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「『トランプ氏も原爆投下』 元米国代表バスケ監督が集会で発言」(4月29日、サンスポ)
米大統領選の共和党指名争いで先頭を走る実業家トランプ氏(69歳)の集会で、支援演説した著名な元バスケットボール監督が28日、広島、長崎への原爆投下を指示したトルーマン元大統領を「原爆を日本に落とすガッツが在った。」と称賛、トランプ氏も「同じ決断をするだろう。」と話した。
発言者は、名監督として知られたボブ・ナイト氏で、インディアナ大を何度も全米王座に導き、1984年のロサンゼルス五輪で金メダルを獲得した米国代表を率いた。スパルタ指導で物議を醸した人物でも在る。
インディアナ州での集会で、トランプ氏と並んで壇上に立ったナイト氏は「大統領らしくない。」との批判を一蹴。「(トランプ氏は)原爆を落として数百万人の米国人の命を救ったトルーマンだ。」と主張し、トランプ氏が「最も偉大な大統領の1人として、同じ事をする。」と述べた。
トルーマン氏が原爆投下を決定したのは1945年だが、ナイト氏は「44年」と誤った年を引用した。
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「原爆が投下され、多くの人間が亡くなった事(広島及び長崎を合わせ、1945年内に約23万人が亡くなったと言われている。)で、日本政府は戦争を終結せざるを得なくなった。原爆投下が無かったら、国体護持に固執していた日本政府は戦争を続行し、更に多くのアメリカ人が亡くなっただろう。日本人も、其れ以上に亡くならなくて済んだ。だから、アメリカによる原爆投下は正しい。」というのが、原爆投下を正当化するアメリカ人の言い分だろう。こういう主張は昔から良く見聞したし、「原爆投下→戦争終結を早めた。→更なる戦死者を生まなくて済んだ。」という考えを「全く間違っている。」とは言わない。
でも、そういう考えを持つのは自由だが、口に出したり、文章にしたりというのは、“人として”どうかと思う。広島及び長崎への原爆投下は、「戦地で軍人同士が殺し合う。」というのとは異なり、「一般市民の殺戮を唯一の目的とした行為。」で在る。「其れが戦争という物だ。」と言われてしまえば其れ迄だが、尋常ならざる一般市民の命を一瞬にして奪い乍ら、「原爆投下は正しかった。」と声高に主張するのは、戦死者及び其の遺族を冒涜&愚弄する事でしか無いと思うので。
今回のナイト氏の発言、自分はニュースで其の映像を見たが、会場内は歓声に包まれ、トランプ氏もヘラヘラと笑っていて、非常に気分が悪かった。ナイト氏の発言をトランプ氏は否定する事も無く、ナイト氏を称賛する発言をしたという事だから、原爆投下に関しては同じ考えなのだろう。
「南京事件」に関し、在り得ない様な死者数を喧伝する中国には「おかしい。」と思っている。でも、同時に“自虐史観”という言葉を好んで使用する人達が良く「日本の軍人は南京で一般市民を、“1人たりとも”殺していない。」的な主張をしているのもおかしい。諸々の証言や証拠を考え合わせると、一定数以上の殺害が在ったと考えられるから。在り得ない死者数を否定するのは当然だが、だからと言って「全く無かった。」とするのは違うだろう。「全く無かった。」と無理な押し通しをするのならば、其れは「『自分達さえ良ければ、何をしたって正しい。』という思考」で凝り固まっているナイト氏の様な連中と変わらない。
トランプ氏が「原爆投下は正しかった。」と公に主張する事が“在れば”、彼が大統領になった際(恐らく無いだろうけれど。)、日本に足を踏み入れて欲しくない。
確か戦争にも一定のルールがあって、民間人や赤十字関係者は攻撃対象にしないとか、捕虜は虐待しないなどが決められていたはず。
空襲で軍事施設だけを徹底的に攻撃破壊して、早期終結に結びつけたとするならともかく、原爆投下で戦争が早期終結したというのは、勝者の理論に他ならないでしょう。
同じことが自国民に対して行われていたらどう考えるか、想像力の欠如した人格に国のリーダーになってもらっては困ります。
「市街地への無差別殺戮」や「禁じられている化学兵器の使用」等、アメリカ以外でも“不当な攻撃”をした国は幾つも在ります。「戦時には、平常時の常識を当て嵌める物では無い。」というのも、確かに在るでしょう。でも、だからと言って、そういった事が100%許される訳では無い。
「同じ事が自国民に対して行われていたら、どう考えるか。」、そういう我が身に置き換えて考えられない人が、最近は増えている様に感じられ、本当に哀しい。