昨日、東京拘置所内で2人の死刑が執行された。死刑執行は昨年7月以来1年振りで、民主党政権下では初の事。これで確定死刑囚は107人となった。
「先の参議院議員選挙で落選した千葉景子女史が法務大臣の職に留まった事に関して、『民意によって落選させられた人物を、引き続き大臣職に留めるのはおかしい。』という批判の声が挙がっていたけれど、個人的には以前の記事で触れた理由から「『落選したから、大臣職に留まらせてはいけない。』とは必ずしも言えない。」という思いが在る。しかし「死刑廃止論者」の彼女が法務大臣に就任して以降、死刑執行が全く為されていないのは由々しき事態と思っていた。「法律で厳然と定められた『死刑執行』全く為さないのは、職務放棄としか思えない。」との考えからだ。
今回、千葉法務大臣が死刑執行に踏み切ったのには、様々な理由が在るのだろう。上記した様に「『落選した人間が云々』という批判を躱す為」というのも在ったかもしれないが、自身の主義&主張を抑えて職務遂行したというのは良かったと思うし、何よりも死刑執行に自らが立ち会ったというのは立派。「死刑廃止を強く訴えていた以上、それを曲げて死刑執行に踏み切ったからには、最後迄見届けるのが筋。」という思いが在ったのだろうから。
死刑執行後に行われた記者会見で千葉法務大臣は「死刑の在り方に付いて勉強会を立ち上げる事。」、そして「東京拘置所の刑場を報道機関が取材する機会を設ける事。」を明言。後者は「情報公開」の観点からだろうが、これは非常に良い事だと思う。
唯、気になる点も在る。東京拘置所の刑場が公開される際、マスメディアが公平な立場から報じられるかどうかという懸念。「死刑はこんなに残酷な行為なのだ。」という点ばかりが強調されたとしたら、それは「死刑制度」を判断する上で国民に余計なバイアスを掛けてしまう事だろう。加害者によって理不尽に、そしてその多くは残虐に命を奪われた被害者達の存在が、掛けられたバイアスによって掻き消されてしまったら、被害者の遺族達も遣り切れないに違い無い。死刑制度の残酷さを訴えるのならば、“同時に”被害者及びその遺族達の事もきちんと報じるべきだ。
「先の参議院議員選挙で落選した千葉景子女史が法務大臣の職に留まった事に関して、『民意によって落選させられた人物を、引き続き大臣職に留めるのはおかしい。』という批判の声が挙がっていたけれど、個人的には以前の記事で触れた理由から「『落選したから、大臣職に留まらせてはいけない。』とは必ずしも言えない。」という思いが在る。しかし「死刑廃止論者」の彼女が法務大臣に就任して以降、死刑執行が全く為されていないのは由々しき事態と思っていた。「法律で厳然と定められた『死刑執行』全く為さないのは、職務放棄としか思えない。」との考えからだ。
今回、千葉法務大臣が死刑執行に踏み切ったのには、様々な理由が在るのだろう。上記した様に「『落選した人間が云々』という批判を躱す為」というのも在ったかもしれないが、自身の主義&主張を抑えて職務遂行したというのは良かったと思うし、何よりも死刑執行に自らが立ち会ったというのは立派。「死刑廃止を強く訴えていた以上、それを曲げて死刑執行に踏み切ったからには、最後迄見届けるのが筋。」という思いが在ったのだろうから。
死刑執行後に行われた記者会見で千葉法務大臣は「死刑の在り方に付いて勉強会を立ち上げる事。」、そして「東京拘置所の刑場を報道機関が取材する機会を設ける事。」を明言。後者は「情報公開」の観点からだろうが、これは非常に良い事だと思う。
唯、気になる点も在る。東京拘置所の刑場が公開される際、マスメディアが公平な立場から報じられるかどうかという懸念。「死刑はこんなに残酷な行為なのだ。」という点ばかりが強調されたとしたら、それは「死刑制度」を判断する上で国民に余計なバイアスを掛けてしまう事だろう。加害者によって理不尽に、そしてその多くは残虐に命を奪われた被害者達の存在が、掛けられたバイアスによって掻き消されてしまったら、被害者の遺族達も遣り切れないに違い無い。死刑制度の残酷さを訴えるのならば、“同時に”被害者及びその遺族達の事もきちんと報じるべきだ。
国家の意志で人を死なせる、ということの重大さをどうしても考えてしまいます。
悪党なのだから、その死に方が残虐かどうかに留意する必要なんかない、ともしも言うのなら、それは法にのっとった「刑罰」ではなく、ただ「復讐」の代行でしかなくなってしまうのではないかと……。
死刑制度の是非や意味合いに関しては、十人十色の考え方が在るだろうし、どれが正しくどれが誤りという物でも無いと思っています。昨日の記事(http://blog.goo.ne.jp/giants-55/e/770f7409630991020d0a044b2c7fe94a)でも触れた様に、「カンボジアで死刑制度が廃止されたのは、ポル・ポト政権下で死刑制度が“悪用”されたという苦い過去が在ったから。」というのも在り、それはそれで理解出来るし。
個人的には「死刑=法で定められた復讐の代行」という考え方を持っています。法律を齧った人間としてはそういう考え方は宜しくないのだろうけれど、“少なくとも”情状酌量の余地無し&身勝手さから他者を殺めた者には、その命を持って償いをして貰わないと、遺族の気持ちは晴れないと思うし。「殺めた人数が1人ならば、原則的には死刑にならない。」という“決まり”にも、ずっと違和感を持ち続けています。(情状酌量の余地が在る場合には別ですが。)