今回の記事のタイトル「おか子とじ石」、何の事だか御判りだろうか?と言うか、何と読むのか自体、御判りにならない方が多いかもしれない。此れは「御菓子と磁石」を、“交ぜ書き”で記している。交ぜ書きとは漢字と仮名を交ぜて書いた物で、此の事が教育現場で問題となっているらしい。
昨夕に放送された「FNNスーパーニュース」では、交ぜ書きに付いて取り上げていたそうで、実際に見ていた家人の話を聞いて驚いてしまった。最近、「自分の名前で在っても、学校で習ってない漢字を使用してはいけない。」と指導する小学校の先生が結構居ると言う。自分の名前を全て漢字で書けても、学校で習っていない漢字が交っていると、其の漢字の部分を仮名に書き直させられたりも。
東京都や神奈川県、千葉県、大阪府、兵庫県で特に目立つ傾向という事で、親の間からは「書く事が出来る漢字を、何故書かせない様にするのか?」といった批判が出ていると言う。交ぜ書きに付いて自分は、今回のニュースで初めて知ったのだが、「百ます計算」で有名な陰山英男氏が自身のツイッターで随分前に疑問を呈し、以降は週刊誌でも何度か取り上げている様なので、御存知の方も居られよう。
何故、交ぜ書きが必要なのか?実際に交ぜ書きを指導している教師によると、其の理由の1つは「習っていない漢字を、誤った筆順(書き順)で覚えてしまったり、誤った字体で覚えてしまってはいけないので。」という事。
「誤った字体で覚えてしまうのは不味いけれど、筆順なんか正しかろうが、誤っていようが、どうでも良いではないか?」という御意見も在ろうが、「漢和辞典で漢字を調べる際には、『部首』や『画数』と共に『筆順』も重要なポイントになるので、必ずしも蔑ろには出来ない。」と自分は思う。
だが、「習っていないから、書ける漢字で在っても書いてはいけない。」とするのは、「新たな事柄を貪欲に学ぼうとする気持ち」を駄目にしてしまうのではないかと懸念する。
「何でも彼んでも教育委員会が悪い!」と批判する人達だと、此処迄の内容を読んで「又しても、教育委員会による偏向教育か!」と思われるかもしれない。しかし東京都教育委員会によると、「交ぜ書きは教育委員会としての指示では無く、飽く迄も個々の現場の判断で行っている。交ぜ書きを指導している現場は、『理解を深めて行く為の一段階』と考えている様だ。」との事。
「自分の名前を全て漢字で書けるのに、習っていない漢字が在る事で、其の部分は仮名で書かなければいけない。」という事で、嫌な思いをしている生徒も。「清水」という苗字の生徒は、漢字で「清水」と書けるのに、「『清』は習っていない漢字なので、仮名で書く様に。」と指導され、「し水」と書かなければならなくなったが、其の事で「“死”水」とからかわれる様になったと。「し」という仮名から「死」を連想した子供達が、からかいの材料にしたという訳だ。
「『習っていない漢字は、全て使ってはいけない。』というのは、余りに杓子定規に過ぎる。」という思いも在り、交ぜ書きには否定的な見解の自分。だが、交ぜ書きを指導する別の理由を知って、「成る程。」と思ってしまった。其の理由とは、「キラキラネーム」とか「DQNネーム」と呼ばれる名前が増えた事。
「読めますか?」や「先生も大変だ」等、過去に記事として何度か取り上げて来たけれど、近年は「常識的には読めない名前」が増えている。「絆」を「はあと」、「楓」を「はいじ」、「綺亜羅」を「てぃあら」なんて、普通は読めないだろう。中には、子供を自分のペットや玩具としか考えていない様な、実にふざけた名前も少なくない。
話を元に戻すが、「DQNネームが増えているのは判るけれど、其れが何故、交ぜ書きの指導に繋がるのか?」という疑問が湧いた方も居られるに違いない。どういう繋がりなのかを、次に説明する。
今から20年程前、「悪魔ちゃん命名騒動」というのが在った。或る親が自分の赤ん坊の名前を「悪魔」と名付け、其の形で出生届を出したのだが、「子供の福祉を害する可能性が在り、親権の濫用として認められない。」不受理になったのだ。結局、此の親は「類似した音読みで別の名前」を届け出た。
明らかに公序良俗に触れる場合等は除き、「人名に用いられた漢字は、何と読ませようが自由。」という現実が在る。極端なケースだけれど、「赤」という人名を「あか」では無く、「みどり」や「くるま」、「はむすたあ」、「ろけっと」、「じゅわいよくちゅうるまき」等、とんでもない読み方をさせる事だって可能なのだ。
「赤」と書いて「みどり」と読ませる名前の子が居るとする。其の子が自分の名前を漢字で「赤」と書き続け、「此の漢字は『みどり』と読むのだ。」と思い込んでしまうのも然る事乍ら、周りの子供達迄もが「(習っていない)『赤』という漢字は、『みどり』と読むのだ。」と思い込んでしまったら・・・其れは問題だろう。
文字はあくまで意思伝達の道具に過ぎません。正確に意思が通じれば、筆順、字体にこだわることはないと思います。正確な字体といっても、中国で漢字ができてから、変わってきて、これからも変わるでしょう。何をさして正確な字体といえるのでしょう。それに、これから手書きで文字を書くことが減るでしょう。正しい書き方より、画面に表示される文字が正しいかどうかを判断することが大切ではないでしょうか。
名前ですが、親がつけるのですから、ある程度親の考えが反映されるのはいたしかたないです。ただ、サッカー好きの親が子供にシュートと名づけたり、といった、自分の趣味を子供に押し付けるのはいただけません。
名前ですが、本名が気に入ってない人は自分で考えた名前を名乗ればいいでしょう。
私の名「雫石鉄也」はペンネームです。本名は意識したことはありません。
雫石鉄也は昔から創作する時に使っていて、ブログを始める時のハンドルネームにも使ってます。
私にはSF関係の友人も多く(悠々遊さんもその一人です)、ネットではなく、現実世界でも「雫石さん」とペンネームで呼ぶ人も多くいます。ですから、本名はあまり意識したことはありません。
筆順や字体に拘り過ぎるというのは、自分もどうかと思っています。唯、漢和辞書で漢字を調べる際、“現行のシステム”では少なくとも画数を覚えていないと調べるのに困難さを有する為、其の点では画数を覚えざるを得ず、そうなると筆順等も全く無視出来ない様にも思っています。漢和辞書を引く際のシステムを、抜本的に変えれば話は別ですが。
「読み辛い名前=全てDQNネーム」として、バッシングしている様なケースもネット上では見受けられますが、其れは違うと思っているんです。中には親が子供の将来を真剣に考え抜いた上で、付けた名前も在ると思うので。
しかし雫石様も書かれている様に、親の趣味を押し付けただけの物や、好きなブランド名を付けた様な物は、子供の事を全く考えていないと思わざるを得ない。「悪魔」なんて名前は、将来子供がどういう思いをするかを考えたら、とても名付ける気になれない筈だし。
名前というものは個人を識別する第一のものであり、尊ばねばならないもののはずです。「私の名前はこうです」と書いてきたものを、「まだ学校で教えていないから」「学校で教える漢字ではないから」という理由で禁止するというのは、相手の名前に対する否定ととられてもおかしくはないと考えます。また、新たなことを学び、学んだものを実際に使っていこうとする意欲を削いでしまうのではないかとも思います。
「キラキラネーム」に対しては、雫石様やgiants-55様のご意見に加えて、「名前負けしそうだな」と感じるものがあります。例えば、男の子にかわいすぎる名前をつけて、成長していかつくなった場合、衆目の中で呼ばれたら視線を集めそう。もうちょっと中性的な名前(薫とか千尋とか)にした方が良いのではないかなどと思います。ジェンダーには寛容なつもりではおりますが、やっぱり違和感を禁じ得ません。
さて、個人的には雫石さんの考えに近いです。字体、画数については人名では気にします(人名を略字体で書くと気分を害される人がいますので)。しかし、筆順に関しては何故こだわる必要があるのか分かりません。漢字は形を成して初めて意味が通じるものだからです。
形を成すまでの過程(筆順)に意味があったのは、毛筆で一筆書きのように続けて文字を書く(筆記体?)場合に、筆の動きに無駄がなく書きやすい、という発想から生まれたものであり、現在のように1字1字が独立して書かれる場合にはあまり意味のあることとは思えません。辞書を引くにしても画数や「へんとつくり」で十分事足りますよ。
自分の名前も含め、習っていない漢字が書ければ褒めてあげればいいのであって、わざわざ「かな」に書き直させるなど教育ではないと思います。また、学校で習う本来の読み以外で「自分の名前の漢字」を覚えてしまっているのであれば、それを格好の教材に、ちゃんと教えてあげるのが教育だと思いますね。その辺を柔軟に臨機応変に対応出来ないのであれば、そのことで教育現場に不安を感じてしまいます。
丸暗記は得意でも応用力に欠けた「使えない新社会人」が増えてきていると言われる一因が、こんなところにもあるのかなと。
以上。丸暗記の苦手な悠々遊でした。
「FNNスーパーニュース」の中では、「おか子」と「じ石」という2枚のフリップボードを用意し、其れ其れを街頭で見せて、何と読むのか当てて貰うという形を取っていた様です。「じ石」は何とか「磁石」と判っても、「おか子」に関しては皆が「おかこ」という女性の名前と思った様。
何も知らずに「おか子とじ石」というのを見たら「おか子、とじ石」、即ち「おか子という子が、石に閉ざされてしまう話か?」と、自分は思ってしまうでしょうね。
教職に就いている知人が何人か居るのですが、兎に角、雑事に忙殺されているというのが現状の様です。生徒と関わる事で発生する雑事なら良いのですが、作成&提出しなければいけない書類が余りに多く、其の殆どが意味を感じ得ない書類なのだとか。「意味の無い書類の作成時間を、生徒と接する事に廻したい。」と、彼等は良く嘆いています。
「学校で教えていないから、其の漢字は使ってはいけない。」というのは、自分も妙に感じます。「仮に教えていない漢字が人名に含まれているのなら、其の漢字だけでも別個生徒達に教えるという形も在りだろうに。」と思ったりする訳ですが、上記した様に雑事に忙殺されている教師が多いという現状を聞くと、其れを求めるのも気の毒な気がしたりもするんです。
「名前負け」で言えば、小学校の頃の同級生に「○○秀才」君という子が居ました。親の期待度が窺い知れる名前ですが、残念乍ら彼は秀才には程遠い、ハッキリ言ってしまえば劣等生の部類でしたので、同級生から良くからかわれているのが気の毒でした。
「習っていない漢字が書ければ、褒めて上げれば良い。」、此れは其の通りだと思います。学生時代の自分は劣等生の部類に在りましたが、歴史の授業中に一寸した事を教師から褒められ、其れで歴史を一生懸命勉強する様になりました。歴史の成績が良くなった事で、他の教科にも興味が出て来て、各々の成績も上がったという好循環。こういうケースも在るんですよね。
唯、ぷりな様へのレスでも書かせて貰ったのですが、「雑事に忙殺され、中々生徒達と向き合えない教師達。」という現実も在る様ですので、「決められた授業内容以外の事柄を、生徒達にきちんと教える。」というのは、結構難しい一面も在るのかなあという気がしています。
女性の名前に関して言えば、戦前前は「つる(鶴)」さんや「かめ(亀)」さん、「まつ(松)」さん等、おめでたさを重視した様な名前が目立ちました。幼少時はそういった名前に古臭さを感じたりしていたものですが、自分が子供の頃には一般的だった「~子」さんという名前も、今では彼の頃の自分が感じていた様に、今の若い子達は思うのかもしれませんね。
陸上の男子やり投げで、ディーン元気という選手がメダル候補として脚光を浴びています。父親が英国人で、まだ20歳の早大生というのも話題ですが、名前の響きも話題になっているようです。
ハーフの陸上選手というと、室伏広治選手はあまりにも有名ですが、今後の成長を期待されている選手の中では、父親が黒人のダンサーだったというモーゼス夢というハードラーや、今年の都道府県対抗女子駅伝で活躍した、ケニアのマラソン・ランナーを父に持つ高松ムセンビ望という女子中学生もいます。「元気」や「夢」や「望」という言葉を子供の名前に託した、親御さんの想いに、心が動かされます。
時代の移り変わりと共に、「名前の付け方」にも変化が在るのはおかしな事では無いのだけれど、「子供に対する深い思い」よりも「親の自己満足」しか感じられない様なケースは、何時の時代に在ってもげんなりしてしまうもの。
其の点、「翔太」という名前なんぞは、漢字自体にも意味合いを感じるし、凄く良いなあと思います。