古くから当ブログを読んで下さっている方ならば御存知の事と思うが、自分は“萩本欽一氏の笑い”が大の苦手。彼の執拗に相手を弄る手法が受け容れられなくて、彼が“視聴率100%男”としてヴァラエティー番組に出捲っていた頃ですら、何が面白いのか全く理解出来なかった。(理解し様と思って、当時大人気だった「欽ちゃんのどこまでやるの!」【動画】を見たが、約1時間の間1回も笑えず、苦痛としか思えない状況だった。)
又、彼の「相手の“能力”よりも、“運”という物を尋常じゃ無いレヴェルで重視するスタンス。」も苦手。「身の回りで良い事が在った番組スタッフは、『其の良い事で運を使ってしまった為、番組に災いを齎す(→視聴率の低迷を招く。)。』という理由(盲信?)だけで“首”にした。」なんて話を聞いた時は、正直ゾッとしてしまったし。
唯、一時代を築いた人で在るのは確かで、そんな人の言葉からは学ぶべき所が無い訳でも無い。“欽ちゃん”は週刊文春で「欽ちゃんの人生どこまでやるの!?」というコラムを連載しているが、運に関する内容は全くぴんと来ないけれど、芸に関する内容には「成る程。」と感じる点が幾つか在ったりする。
4月20日号では「第45回 何より大事な『間(ま)』の話」というタイトルで、“間の取り方の重要さ”に付いて書いている。普段の会話でも“間の取り方”というのは重要で、相手の話に対して矢鱈と「うんうん。」と返してしまうと、間が全く無い事から相手は「此奴、適当に相槌を打ってないか?」等と思うだろう。逆に何の返答が無い、言ってみれば「間が開き過ぎている。」という感じだと、「此奴、きちんと話を聞いてないんじゃないか?」と相手は思う事だろう。御笑いの世界も同様で、「間の取り方が悪いと、正に“間抜け”となってしまい、笑って欲しい部分で笑って貰えない。」という事が在る。間の取り方とは、其れだけ重要なのだ。
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というのも、自分が浅草で修行して、テレビでもやってきた「笑い」というのは、いかに「間」を活用していくかというものだったからだ。
例えば、浅草の舞台に出始めた新人のとき、先輩からよくこう怒られていたものだった。「おい、欽坊。まばたきをするな。手が来ないだろう!」。
舞台でのお芝居が終わって、幕がするすると閉じていく。そのとき、お客さんは拍手をするわけだけれど、舞台にいる芸人が動いてしまうとその「手」が動かない、というわけだ。
「余計な動きをすると、そっちをお客様が見ちゃうだろう。そういうのを『間を食う』っていうんだ。」。
とにかく浅草の舞台では、そんな風に「間」を何よりも大事にしていた。だから、新人の頃は徹底的に「動くな。」と言われてね。何しろ舞台では息が上がって肩が揺れているだけでも、先輩たちから厳しく怒られたんだから。
お芝居なのだから、動かないでどうするのか、というのは素人考えでね。舞台での芝居というのは、とにかく無駄な動きをしてはいけない。
実際の生活ではちょっとキョロキョロしたり、何となく頭をかいてみたり、人は無意識のうちにいろんな動きをしているでしょ。舞台ではそうした動きを全て削ぎ落して、ここぞというとき―例えば浅草では笑いを取るとき―にぱっと動きを見せるのが芸というものなんだ。
ぼくもずいぶんと訓練をして、何分間も身動きをせずに「止まったままでいる」事に気を遣ったものだった。もちろん、まばたきも我慢するから目も乾く。「てめえら、やってやろうじゃないか!」というセリフのときも同じ。とにかく体は全く動かさない。
それは実際の日常生活ではあり得ないことだけれど、「笑い」というのは引き算の世界、余計な動きをするとその分だけ「間」が使われてしまう。
なので、舞台では大道具に風景の絵を使って、本物の木を使ったりは決してしないでしょ?それにもちゃんと意味があって、空調で葉っぱが動いちゃうからなの。葉が揺れるだけでも、お客さんは気を取られる。それくらい浅草の舞台では、「間」を大切にしていたわけだ。
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「御笑いの舞台では、出来るだけ動かない様にする。余計な動きをしてしまうと、其処に御客さんの注意が向いてしまい、結果的に無駄な間となってしまう。」というのも「成る程。」だったが、最後の「御笑いの舞台では、本物の木を使ったりはしない。」という事の理由には、思わず「そうなんだ!」と唸ってしまった。御笑いの世界は、本当に奥が深い!