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「NZ警察、3人を拘束 『反移民感情』動機の可能性も モスク銃撃」(3月15日、毎日新聞)
ニュージーランド南部クライストチャーチで15日、2ヶ所のモスク(イスラム教礼拝所)で銃乱射事件が在り、計49人が死亡し、約50人が負傷した。NZ警察は20代後半の男1人を殺人容疑で拘束、其の他2人も拘束して関連を調べている。
AP通信によると、NZのアーダン 首相は記者会見で「事件は充分に計画されていたと見られ、テロ攻撃と言えるのは明確だ。」と述べた。又、反移民感情が動機の可能性が在る事を仄めかした。
NZ当局は当初4人を拘束したが、1人は無関係として釈放した。容疑者の身元や2ヶ所のモスクを、実際に何人で襲撃したのか等を明らかにしていないが、3人共監視対象では無かったと説明した。内、乱射を実行したと主張する男は、「攻撃には人種差別的な意味が在った。」と明らかにし、反移民を訴える70頁以上に亘る声明文を残しており、其処では自らを28歳のオーストラリア人の白人だと語っていたと言う。
オーストラリアのモリソン首相は、容疑者の1人が同国生まれだと認め、「過激主義者、右翼の暴力的なテロリストだ。」と述べた。
ニュージーランド・ヘラルド紙(電子版)によると、容疑者の1人と見られる白人の男が、モスクに車で乗り付け、モスク内で自動小銃の様な物を乱射する様子を、インターネット上で17分間に亘って生中継した。動画は、頭部に着けたカメラで撮影したと見られる。
NZ政府の発表等によると、事件は午後1時45分(日本時間午前9時45分)頃、クライストチャーチ中心部のハグレイ公園傍のヌール・モスクと東に約5km離れたリンウッド・モスクで発生。ヌール・モスクで41人、リンウッド・モスクで7人が死亡、もう1人は搬送された病院で死亡した。
地元警察によると、容疑者が使ったと見られる車から簡易爆発物が見付かったが、安全に処理したと言う。他にも容疑者が居る可能性が在る為、周辺住民に屋内に留まる様呼び掛けた。
地元メディアによると、事件はニュージーランド史上最悪の銃乱射で、同国の警戒レヴェルは最高水準に引き上げられた。又、国内各モスクの警備を強化した。唯、ニュージーランドのイスラム教徒は人口の1%強に過ぎないと言う。
報道によると死傷者の中にはバングラデシュ、マレーシア、インドネシア出身者が含まれている。在クライストチャーチ日本領事事務所によると、日本人が被害に遭ったとの情報は無い。
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今から18年前の2001年、ニュージーランドを初めて訪れた。観光が目的で、滞在先は今回銃撃事件が発生したクライストチャーチ。のんびりとした雰囲気の、実に過ごし易そうな場所で、「海外で生活するなら、こういう所が良いなあ。」と思った物。そんな所だったので、今回の事件は驚きしか無い。
インターネットで犯行の様子を生中継する等、容疑者達は実に計画的だ。人種差別的な反移民感情が、彼等をイスラム教徒排除に駆り立てたのだろう。
「仮想敵を作り上げ、其れを叩いたり、排除する姿勢を見せる事で、自らの支持者を集める。」という手法は、アメリカに限った事では無く、世界的に広まっている。日本でも小泉純一郎首相時代に顕著となり、安倍晋三首相も好んで多用しているし、小泉進次郎議員も「“高齢者”を仮想敵にし、叩く事で若者の支持を集め様としている。」様な節が在る。
過去に何度か書いているけれど、こういう“排他主義”は非常に危険。歴史を振り返れば、「排他主義が進んだ国は、必ずや国民が悲惨な状況に陥っている。」のだ。「『好きじゃ無いから。』という理由で特定の存在を面白おかしく排除する人達は、“排除の嵐”がどんどん広がりを見せ、軈ては自分達が排除される側に回る。」という事も、歴史から学ばなければいけない。排他主義は人類を不幸にこそすれ、決して幸福にはしないのだ。
人は社会に適応出来なくなると、過激化すると思います。同じ考え方、思想を持った人々だけで寄り集まる事、ネット社会はそうした環境を作り易いのでしょうね。言論の共通性、危険なサークルというのは、人を甘やかす事もあると思いますし、犯行を中継しているあたり、SNSの威力も知っており、欲望が自己顕示に達した、という事でしょう。
政治の世界であれば、賢明なリーダーが、憎悪の応酬にブレーキをかける事が出来ますが、言論の自由、表現の自由、過激であろうとも、何でも自由と考えたがる、個人へのブレーキをどうするか、という事は、社会的な課題でしょうね。
今回の事件、自身の考えの実行という面に加え、隆様も書かれている様に“自己顕示欲の発露”という面も、可成り強い様に感じます。そういう意味では、劇場型犯罪と言えるのでしょうね。
日本に限って行っても、昔は幅の在る政治家が少なからず存在した。「幅」とは、自分の主義や主張と異なる物で在っても、鷹揚に受け容れる(又は聞き入れる)能力とでも言いましょうか。だから、思想的には右(又は左)で在っても、左(又は右)の人物とも腹を割って話が出来た。今はそういう人物、極めて少数派になった気がします。逆に「少しでも自分と違う考えに耳を傾けたら、其れだけで自分の半生を否定した事になるとでも思いこんでいる狭量な人物。」が増えましたね。