とあるスーパーでレジ係をしている、知り合いの女性から聞いた話。買い物籠を持った初老の男性の番が来た為、挨拶をした上でバーコードを読み取るべく商品を取ろうとした刹那、「商品に触るんじゃない!トイレに行って手を洗っていないかもしれないんだから、俺にバーコードの読み取りをさせろ!!」と怒鳴られた。客に読み取りをさせる訳にもいかないので丁重に断りを入れた所、散々怒鳴り散らした挙句に「それでは、使い捨ての手袋をはめてやれ!」と言われ、仕方なく従ったという。彼女の名誉の為に言うが、彼女の見た目は決して汚らしい感じでは無く、寧ろ小奇麗な方だ。後から判った事なのだが、この客は有名なククレーマーで、近年この手のクレーマーとしか思えない客が増えているという。
「AERA(6月4日号)」に「『感情労働』時代の過酷」という記事が載っていた。感情労働とは「働き手が表情や声や態度で、その場に適正な感情を演出する事が職務として求められており、本来の感情を押し殺さなくては遣り抜けない仕事。」を指す。元々は1980年代にアメリカの社会学者が、当時の航空会社の客室乗務員の労働実態を典型的な「感情労働」で在り、「感情の搾取」に当たると指摘した事から、社会学の用語として「感情労働」が使われる様になった。そして現代では看護や介護職、接客業、電話相談業、クレーム処理等、あらゆる職種に感情労働が求められて来ているという。記事の中では、幾つかの事例が取り上げられている。
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・ 2002年、札幌市内の病院で、患者の世話をする介護員として4年余り勤務していた20代の女性契約社員が、「笑顔が無い。」、「不満そうなオーラが出ている。」事を理由に、病院側から契約更新を拒否された。(その後、病院側の対応を不服とした女性は札幌地裁に病院を訴え、一審で勝訴。控訴審判決でも勝訴している。)
・ 2006年4月、東急東横線渋谷駅で30代の男性駅員が、切符を出さずに改札を通り過ぎた男性を呼び止めて事情を聞こうとした所、男性から暴言を浴びせられ唾を吐きかけられた。駅員は怒りの余り男性を殴ってしまい、諭旨解雇処分となった。
・ Aさん(42歳)が電器量販店の店員として働いていた頃、様々な苦情の嵐に見舞われた。「10年以上前に購入したTVが故障し、『欠陥商品だ!』と怒鳴り散らす客。」、「保証書を自分が紛失しておきながら、『無料で修理に応じろ!』と詰め寄る客。」、「入荷待ち商品の『御客様控え』の渡し方が気に食わなかったと言って、パート店員を延々と罵倒し続ける客。」、「帰省中に買った商品を、帰りの新幹線で使おうとして部品が足りない事に気付き、「直ぐ持って来い!」と車内から電話して来た若い男性。」等。
・ 数年前、所謂「底辺校」と呼ばれる高校で教師をしていたBさん(47歳)。暴力事件も日常茶飯事で、教師への暴力も珍しくなかったその学校で或る日、Bさんは掃除をサボっていた男子生徒を見付けて呼び止めた所、生徒はいきなり掴み掛かり「ぶっ殺されてえのか?」と叫んだという。「殴られても、あくまでひるまず冷静に。」というのが経験上の対処策だった為、Bさんはとっさに腕を後ろに組み、殴られる事を覚悟しながら冷静になる様説得。又、別の日に教頭から、いきなり辞職願を提出した後輩教師の説得を依頼されたBさん。辞職の理由を一切言わないというその後輩教師と2人きりになり、何とか聞き出した理由は「長年に渡る生徒達からの虐め」だった。掃除用具用ロッカーに閉じ込められたり、大型のゴミ箱に放り込まれたりしたのは、全て「自分の指導力不足。」と自責していたのだ。Bさんは教頭にその旨を伝え、対応を迫ると「まあ、指導力不足でしょう。」と教頭は言い放ち、結局後輩教師はそのまま辞職に。
・ 「給食の準備で忙しい時間帯、担任教師に『急ぎの電話』を入れ、『うちの子、風邪気味だから薬をちゃんと飲ませてよね。』と命令する母親。」、「運動会前日、『明日の天気は雨の様だが、何故雨の確率の低い日に設定しなかったのか?』と電話で詰問する親。」、「運動会の場所取りで前夜から門前に並び、近隣住民から注意を受けると『学校の対応が悪い!』とキレる親。」。
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「ひと相手の仕事はなぜ疲れるのか」を著した日本赤十字看護大学教授の武井麻子さんは、「人相手の仕事は昔から在っただろうと、働く側の問題点を指摘する声も在りますが、一概にそうでは無いと考えます。以前は顧客が常連や顔馴染みで在る事が多く、或る程度の親密さや信頼感が在りましたが、今は気質も好みも判らない不特定多数の人を相手にしなければなりません。しかも瞬間芸的なスピードで、感情労働が求められています。」と語る。
又、大阪大学大学院人間科学研究科の小野田正利教授は、学校に対する保護者や近隣住民の要求が刻々と「いちゃもん化」する底流に現代日本の「コンビニ・ファミレス文化」が在るのではないかと指摘している。「例えばコンビニでは立ち読みだけして出て行く客にも、店員が『有難う御座います。』と言いますし、ファミレスでは小さな子供が一人で来ても『いらっしゃいませ。』、『何になさいますか?』と声を掛ける。本来なら『立ち読みやめんかい。』、『キミ一人で来たらあかんで。』でしょう。こういう奇怪なコミュニケーションの積み重ねが、消費者サイドに間違った権利意識を植え付けてしまっている。」というのだ。コンビニやファミリーレストランが社会に定着する以前の「店」と「客」の関係性は今よりずっと人間的で直接的で在り、画一的にマニュアル化されてはおらず、その分、客の側も”緊張感”が在った。それが今は、「どんな状況で在れ、『消費者』は丁寧に扱われる事がサービスの最低基準で在る。」という或る種歪んだ客側の権利意識が在るのではないかと。
そして精神科医の和田秀樹氏は、「超消費社会」を要因の一つに挙げている。「生産が消費に追い付かなかった時代は物を作った側が強かったけれど、物が溢れて消費不況が慢性化した今ではサービス合戦しかない。その構図から『御客様』の側に物凄い甘えが許される環境が出来て、月並みなサービスでは満足出来ない消費者達が沢山育ってしまった。」と。
「消費者意識の変容」と「超消費社会」が生み出す、おびただしい量の過酷な感情労働。この流れを変える手立てとして和田氏は、「振り子」を適正位置に戻す事から始める可きと考えている。「学校と生徒、企業と消費者という関係性は、嘗ては立場が全く逆だった。例えば『森永砒素ミルク中毒事件』で会社は潰れなかった。そういう不適切な過去の力関係から、振り子が逆サイドに振れて、大きく振れ過ぎた。そろそろ振り子を適切な場所に戻して、『其処を超えると、唯のクレーマーだぜ。』ってラインを確立しないと、どんどんおかしな事になる。」と。
戦時中は「鬼畜米英」をスローガンに掲げながら、敗戦を迎えるとあっという間に西洋文化を吸収して行った我が日本人。一つのきっかけで世論が全く逆方向に一気に流れるこの国の国民性を考えると、振り子が極端に振れ過ぎたというのも頷ける所では在る。どの職種でも感情労働は多かれ少なかれ求められるだろうし、客を大事にしなければならないという考え自体は間違っていないと思うが、「客ならば何を言っても、何をしても許されるのだ!」といった大いなる勘違いは、もう好い加減是正される可きだろう。
「AERA(6月4日号)」に「『感情労働』時代の過酷」という記事が載っていた。感情労働とは「働き手が表情や声や態度で、その場に適正な感情を演出する事が職務として求められており、本来の感情を押し殺さなくては遣り抜けない仕事。」を指す。元々は1980年代にアメリカの社会学者が、当時の航空会社の客室乗務員の労働実態を典型的な「感情労働」で在り、「感情の搾取」に当たると指摘した事から、社会学の用語として「感情労働」が使われる様になった。そして現代では看護や介護職、接客業、電話相談業、クレーム処理等、あらゆる職種に感情労働が求められて来ているという。記事の中では、幾つかの事例が取り上げられている。
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・ 2002年、札幌市内の病院で、患者の世話をする介護員として4年余り勤務していた20代の女性契約社員が、「笑顔が無い。」、「不満そうなオーラが出ている。」事を理由に、病院側から契約更新を拒否された。(その後、病院側の対応を不服とした女性は札幌地裁に病院を訴え、一審で勝訴。控訴審判決でも勝訴している。)
・ 2006年4月、東急東横線渋谷駅で30代の男性駅員が、切符を出さずに改札を通り過ぎた男性を呼び止めて事情を聞こうとした所、男性から暴言を浴びせられ唾を吐きかけられた。駅員は怒りの余り男性を殴ってしまい、諭旨解雇処分となった。
・ Aさん(42歳)が電器量販店の店員として働いていた頃、様々な苦情の嵐に見舞われた。「10年以上前に購入したTVが故障し、『欠陥商品だ!』と怒鳴り散らす客。」、「保証書を自分が紛失しておきながら、『無料で修理に応じろ!』と詰め寄る客。」、「入荷待ち商品の『御客様控え』の渡し方が気に食わなかったと言って、パート店員を延々と罵倒し続ける客。」、「帰省中に買った商品を、帰りの新幹線で使おうとして部品が足りない事に気付き、「直ぐ持って来い!」と車内から電話して来た若い男性。」等。
・ 数年前、所謂「底辺校」と呼ばれる高校で教師をしていたBさん(47歳)。暴力事件も日常茶飯事で、教師への暴力も珍しくなかったその学校で或る日、Bさんは掃除をサボっていた男子生徒を見付けて呼び止めた所、生徒はいきなり掴み掛かり「ぶっ殺されてえのか?」と叫んだという。「殴られても、あくまでひるまず冷静に。」というのが経験上の対処策だった為、Bさんはとっさに腕を後ろに組み、殴られる事を覚悟しながら冷静になる様説得。又、別の日に教頭から、いきなり辞職願を提出した後輩教師の説得を依頼されたBさん。辞職の理由を一切言わないというその後輩教師と2人きりになり、何とか聞き出した理由は「長年に渡る生徒達からの虐め」だった。掃除用具用ロッカーに閉じ込められたり、大型のゴミ箱に放り込まれたりしたのは、全て「自分の指導力不足。」と自責していたのだ。Bさんは教頭にその旨を伝え、対応を迫ると「まあ、指導力不足でしょう。」と教頭は言い放ち、結局後輩教師はそのまま辞職に。
・ 「給食の準備で忙しい時間帯、担任教師に『急ぎの電話』を入れ、『うちの子、風邪気味だから薬をちゃんと飲ませてよね。』と命令する母親。」、「運動会前日、『明日の天気は雨の様だが、何故雨の確率の低い日に設定しなかったのか?』と電話で詰問する親。」、「運動会の場所取りで前夜から門前に並び、近隣住民から注意を受けると『学校の対応が悪い!』とキレる親。」。
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「ひと相手の仕事はなぜ疲れるのか」を著した日本赤十字看護大学教授の武井麻子さんは、「人相手の仕事は昔から在っただろうと、働く側の問題点を指摘する声も在りますが、一概にそうでは無いと考えます。以前は顧客が常連や顔馴染みで在る事が多く、或る程度の親密さや信頼感が在りましたが、今は気質も好みも判らない不特定多数の人を相手にしなければなりません。しかも瞬間芸的なスピードで、感情労働が求められています。」と語る。
又、大阪大学大学院人間科学研究科の小野田正利教授は、学校に対する保護者や近隣住民の要求が刻々と「いちゃもん化」する底流に現代日本の「コンビニ・ファミレス文化」が在るのではないかと指摘している。「例えばコンビニでは立ち読みだけして出て行く客にも、店員が『有難う御座います。』と言いますし、ファミレスでは小さな子供が一人で来ても『いらっしゃいませ。』、『何になさいますか?』と声を掛ける。本来なら『立ち読みやめんかい。』、『キミ一人で来たらあかんで。』でしょう。こういう奇怪なコミュニケーションの積み重ねが、消費者サイドに間違った権利意識を植え付けてしまっている。」というのだ。コンビニやファミリーレストランが社会に定着する以前の「店」と「客」の関係性は今よりずっと人間的で直接的で在り、画一的にマニュアル化されてはおらず、その分、客の側も”緊張感”が在った。それが今は、「どんな状況で在れ、『消費者』は丁寧に扱われる事がサービスの最低基準で在る。」という或る種歪んだ客側の権利意識が在るのではないかと。
そして精神科医の和田秀樹氏は、「超消費社会」を要因の一つに挙げている。「生産が消費に追い付かなかった時代は物を作った側が強かったけれど、物が溢れて消費不況が慢性化した今ではサービス合戦しかない。その構図から『御客様』の側に物凄い甘えが許される環境が出来て、月並みなサービスでは満足出来ない消費者達が沢山育ってしまった。」と。
「消費者意識の変容」と「超消費社会」が生み出す、おびただしい量の過酷な感情労働。この流れを変える手立てとして和田氏は、「振り子」を適正位置に戻す事から始める可きと考えている。「学校と生徒、企業と消費者という関係性は、嘗ては立場が全く逆だった。例えば『森永砒素ミルク中毒事件』で会社は潰れなかった。そういう不適切な過去の力関係から、振り子が逆サイドに振れて、大きく振れ過ぎた。そろそろ振り子を適切な場所に戻して、『其処を超えると、唯のクレーマーだぜ。』ってラインを確立しないと、どんどんおかしな事になる。」と。
戦時中は「鬼畜米英」をスローガンに掲げながら、敗戦を迎えるとあっという間に西洋文化を吸収して行った我が日本人。一つのきっかけで世論が全く逆方向に一気に流れるこの国の国民性を考えると、振り子が極端に振れ過ぎたというのも頷ける所では在る。どの職種でも感情労働は多かれ少なかれ求められるだろうし、客を大事にしなければならないという考え自体は間違っていないと思うが、「客ならば何を言っても、何をしても許されるのだ!」といった大いなる勘違いは、もう好い加減是正される可きだろう。
teruです。
私もドラッグストアの店頭に立っていますが、お客さんの質の二極化が進んでいる気がしますね。
特に50代後半から上の年齢層のマナーの悪さといったら閉口ものですよ(^^;)マナーの良い人の割合が一番少ない年齢層のような気がします。
接客のあと、すんごいストレスですよ(^^;)
彼らは余計な毒を吐きまくりますから・・・
若いかたのほうがむしろ、ルール遵守、マナーも良し、って印象です。
マナーのよいお客様には、もっと満足して頂けるように、ガゼンこちらも頑張らねばと思いますね。
そもそもマナーの悪いお客さんへのサービスとマナーの良いお客様へのサービスが同じって、何かイヤじゃないですか?それってマナーのよいお客さんに失礼だと思うんですよね・・・
私はそう感じるほうなので、自分裁量の仕事の部分では、ぶっちゃけ、お客さんによって親切の度合いに差がでてると思いますね(爆)
大人がこんなに病んでるのに、大人が子供のことをどうこう言えないですよね。
>掃除用具用ロッカーに閉じ込められたり、大型のゴミ箱に放り込まれたりしたのは、全て「自分の指導力不足。」と自責していたのだ。Bさんは教頭にその旨を伝え、対応を迫ると「まあ、指導力不足でしょう。」と教頭は言い放ち、結局後輩教師はそのまま辞職に。
これが今の学校社会・教育界の現状ですよ。安倍の教育改革とは「駄目な教師にはやめてもらう」ことですが、「駄目な教師」「指導力のない教師」の定義づけが曖昧なままだから、このままいったら、上記のような教師も駄目教師ということになって、簡単に辞めさせられる世の中になってしまうでしょうね。
結局、毒にも薬にもならないタイプの人間だけが、指導の上手な教師として生き残っていくことになる。
それは教育をサービス業と割り切れば、それでもいいかもしれませんが、教育はたんなるサービス業なのかどうか、もっとその辺を考えてみる必要があるんだけど、今の内閣にそれは無理な注文か...orz
どの仕事にも、『感情労働』ってありますよね。私自身、接客の仕事ではありませんが、顔は笑顔で内心では舌を出している時があります。
自分自身、ストレスを感じますが、これも仕事を割り切っています。でも、サービス業ともなると大変だと思います。
それに一般の常識というものが、最近欠落しているように感じます。それも大の大人が。。。
私自身も注意をしなければいけませんが、子供にだけは間違った感覚を持ってもらいたくはありません。
それには、大人達がもう少し考え直さなければいけないのでしょうが。。。
某電器の事務(店舗との配達便連絡、クレーン車の手配・客のクレーム処理)をやっていたころには、上司と客の両方に悩まされました。両方敵でした。苦笑。
上司が、ここの客、支店には、こういってくれ、つっぱねろ。俺はちょっと出てると言ってくれ。と、指示してくることがたびたびあります。
しかし、クレームや、そうじゃない正統な批判にしても(これがもっとも困るのです。良心との板ばさみ。)、対処するのは、現場の立場の弱い人なのです。女性も多い。罵詈雑言、暴力の恐怖に散々あったあとで、
上司が「いやあ~下のものが(パートのものが)よくわかってなかったんですよ。申し訳ありませんね~」
と、へらへら笑って登場するパターン。
こんなにくやしいことはないんですよ。
日本社会では、会社のためには個人が人格攻撃されても、その場がうまくまとまればいいようになっています。個人は駒。パートのせいにできると何かと便利なようですね。時給にはパートの人格否定分が含まれているのかも。。
病院や介護の現場もひどいです。
元患者にとびかかられそうな剣幕でどなりまくられている婦長さんを見ました。プライドも経験もあるだろう50代くらいの婦長さんを、人間として見ず、暴言と脅しで切れまくる男性。
正当な主張があるならば、ちゃんと、病院の外科部長なり、事務部長なりに言えばいいのに、たびたびやってきては、一生懸命働いてる看護士たちに、つっかかります。体の大きな男性の恫喝は、思った以上に女性にとっての恐怖になるのです。恐怖を感じている自分が情けなかったり、それを他の患者に見られている心地悪さ。さぞかしくやしかったと思います。
「今時の若い子は・・・。」中高年以上の人間が若い子の無作法さを嘆く常套句ですが、近年は老若男女を問わず「非常識な人間とまともな人間」の二極化が激しくなっている気がしています。若い子でも自分なぞよりは遥かに常識的でしっかりした子達が居る一方で、「こんな当たり前の事すらも守れないの!?」と唖然としてしまう様な”無法者”が中高年と呼ばれる世代の中に結構見掛けられたりします。
「御客様は神様です。」というのは往年の大歌手が多用した言葉で在りますが、この言葉は原則的に正しいものの、だからと言って「客だから何でも許される。」という訳では在りません。「御客様=神様」という中には、「神様と称されるだけの最低限のモラルや常識を持った客」という大原則が在る筈。それすらも持っていないで、店員に対して傍若無人な態度を取るだけの輩は客でも何でも無いでしょうね。
子供は親の背中を見て育つと言います。非常識な親がはびこる世の中では、この国の行く末が懸念されます。
小泉政治の最大の特徴は「”反対勢力”という存在を作り上げ、それに対して『YESかNOか?』という判断を求める形。」だったと思います。これって受け取る側からすれば、非常にシンプルで判り易い反面、物事の本質を見極め難くしているとも言えますよね。当たり前の事ですが複雑多岐な人間社会では、「Aで無ければ、その180度反対方向に在るBしか在り得ない。」なんて単純な事は先ず無い訳で、国民の多くが”小泉レトリック”に幻惑され続けて来た様に思います。
小泉政治を100%否定するつもりも無く、政治という事柄に国民の関心を良くも悪くも向けさせたという点等では彼を評価していますが、唯、「大改革を行う上で、国民には痛みを負って貰う。」と言いながら、その実「大いなる痛みを負わされたのは一般国民ばかりで、身内(政治家や官僚等。)に対しては殆ど痛みを強いなかった。」という所に、小泉政治の欺瞞性を自分は強く感じます。
他者に何かを強いる以上は、先ず自分を含めた身内の身を率先して律する。こんな当たり前の事をせずして、国民に対して「美しい国」だ何だと口にした所で、それは唯々虚しいフレーズにしか聞こえて来ないでしょうね。
言い易い人や弱い立場の人に、ストレス発散の”刃”が向けられがちな世の中という事なのでしょうね。昔からそういう傾向が無かった訳では在りませんが、近年特にそういった傾向が強くなっている気がします。上司も上司で「我が身を守れるのは自分しか居ない。」という思いが強くなり、結局”逃げを打つ”のが上手くなっているとも言えましょう(苦笑)。
一寸話は逸れてしまうのですが、飲食店に行った際に其処の店主が従業員を客の前で怒鳴り上げている姿を時折見掛けます。従業員の側に落ち度が在るのでしょうが、一人の社会人で在る彼等を”公衆の面前”で怒鳴り上げる事に何の意味合いが在るのだろうか?と自分は思ってしまいます。彼等にもプライドは在るのですから、店の奥で怒るなり何なりの方法が在るのではないでしょうか。「自分はこれだけ必死で店を運営しています。」という客に対するアピールの様に感じられるケースも在って何か嫌です。
私も営業&接客業に従事しておりますが、幸いそこまでのクレーマーに相対したことはありません。明らかに頭がおかしいと思われる方に延々苛められたことは何度かありますが。
クレーマーではありませんが、客の中に超無愛想なオッサンや超恐いオバサンがいて最初は来るたびにビビってたんですが、より一層の丁重な応対や、通常の2倍増しのスマイルをふりまくように意図的に努めてたんですよね。それを半年くらい繰り返してるうちに、ある日その客から帰り間際に「ありがとう」と言ってもらえたんです。素直に嬉しかったのと同時に、心の中で「勝った!」と変な満足感(征服感?)が沸いたり・・・
「感情労働」って言葉があるんですね。私としては、もちろん書かれてるように客もひどいですが、店員として当たり前であるこの感情労働ができてない人間が目について仕方ないです。私自身が接客業に携わってるからどうしても厳しく見てしまうのかもしれませんが、コンビニの店員とかでイラっとくるヤツのそりゃ多いこと。いちいち腹立てていても精神衛生上よくないので、最近は頭の中でゲーム感覚で採点するんですよね、「いらっしゃいませ」を言わなかった-2、並んでいたのに「お待たせしました」も言わない-1、おつりの渡し方が雑-1、言葉が全体的にぶっきらぼう-2、「ありがとうございました」を言わなかったのは致命的-3、ハイ、10点満点で1点!って感じで。名前ひかえておいて「こんなヤツ雇うなよ!」って店長に採点表を渡してやろうかな。
ところで最近よく思うんですが、こういうバイト店員の接客の質って、20年くらい前は男性より女性のほうが良かったように記憶してるんですけど、最近は逆転して男性のほうが断然マシなように感じるんです。もちろん個体差はありますし、全体的な傾向としてですけど、若い女性の中で愛想の悪い人間の割合が大幅に増えているように思われますがいかがでしょう。
長文&話がそれて申し訳ありません。
いわゆる底辺校およびそれに近いところには
こういうのもたくさんおります。
ええ、口の利き方がなってない親に対しても
冷静に対応せざるを得ないわけで・・・。
正規の教員、どんどんチーム力もなくなっていき
退職するかどうするかというところへ追い詰められる人を
ちょくちょく見ておりますが
親に追い詰められる生徒、というのもいます。
このへんが学生の自殺が多い近年の傾向と関係あるかもしれません。
嫌な世の中になったものです。