ば○こう○ちの納得いかないコーナー

「世の中の不条理な出来事」に吼えるブログ。(映画及び小説の評価は、「星5つ」を最高と定義。)

あっさりと描く事で

2022年05月23日 | TV番組関連

源義経が亡くなった。大河ドラマ第61作「鎌倉殿の13人 ~THE 13 LORDS OF THE SHOGUN~」、昨夜放送された第20回「帰ってきた義経」の中でだ。

2週前に放送された第17回「壇ノ浦で舞った男」で、「壇ノ浦の戦い」にて平氏滅亡。滅ぼしたのは源氏で、勝利の大きな要因となったのは源義経と言って良いだろう。兵士が滅びたのは「1185年4月25日」の事だ。

其れ以降、奸智
長け後白河法皇策略等により、兄・源頼朝と弟・源義経との間の亀裂は広がって行く。国内を転々とした挙句、幼き頃に世話になった奥州藤原氏を訪れた義経は、裏切った藤原泰衡軍勢により、衣川館にて自害に追い込まれる。1189年6月15日の事で、享年は30(「31」という説も在る。)。

義経の存在を危ぶんだ頼朝は、「父・藤原秀衡が『義経を主君として給仕し、兄弟が結束して、頼朝の攻撃に備えよ。』という遺言を息子達に残したものの、其の息子達の仲が険悪な事。」に目を付け、策を授けた家臣北条義時を藤原泰衡の下に向かわせる。其の策が功を奏し、泰衡は義経を死に追い込んだ。

頼朝の再三脅し屈し、奥州藤原氏を守るに、義経を裏切った泰衡。だが、「泰衡は必ず、義経を死に追い込むだろう。そうしたら、次は『謀反人・義経を匿い続けた事は許し難い。』と難癖を付けて攻め込み、奥州藤原氏を滅亡へと追い込もう。」という目論見が最初から在った頼朝によって、最終的に奥州藤原氏は滅亡してしまうのだから、何とも皮肉な話だ。

壇ノ浦の戦いで平氏が滅んでから、衣川館で義経が自害する迄、「4年1ヶ月21日」の時が過ぎている。決して短い時間では無いし、其の間には「歌舞伎の『勧進帳』でも有名な『安宅関』でのエピソード。」や「義経と彼の静御前との悲しい別れのエピソード(2人の間の赤ん坊が、後に殺害される事も含め。)。」、「衣川館で、武蔵坊弁慶が主君・義経を守って孤軍奮闘するも、雨の様な敵の矢を身体に受けて、立った絶命するというエピソード。」等、“見せ場”は少なく無い。

ねちっこい弄り”を十八番とする萩本欽一氏や明石家さんま氏が脚本を担当したならば、恐らくは「壇ノ浦の戦い以降、義経が自害する。」に、延々と“回数”を引っ張りそう。でも、脚本を担当している三谷幸喜氏は、僅か3回で終わらせてしまった。義経と静御前との悲しい別れはさらっと描き、安宅関のエピソードに到っては、全く触れなかった。

そして、義経の最期に関しては、「衣川館を泰衡の軍勢に囲まれた義経が、外で勇敢に戦う武蔵坊弁慶の姿を戸の隙間から覗き見て、『良いぞ、良いぞ!!』と子供の様に燥ぐ場面が描かれた直後、「義経の首が入った首桶を前にして、座る頼朝。」という場面に。報告を終えた義時に外に出る様に命じた頼朝は、首桶に向かって「九郎、よう頑張ったな。さあ、話してくれ。一ノ谷屋島、壇ノ浦、何の様にして、平家を討ち果たしたのか。御前の口から聞きたいのだ。さあ、九郎、九郎、話してくれ。九郎・・・。(嗚咽し、首桶を抱き締める。)九郎・・・済まぬ・・・九郎・・・九郎・・・。(号泣。)」

第17回「壇ノ浦で舞った男」の最後で、「義仲
も死に、平家も滅んだ。此の先、私は誰と戦えば良いのか。私は戦場(いくさば)でしか、役に立たぬ。」と義経が口にする。其の後に待ち受けている兄・頼朝との戦いを暗示していると共に、“戦の中でしか自身の存在意義見出だせない義経”という悲しみを表した言葉に受け取れたが、「自身の命が尽き様としている中、家臣・弁慶の勇敢な戦い振りを見て、子供の様に燥いでいる姿。」は、戦の中でしか自身の存在意義を見出だせない彼を象徴している様に思った。

又、「彼が戦い、そして自害する場面を敢えて描かず、燥いでいる姿の直後に、静寂さに包まれた中、頼朝が(義経の首が入った)首桶に静かに話し掛け、最後には号泣する。」という展開は、あっさりと描かれていたからこそ、冷酷なイメージが強い頼朝の深い悲しみ、延いては“兄弟が争わなければならなかった理不尽さ”を、より強烈に浮かび上がらせた

“普通の脚本家が好む描き方”を嫌い、(源義高が討たれる場面もそうだったが)重要な場面を敢えてあっさり描く事で、見ている側を深い余韻浸らせる。三谷氏、御見事!!


コメント    この記事についてブログを書く
« 「シン・ウルトラマン」 | トップ | “様々な能力”の衰え »

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。