以前ならば現地に実際に足を運んだり、現地の関係者に電話して確認したり、又は風の便りで知るというのが普通だったのに。
数年前、通っていた幼稚園が別の場所に移ったのを知ったのも、インターネットでだった。偶検索していて知ったのだが、「彼の場所には無くなってしまったのか。」という寂しい思いが。他の5つの母校に関しては、インターネットで知り得る限り、昔の儘の様だ。
「未来の年表 人口減少日本でこれから起きること」(著者:河合雅司氏)という本が注目を集めているが、此の本によると「2018年、国立大学が倒産の危機へ。」と在る。「18歳人口が急減し始め、定員割れは当たり前。学生の募集を停止する流れが加速するから。」だとか。2016年度に「入学定員割れ」した私立大学は前年度より7校増えた257校となり、既に全体の半数近い44.5%が学生を集められない事態に陥っているそうだ。少子化の影響は私立大学のみならず、公立大学や短大、高校、中学、小学校、幼稚園等にも及ぶのは必定。
「青山学院女子短期大学が2018年度を以て、学生の募集を停止する。」というニュースを知った時には、「彼の青短ですら、そんな状態なのか。」と驚いた。我が6つの母校が統廃合される可能性も、充分に在り得る時代なのだ。
年齢的にはKei様よりも大分下の“後輩”に当たる自分ですが、“同級生”の数は多かったです。1クラス45人位で、中学の時には10数クラス在ったと記憶しています。矢張りキャパが足りず、プレハブ校舎で授業を受けた事も。今では、考えられない状況でしょうね。
Kei様は実際に“母校”を失われた経験をされているという事で、其の喪失感の深さは相当な事でしょう。そういう経験をされる人が、今後はどんどん増えて行くのでしょうね。
「アベノミクスは成功している!」と安倍首相は連呼するも、実際には少なからずの人が景気回復を実感で来ておらず、寧ろ「生活が厳しくなった。」と捉える人が結構居る状況。“公約”の「2020年には基礎的財政収支(PB)の黒字化を果たす。」というのは無理な事が明らかになるも、アベノミクスの失敗は認めたくない。そんな事から、「消費増税をした場合、増収分の使い道を借金の穴埋めでは無く、子育て世代の為に回すので、PBの黒字化は無理となった。」と誤魔化しに利用しているのではないか?
彼だけ北朝鮮の脅威を訴え乍ら、そんな危機的な状況に在る筈なのに、大義名分の無い解散&総選挙を行う矛盾。安倍首相の親衛隊たるネット右翼が好んで使う表現に「息を吐く様に嘘を吐く」というのが在りますけれど、安倍首相の言動は正に其れ。5年前、国民約束した議員定数削減を一切行わず、“自身の趣味”許りをごり押しで押し通している彼だから、今回の公約も平然と反故にする事でしょう。
戦争が終わって、外地にいた兵士、居留民がドッと祖国に帰って来てベビーブームが到来し、おかげで私たちの世代は学校でも社会でも人数が多過ぎてキャパが足りず、いろいろと苦労させられました。
小学校に入る頃には、市内に学校の数が足りず、新しい小学校が建設されました。それでも教室が足りず、1クラス60人!で、後ろの壁際まで机を並べた為、授業参観では父兄が教室の中に入りきれず、廊下にはみ出して窓ごしに参観するありさまでした(笑)。運動場で朝礼やったらこれまた全員並びきれず、まさに芋の子を洗うような状態でした。
中学校に入学したらまだ校舎が建設中で、応急でプレハブ校舎で授業を受けました。おそらく日本中どこでも、生徒の急増に対応し切れない、そんな光景が見られた事と思います。
それから半世紀強。少子高齢化で新生児の数は急減し、私の故郷でも先年、2つあった小学校は統合され、とうとう私の母校の小学校が廃校となってしまいました。先日帰郷したら、校舎は取り壊され、市民会館が建っていました。
なんか、とても寂しい気分になりました。卒業から何十年経とうとも、小さい頃学んだ学校はいつまでも懐かしく思い出に残るものです。母校がなくなる事は、こんなに寂しく辛いものかと実感しております。
少子化は今後も続き、私のような思いをする人はもっと増えるでしょう。安倍首相は今頃になって消費税を子育て世代の為に使うとか言ってますが遅すぎます。まあこれとても後付けの解散名目、選挙が終われば反故にされそうな気もしますが。
“過ごして来た土地”をどう感じるかは、其の人が“今置かれている状況”というのにも、大きく影響されるでしょうね。今が幸せならば、過去の嫌な思い出も含め、「あんな事も在ったなあ。」と流して受け容れられる。でも、今がそんなに幸せで無いと、中々受け容れるのは難しいかも。
明石家さんま氏は「今生きていられるだけで丸儲け。」という思いを強く持っているそうですが、中年を迎えた辺りから、自分もそんな感じになっています。
「エリートが、其の辣腕を振るい成し遂げた事は、中央に偏り過ぎていると思います。」、其れは在りますね。都市機能を分散させる事で、中央一極化というのを少しは変えられるかもしれないけれど、近年の日本人の国民性(強きモノに付き従い、弱きモノを排除する。)というのを考えると、中央至上主義というのは大きく変わらない気もしています。
僕にとっては、学歴のキャリアで失敗しているので、大学は名古屋でしたが、心の底から好きだといえるのは、関東で、埼玉、東京などで過ごした日々は、20代後半ではありましたが、新たなキャリアが始まった時代として、忘れ得ぬものになっています。
人が「第二の故郷」と呼ぶ土地というのは、成功や失敗はあれど、そこに受け入れられた、という帰属心があるものでしょう。キャリアというレースに傾倒するではなく、人は何を生業としても生きて行ける、そんな気持ちになれる事が、大人になるという事でしょう。エリートにとってキャリアは誇りでしょうが、同じように、地域の絆は、それを求める人にとっては大切な帰属心の源だと思います。
何かをやったとか、成し遂げたという事があれば、そこは愛すべき土地となる筈です。エリートが、その辣腕を振るい成し遂げた事は、中央に偏り過ぎていると思います。それを、分散させる事は出来ないものでしょうか。