小学生の頃、家族旅行で訪れたローカル・スポットで「昼飯をどうしようか?」という話になり、パッと目に入った定食屋に入った事が在る。小汚い店構えが気にはなったが、周りに飲食出来そうな店も無さそうだったので、仕方無くといった感じで入った。今の若い人ならば「コンビニで何か買って、其れを食べれば良いじゃないか。」と思われるだろうが、「都会ですらコンビニが珍しかった時代」の話だ。
昼時というのに、中に客は居なかった。高齢の夫婦が切り盛りしている店だったが、申し訳無いけれど両者共に不衛生さが感じられる風貌。婆さんが水の入ったコップと御絞りを持って来たのだが、其のコップは薄汚れ、布製の御絞りは地の黄色がくすみ、饐えた匂いがしている在り様。ふっと調理場の爺さんを見ると、「へっくしょん!」と嚔をした後、垂れた鼻水を手で拭っている。
家族全員が「とんでもない店に入ってしまった。」という顔をしていたが、注文せずに店を出る勇気も無く、“安全そうな食べ物”を注文する事に。壁に貼られた御品書きに目を遣ると、「御握り定食」というのが在り、「彼の爺さんが握った御握りを食すなんて・・・。」とゾッとしてしまった。結局は火で殺菌されるで在ろう「焼き魚定食」を、家族全員が注文する事になった訳だが。
何でこんな昔話を書いたかと言えば、AERA(6月25日号)に「気にする人がいることにも理解を 他人のおにぎりが食べられない」という記事が載っていたから。或る御笑いタレントがテレビ番組等で「他人が作った御握りや料理が食べられない。」と打ち明けた所、「自分も、他人が握った御握りが食べられない。」とインターネット上でカミングアウトする人が続出し、一寸した話題になっているとか。放送作家の鈴木おさむ氏も「母や妻、妻の母が握った御握り以外は食べられない。」という口で、自分のラジオ番組で5月に、此の事をテーマにして放送した所、共感のメールが殺到したそうだ。
AERAの記事では「母と母方の祖母が握る御握りは大丈夫だけど、其れ以外の人が握ったのは、食べられないんです。」と告白する22歳の女子学生が紹介されている。「母の様な自分に近い存在の人が握った御握りで無ければ、食べる事が出来ない。仮令、仲の良い友人が握ったとしても、食べられない。」とする彼女は、「握っている姿を想像するだけで、もう辛いんです。」と吐露。
興味深いのは、彼女が「潔癖症」という訳では無いという点。実際、彼女の部屋は服や本等で散らかっているし、握りの寿司も食べられる。店で供される料理なら、抵抗感無く食べられるのだとか。其の辺の理由を彼女は、「他人の御握りや料理は、他の人の生活感が自分の生活に交わる様で駄目なんです。御店では、御金を支払う。其処に『交わり』が無いんです。だから、外食は大丈夫なんです。」と語っている。
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彼女の中で、特にハードルが高いのは、「御握り」の他に、「手捏ねハンバーグ」、「手作りパン」、「手作りチョコレート」。女の子同士でも手作りのチョコを交換し合うヴァレンタイン・デーの朝、想像し過ぎて蕁麻疹が出た事も在った。
友人との離島への旅行で、皆で料理を作って盛り上がった時も、一人だけ、心此処に在らず。楽しい空気を壊したくないという一心で、我慢を重ねて食べた。
「でも、其の前に、心は一度折れました。」。
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AERAの取材で「他人の御握りが食べられない。」とした人の殆どが、「生活に支障を来す程では無い。」と答えているそうだ。
「日本社会はこうした傾向(他人の料理を食べられない。)を『神経質』と捉え、抑圧する風土だった。正直に『食べたくない。』と言ったら他人に迷惑が掛かるから、誤魔化し続けて来た。運動会で『(御握りを)1個どうぞ。』と言われても断り難かった。でも実は、昔から同じ様に思う人は居た筈です。濃密な人間関係を押し付けていた社会だったから言えなかっただけ。食べられないという人は、出来る出来ないのルールをちゃんと作っているので在って、寧ろ芸術家の様な繊細な考え方です。」と、経済学者の田中秀臣氏は指摘。「他人の料理が食べられない。」とするのは若者だけの話では無く、「俺も他人の御握りが食べられない。他にも結構居るよ。」という50代の男性の証言も紹介されていた。
元記事でも強調しているが、「他人の料理は食べられない。」とする人を完全否定するのでは無く、「そういう人も居るのだ。」と理解して上げるのは大事だと自分も思う。多様性を一切認めない社会なんて、住み辛いだけだし。他者に対して迷惑を掛けるのが明々白々なケースなら別だが、そうで無ければ、他者の苦しみを忖度して上げるというのは大事な事だろう。
で、話を元に戻すが、「御握り」に関して言えば自分の場合、コンビニ及び清潔な店で売られている以外では、肉親や親しい知人が握った物ならば食すのに抵抗は無いが、其の他だと「勘弁して欲しい。」というのが正直な気持ち。
・・・と書いた所で、皆様にズバリ聞きます。「貴方が『此処迄なら、食べるのは抵抗が無い。』と考える御握りの範囲。」を教えて下さい。テーマがテーマなので、上記の如く「多様性を否定する様な記述は無し。」で書き込みを御願いしたい。
私は、食べ物より、車の運転です。人の運転は怖いです。バスのような公共交通機関なら普通に乗れますが、タクシーなら怖いです。ヘタな運転手なら、どけワシが代りに運転するといいたくなります。
何人かで車に乗る時は、極力、私が運転するようにします。
「前方を走っている車両に、ピタッと張り付かん許りに走る。」、「ぎりぎり迄ブレーキを踏まない。」、そういった運転をする車には自分も乗りたくないです。乗っていて、全く気が休まらない。こういう運転をしている人って概して、「自分は運転が上手い。」と思っていたりするのですから厄介。
「他人からは罰当たり呼ばわりされがちな好き嫌いがあり、会食の場ではさりげなく備え付けの調味料をふりかけて味をわからなくした上で、お茶で一気に飲み下す」人間としては、食に対する自分の引っ掛かりをマジョリティから悪しざまに言われるときの悲しみ、怒り、もどかしさといった気持ちはわかります。
今から35年前、「青酸コーラ無差別殺人事件」(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%92%E9%85%B8%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%A9%E7%84%A1%E5%B7%AE%E5%88%A5%E6%AE%BA%E4%BA%BA%E4%BA%8B%E4%BB%B6)というのが世間を震撼させました。「公衆電話ボックス等に置かれたコーラ(缶では無く、瓶。)を飲んだ位人達が、中に含入された青酸ソーダによって2人が亡くなった。(飲んだ人間は3人で、内2人が死亡。助かった1人は、後に自宅でガス自殺。)」という事件でしたが、幾ら“見た目”は未開封風で在ったといっても、今じゃあ其れを大人が飲むという事は無いのではないでしょうか。「清潔」という概念が極度に重んじられる昨今だからこそ、そんな感じがします。
昔ならば然程拘らなかった事でも、昨今の「清潔至上主義」的な環境の中では、「一寸其れは・・・。」となってしまう事も在るのでしょうね。
「果物を持ってきたついでに第3者の陰口を話していく人に閉口したり、鍋持参でそのお宅に行った時に、その家特有の生活臭に違和感を感じたりすることはあります。」、此れは自分も判ります。特に、前者のケースは「食べ物迄が毒されている様な感覚」になってしまいますもんね。
ただ、この記事の冒頭にあるように、あまりに不衛生やそれを連想させる状況下では、やはりちょっと・・・。
そういえば、昔何かのバラエティー番組の中で、便器の形をした器にカレーライスを盛り付けて、出演者に食べさせるというのがありました。
いくら衛生管理がなされているとしても、さすがにあれには抵抗感がありました。見た目も大事ですよね。
便器の形をした器にカレーライスですか・・・笑いのネタとはいえ、余り良いセンスでは無いですね。
以前、熊本駅の近くに在る軽食屋に入った際、床を2匹のゴキブリが走っていたのを目にして、「うわっ!」と思った事が在ります。入った時から小汚い感じで、「しまった!」と思ったのですが。此の手の店で、供された食事が美味しかった事が無いです。
料理は味も然る事乍ら、見た目も重要ですよね。御自身で作られた料理の写真をブログでアップされている方が居られますが、盛り付けとかトッピングが凝っていて、「美味しそうだなあ。」と思います。
そりゃ、giants55さんが冒頭に記したような体験ならともかく、それ以外は「味付けが良くない」ぐらいの感想しかないな。それも言わないのが仁義。でもほぼ他人に近いような親類の子供が作ったクッキーを自慢げに出された際は閉口しましたね。味付けも何も見た目もあちゃーだったし、これを食べてあげない人は人でなしという強要するような雰囲気だったから。これは愛犬自慢とペッティング強要に似てるな(笑)
でもそういう経験がない環境ならば嫌だと思うのは分からないではないけど、どうやったって人の手ははいるけどね。さすがに衛生手袋はしてるけど。
私なら「気持ちはまあわかる」で終わるけど、本当に理解できないと思う人だと「じゃあカプセル錠だけ食べとけ」と心無いこと言うと思いますよ。だから犬の例もそうだし、「他人の子供が作った見た目の悪い菓子を無理やり食わされそうになったとき」もそうだけど気付かれないようにフェイドアウトするしかないですよね。
文中には「50代」もいるので驚いたけど、そうですね「バブル世代」が50に入ってるから、都会育ちならそうかもしれないですね。
「冠婚葬祭の場で、近所の人達が食事を持って集まってくれる。」、そういう環境で育ったならば、仰る様に「衛生面がどうこう。」と気にする事は無いかもしれませんね。自分も名古屋の田舎で育ちましたが、そういう環境は残念乍ら在りませんでした。一寸憧れたりします。
好き嫌いは誰しも在る事で、其れは仕方無いと思います。犬が大好きな自分ですが、猫は苦手。実際に犬を飼いだしてからは、生き物全般への見方が変わり、猫も以前より嫌いでは無くなったものの、其れでも好きとは言えないし、庭に糞を撒き散らされた思いも在るので、猫の匂いは苦手ですし。
昔、ヴァレンタイン・デーになると男性アイドル達が「トラック○杯分のチョコレートを貰いました。」と良く話していたもの。某男性アイドルが後年になって、「手作りのチョコレートが多かった。申し訳無いけれど、安全面から食せず、捨てさせて貰っていたけれど。」といった発言をしていました。相手を愛し過ぎるが故か、中には「自身の唾液や体毛等」を手作りチョコレートに入れたファンも居るという話を見聞した事が在りますし、仕方ない処置でしょうね。
面倒くさいですよ。でも最近は仕出し料理が普通で、近所の人が全部作るということはなくなりましたね。せいぜいお茶と御菓子持って来てくれるぐらい。
お祭りの押し寿司も、市販品が増えました(地元のスーパーがたくさん作るんですね)。
15年ほど前、大学出て戻ってきた女の子がそういうのの手伝いに借り出されて嫌々やってるのを見た、団塊世代の大人に「これだから今時の若者は!」「環境ホルモンのせいだ!」と「総括」されていたのに一気に衰退しました。原因はその女の子の年代ではなく、社会環境の変化。&「別に若い子だけがめんどくさがってたわけではなかった」、ということでした。
面倒臭い、其れは凄く判るんです。我が家は、父方と母方に於ける「親戚関係の雰囲気」が全く違う。何方も「仲が良い。」という点では同じなのですが、方や「程々の距離感を意識して持っている。」のに対して、一方は「祖母を中心にし、厳然たる家長制度が息衝いていた。」という感じで、正直辟易とした部分も在った。ですので、AK様が感じておられた「面倒臭さ」というのは、そういった感じだったと思うのです。
けれど、「密接な地域社会の在り様」というのには一寸した憧れを持っている。ずっと身を置きたくはないけれど、時には身を置いてみたいという感じでしょうか。都会暮らしの人間が、時には田舎暮らしをしてみたいと憧れる気持ちと似ているかもしれません。