著名人の訃報が相次いでいる。「ザ・ピーナッツの姉・伊藤エミさんが、15日に癌で亡くなっていた。」と27日に報じられ、「未だ若いのに・・・。」と吃驚させられた許りだというのに、昨日は小野ヤスシ氏(28日に腎盂癌で。)と地井武男氏(29日に心不全で。)の訃報が飛び込んで来た。手垢が付いた表現で申し訳無いが、どうしても感じてしまうのは、「昭和という時代が、益々遠ざかってしまったなあ。」と。其れだけ、昭和を感じさせる人達だったので。
伊藤さんは71歳、小野さんは72歳、そして地井さんは70歳で亡くなられた。我が国の平均寿命が「女性:86.39歳、男性:79.64歳。」(其れ其れ、2010年時点の数字。)を考えると、70代初めで次々と黄泉へ旅立った彼等は、余りにも若過ぎる。
「シャボン玉ホリデー」(動画)を見て育った世代では無いが、ザ・ピーナッツとハナ肇氏との「御粥のコント」(詳細)は知っている。だから「ハナ氏が亡くなる前、彼の病室で『御粥のコント』が、ザ・ピーナッツ達によって即興で演じられたという逸話。」を読んだ時は、目頭が熱くなったもの。
彼女達のヒット曲の数々、「情熱の花」(動画)や「恋のバカンス」(動画)、「ウナ・セラ・ディ東京」(動画)、「恋のフーガ」(動画)等は、今でもカラオケで歌ったりする。
「ザ・ピーナッツ」で思い出す事柄は人其れ其れ異なるだろうが、自分の場合は映画「モスラ」(動画)での2人。1961年に公開された此の作品、自分が実際に見たのは大分後になってテレビで放送された際だったが、「インファント島」なる太平洋上の孤島に住む妖精「小美人」を演じていたのがザ・ピーナッツだった。身長が約30cmという双子の妖精で、怪獣「モスラ」を呼び出す時に2人が歌う「モスラの歌」(歌)はインパクト満点。「モスラヤ モスラ ドゥンガン カサクヤン インドゥムウ♪」で始まる不思議な歌詞を、多くの子供達が口遊んだ事だろう。
「ザ・ドリフターズやドンキーカルテットに所属していた。」という事は御笑い大好き人間なので知っているが、小野氏と言えばピン芸人としての時代が馴染み深い。「11PM」(動画)や「なるほど!ザ・ワールド」(動画)での彼も印象に残っているが、何と言っても「スターどっきり㊙報告」(動画)での“キャップ(司会)”役が印象深い。
芸能人生活を「前半」と「後半」に分けた場合、地井氏程、其の「前半」と「後半」のイメージが異なる芸能人も珍しいだろう。「前半」は強面役、特に悪役を演じる事が多かった彼だが、ヴァラエティ番組でダウンタウンに弄られ、「チイチイ」なる愛称を付けられた辺りから、コミカルな役所が増えた。「首から下は、地井武男です。」なんてCM(動画)、昔の地井氏の役所を知っている人間ならば、「えーっ!」と驚き、そして笑ってしまった筈。
飾らない、そしてコミカルな部分が、地井氏の本当の姿だったのだろう。其の魅力が十二分に発揮されたのが、彼が“散歩人”として各地を歩く「ちい散歩」(動画)。「初めて出会った人達に対し、構える所無く、すっと相手の懐に入って行ける。」というのは天性の素質と言え、見ている側としても肩が凝る事は無かった。こういう素質を持った芸能人、地井氏の他には笑福亭鶴瓶氏位だろうか。道中でのスタッフとの掛け合いも面白かった。
地井氏の「長期療養」を理由に、「ちい散歩」が終了となったのは先月初めの事。「体調が良くないのかなあ。」とは感じていたが、よもやこんなに早く亡くなられるとは思ってもいなかった。彼の飄々とした姿がもう見られないのは、本当に残念。
3方は自由業者である、狂乱の60、70年代の人々であるということを念頭に置かねばなりませんけれども。しかしながら概してこの年代の方(1940年前後生まれ)はこれぐらいで逝かれる事が多いかなという感触を持っています。幼少時の極端な飢餓体験のためでしょうか?鳥取出身の小野さんは都市部出身者に比べれば良かったとは思いますが。
地井氏、私が少年期にちょっとファンだった栗田ひろみの映画でなぜか栗田ひろみに片思いされる役でした。子供心に「なんでこんなオジサンに!」(失礼!)と勝手にヤッカミ心を持ったのが地井氏を意識した最初だったかな…。のちにバイプレーヤーからバラエティタレントまで活躍するようになるとはそのときは思いませんでした。当時は陰気ないかにも70年代!な映画によく出てる方でした。その手の映画の常連はあまり見なくなってしまったが、地井さんは明るいキャラクターで気さくにバラエティに出たことで高い知名度を維持し続け、愛された。素晴らしい人生でしたね。
地井氏が亡くなられた事を受けて、ネット上では「散歩番組で各地を歩き回り、放射性物質の吸い過ぎた為ではないか。」という書き込みが散見されるとか。何でも彼んでも「放射能」のせいにするといった感じの指摘には、正直唖然とさせられます。
唯、「TV番組に従事されている方が、一般人よりも概して早世される。」様なイメージは在り、其処には何等かの理由が在るのかなあという感じはしますね。電磁波の影響なのかどうかは不明なれど、スタジオは得てして埃っぽく、其れで体調を崩される方も居るという話は聞きますし。戦時中に少年期を送った人達は栄養が充分摂取出来ていないケースが多いと思われ、其れが影響している可能性も少なくない事でしょう。
栗田ひろみさん・・・懐かしいですね。森下愛子さんをより健康的にした感じの女優さんでしたが、AK様が書かれておられる映画は、自分も見た記憶が在ります。確か「放課後」という作品だった様な。
地井氏と言えば、「犬神家の一族」(1976年公開版)で演じておられた犬神佐武役も印象に残っております。首を切断され、菊人形の首と挿げ替えられていたシーンは、余りにも恐ろしくて、今でも忘れられません。
まあ1940年前後生まれですから、4歳ぐらいから10歳まで栄養悪い、都市部であれば空襲など多大なストレス。DDTの散布等々。11歳から40歳程度に重度の環境汚染(最近思い出されるトレンドの核実験含むが、煤煙、排ガスのほうが遥にすさまじく、影響が強い)。に加えて、芸能人の生活の特殊さ、でしょうか。映画スタジオはアスベスト使っていたところ多かったでしょうね。
>放課後
そうです!
ポスターがやけに隠微なのが今見ても「あの時代」を感じます。
女性の伊藤エミさんは、悪名高き東映映画に出ていた地井さんに比べれば穏やかだったかもしれませんが、やはりナベプロ全盛時代。想像を絶するような忙しさだったでしょうね。
食堂で見たテレビで、コメントを求められていた中尾ミエが沢田研二に嫌味を言っていたので、「あ、ジュリーの奥さんのほうか」と知った次第。そしてナベプロ古参はジュリーを決して許していないんだな、と感慨深く思いました。もちろん渡辺さんもきっと。
ビートたけし氏が以前、「『ダイオキシン』だ『食の安全』だなんて騒いでるけど、戦中に生まれ育った子供達は頭からDDTを撒かれたり、チクロ等の身体に悪い物を食して来たりしたのだから、一寸やそっとの事では負けない肉体を有している筈。」といった趣旨の事を言っていました。確かに、そういう面は在るでしょうね。
ポルノ映画に限らず、昔は普通の映画でも淫靡なポスターが街中、其れも通学路とかに貼られていたりしました。
今でこそ「ジャニーズ」だ「バーニング」だ「スターダスト」だ「ケーダッシュ」だと大手芸能プロダクションと呼ばれる所が幾つか在りますが、ザ・ピーナッツ全盛の頃は「ナベプロに非ずして、大手芸能プロダクションに非ず。」といった、ナベプロ独り勝ち時代が在ったと聞きます。確かに、当時の人気者の所属事務所を見ると、殆どがナベプロという感じですからね。中山秀征氏や恵俊彰氏が司会業で台頭し、ナベプロも浮上はしましたが、嘗ての栄華を考えると未だ未だといった感じかも。
1985年あたりを境にビッグネームは大都市の大会場でしかやらなくなったような気がします。ビッグではないアイドルの「営業」も少なくなり、今はせいぜいJRA競馬か競艇とか住宅展示場、パチンコ屋でしかそういう広告を見ない。小規模自治体コンサートだとNHKの番組や地元ラジオとのタイアップとか。
看板屋をやっていた親族が文化会館ツアーに来る芸能人の興業に関わっていたことがあります。今では信じられないようなメンツ、ひばりなど。その思い出話の中にザ・ピーナッツも。「ナベプロは給料制や。他のプロダクションよりギャラが抑えられていて、しかもザ・ピーナッツは二等分やろ。気の毒やったな」と言っていました。他に「清純で売っていたカマトト風演歌歌手が裏では立てひざでバンドマンと花札やっていた」とか(笑)「ヤクザばっかりだ」とか(笑)いろいろ言っていました。
地井さんは最近まで出てたからびっくりしました。
小野さんは選挙に出なければもっと活躍してたのでは…。
長島温泉と言えば、近くに在る遊園地が懐かしいです。今は「ナガシマスパーランド」という名称ですが、幼少時に行った頃は別の名称だった様な。当時、ヘリコプターに乗せてくれるというのが在り、旋回するのは数分程度だったと思いますが乗りました。結構良い値段だったと記憶していますが、家族では自分だけが乗り、「空から見る景色って、こんなに開放的なのか。」と感動したもの。
以前にも書いたのですが、自分が最初に見たコンサート(ライヴという表現、個人的にはどうしても馴染めなくて。)はちあきなおみさんの物でした。当時、全盛期だった彼女。そんな彼女のコンサートを家族で見に行ったのは、名古屋の然程大きくは無い会場。今じゃあ、彼のクラスの歌手が来る事は無いで在ろう容量ですね。
「アイドルは、そんなに給料を貰えない。」という話は良く見聞しますが、先達て週刊誌で元光GENJIの諸星氏が、「其れは嘘。」と暴露していましたね。確かに給料自体は稼ぎに比べたら多くは無かった様ですが、十代そこそこの彼が「彼の車が欲しい。」とマネージャーに言うと、目の玉が飛び出る様な高額のスーパーカーを買って貰えたとか。