「憂国の士」というと一般的には「右翼的な立場の人物」が想起されるだろうけれど、「国を憂う者」という言葉通りの解釈で言えば、その立場は右翼だろうが左翼だろうがノンポリだろうが何だろうが無関係だと思っている。その立場立場に於いて国を憂いている訳で、「この主張をしている者だけが憂国の士。」と決め付けるのは、非常に痴がましい事だとも。極右にも極左にもシンパシーを感じ得ない自分にとって、誰を「憂国の士」と称そうが、又、誰が「憂国の士」と自認しようがそれはどうでも良いのだけれど、その主張を他者から強いられるのは御免蒙りたい。
「我こそは憂国の士なり。」とする人、特に極右や極左の人にしばしば見られるのは、「他者に対して非常に厳しく、自分やその身内に関しては異常に甘い。」という点。これはあくまでも私見だが、憂国の士を口にして他者に厳しく当たるならば、自分や身内に関してはそれ以上厳しく在らなければいけないのではないかと思う。(自分の様な好い加減な人間は、憂国の士を名乗ろうとすら思わないし。)
又、物事を推し進める上で「論理」というのは重要だけれど、論理ばかりが前面に出てしまうのもどうかと思っている。「○○氏は、こう言っている。」とか「XXさんの考えからするとおかしい。」等と、無闇矢鱈と特定の思想家の名前を挙げる人が居る。そういうのを見聞していると、「○○氏やXXさんの考え方は判ったけれど、それはあくまでも彼等の考え方で在って、貴方は○○氏やXXさんではないでしょ?」と言いたくなってしまう。自分自身の思考を作り上げて行く上で、他者の思考を“参考”にするのは結構な事だが、それに自分自身で“肉付け”しなければ、“悪い意味での”「口寄せ」と何等変わらない。
「憂国の士」と称される人、又は「憂国の士」を自認する人の中には、こういったバランスの悪さを感じてしまう人が少なくない気がする。
「我こそは憂国の士なり。」とする人、特に極右や極左の人にしばしば見られるのは、「他者に対して非常に厳しく、自分やその身内に関しては異常に甘い。」という点。これはあくまでも私見だが、憂国の士を口にして他者に厳しく当たるならば、自分や身内に関してはそれ以上厳しく在らなければいけないのではないかと思う。(自分の様な好い加減な人間は、憂国の士を名乗ろうとすら思わないし。)
又、物事を推し進める上で「論理」というのは重要だけれど、論理ばかりが前面に出てしまうのもどうかと思っている。「○○氏は、こう言っている。」とか「XXさんの考えからするとおかしい。」等と、無闇矢鱈と特定の思想家の名前を挙げる人が居る。そういうのを見聞していると、「○○氏やXXさんの考え方は判ったけれど、それはあくまでも彼等の考え方で在って、貴方は○○氏やXXさんではないでしょ?」と言いたくなってしまう。自分自身の思考を作り上げて行く上で、他者の思考を“参考”にするのは結構な事だが、それに自分自身で“肉付け”しなければ、“悪い意味での”「口寄せ」と何等変わらない。
「憂国の士」と称される人、又は「憂国の士」を自認する人の中には、こういったバランスの悪さを感じてしまう人が少なくない気がする。
近場の脇道には常に街宣車数台が路駐状態となって、もう数年経とうとしています。「世の中の規律が乱れている!」と声高に叫んでいる人が、最低限の規律すらも守れない。「人の憂いをも出来ない人間が、国を憂うのはどうかと思う。」というのは、全く同感です。
面白おかしく取り上げられ勝ちな「友愛」なる言葉、「潤いの在る社会のコア」としてこの概念が在るのだとしたら、それはそれで茶化されるべき物ではないと考えます。