2ヶ月程前の記事「4TEEN」でも書いたが、石田衣良氏の作品を過去に遡って読み漁っている。どの作品を読んでも感じさせられるのが、文体の瑞瑞しさと表現力の豊富さ。そして、読み終えたばかりの恋愛短編集「1ポンドの悲しみ」では着眼点の良さ、これは感性が如何に研ぎ澄まされているかに繋がる事なのだろうが、に彼の作家としての非凡さを思わずにはいられなかった。
彼のあとがきの言葉を借りると、30代前半の未だ恋愛に迷っている人達のストーリーを集めたこの本の中で、最も印象に残ったのが「ふたりの名前」という作品。”名前”というものをキーワードにして、実に上手い味付けのされた小粋な内容だ。
同棲してから1年近くになる30代の男女、間山俊樹と柴田朝世を中心に話が展開して行く。御互いに好意を持ちつつも、一生を共にするベストなパートナーなのかが見極め切れずにいるこの2人は、購入したモノ全てにサインペンで各々のイニシャルを書き込んでいる。御互いに何度か手痛い別れを経験して来た者同士、どんなモノでも所有権をハッキリさせておけば、何時か同棲を解消する事になっても醜い奪い合いをしなくても済むと理解しているからだ。それ故に、卵等の食料品のみならず、家具や電化製品、書籍等、部屋のありとあらゆるモノに彼等のイニシャル「T」と「A」が書き込まれている。共にスーパーで購入したモノも、後できっちり各々の分を精算する事にしている程。友人からは「恋人同士としては冷た過ぎる。」とか「大変でしょ?」と言われるものの、本人達はそれがごく普通の”習慣”として捉えていたし、順調な生活だとも思っていた。
そして或る日、友人の紹介で1匹の子猫を貰い受ける事となった。子猫を乗せて家に帰る車中での俊樹と朝世の会話。
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朝世: 「わたしがきみに最高の名前を付けてあげるからね。」
俊樹: 「おでこのまんなかにAって書かないのか。」
朝世: (そんな事は考えもしなかったので憤然と)「書くわけないじゃない。この子は家族の一員で、俊樹のテレビなんかとはくらべものにならないんだから。」
俊樹: (暫くの静寂の後)「この1年でイニシャルを書かなくていいものがうちにきたのは、初めてだ。そういうのがだんだん増えていくと、ぼくたちの暮らしも変わっていくのかもしれないな。」
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子猫を飼い出して2日後の月曜日。仕事から急ぎ足で帰宅した朝世は、子猫の様子がおかしい事に気付く。気が動転しどうして良いか判らない彼女は、オフィスの俊樹に電話をかける。子猫の状態を確認し、直ぐに近所の動物病院に連れて行く様に指示する彼。仕事を直ぐに切り上げて、自分も真っ直ぐ動物病院に向うと受話器の向こうで話す彼は、電話を切る直前に力強い声で彼女に語る。
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俊樹: 「朝世、しっかりして。その子はまだ名前さえないんだ。きみだけが便りなんだよ。」
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最寄の動物病院に駆け込んだ朝世は、獣医から子猫が心臓に先天性の欠陥を抱えている事を知らされる。子猫がペットショップで購入されたのではなく、知り合いから貰い受けた事を知った獣医は、彼女に「ペットショップのものなら、保証書がきいて元気な猫ちゃんと交換できるんですが、それは困りましたね。」と淡々と話した上で、「このままでは助かりませんから、心臓の手術が必要です。手術には危険がともないますし、多額の費用もかかります。」、「手術がうまくいっても、こうした障害をもって生まれた子猫は病弱なことが多く、あまり長生きしないかもしれません。成功しても合併症を起こして手遅れになることもあります。手術をするか、あるいはこのまま安らかに眠らせてあげるか、厳しい選択になりますが、よくお考えのうえ明日お電話ください。」と最終決断を朝世達に委ねる。
手術以外の選択肢を考えられなかった彼等は手術して貰う事を決断し、その日を迎える。手術中の待合室で、耐えられない長い時間を過ごす2人。突然、朝世がショルダーバッグから手帳を取り出し、ボールペンで走り書きを始め、そしてルーズリーフを1枚ちぎるとくしゃくしゃに丸めてバッグに押し込む。それを見て、「何をしてるんだ?」と声を掛ける俊樹に、泣きそうな声で彼女は答える。
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朝世: 「あの子の名前を考えてる。あの子は今苦しくてたまらなくて、それでも必死に闘っていると思う。がんばれって応援してあげたいけど、わたしはどんなふうに呼んだらいいのかもわからない。わたしたちのまわりにあるものは、どんなにくだらないものでも、ちゃんと決まった名前をもってるのに、あの子には名前もないの。生まれてひと月で、もっているのは穴のあいた心臓だけなんだ。そう考えたらたまらなくなって。」
俊樹: 「今はいいよ。あいつがもってるのは穴のあいた心臓だけじゃない。ぼくたちだっているし、かえる家だってある。名前のない猫だって漱石みたいで悪くないじゃないか。やつが根性を見せて無事にかえってきたら、ふたりで死ぬほど考えていい名前をつけてあげよう。」
俊樹: 「今回のことで、ぼくにはよくわかったことがある。名前ってぼくたちがやってるみたいに誰のものかあらわすだけじゃないんだ。何度も心のなかで呼んでみたり、歌うように繰り返したり、誰にも見られないように書いたりする。好きな人の名前って、それだけでしあわせの呪文なんだね。ぼくは朝世の名前が好きだよ。うちにあるツナ缶やスパゲッティやプーアール茶のうえに書いたAだって、すごく気にいっている。部屋中全部Aと書いてあってもいいくらいだ。」
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二時間半かかった手術は無事成功に終わる。獣医に揃って感謝を述べる彼等に、獣医は次の様に返す。
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獣医: 「いいえ、お礼をいうのはこちらのほうです。ああした場合、だいたいのかたは安楽死を選びます。ひどいときにはペットショップの店員が、その場に交換の子猫をもってきたりすることもある。失礼ながらわたしは、おふたりもきっとそうなさるだろうと思っていた。今日の心臓のオペは現代の技術なら、勝ち目の多い手術でした。あの子に生きるチャンスを与えてくださってありがとう。」
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その夜、動物病院から戻った二人は、二週間後に退院予定の子猫の名前を決定する。それは、二人が共に暮らし始めてから、初めて一緒に考えて選んだ”名前”。
彼のあとがきの言葉を借りると、30代前半の未だ恋愛に迷っている人達のストーリーを集めたこの本の中で、最も印象に残ったのが「ふたりの名前」という作品。”名前”というものをキーワードにして、実に上手い味付けのされた小粋な内容だ。
同棲してから1年近くになる30代の男女、間山俊樹と柴田朝世を中心に話が展開して行く。御互いに好意を持ちつつも、一生を共にするベストなパートナーなのかが見極め切れずにいるこの2人は、購入したモノ全てにサインペンで各々のイニシャルを書き込んでいる。御互いに何度か手痛い別れを経験して来た者同士、どんなモノでも所有権をハッキリさせておけば、何時か同棲を解消する事になっても醜い奪い合いをしなくても済むと理解しているからだ。それ故に、卵等の食料品のみならず、家具や電化製品、書籍等、部屋のありとあらゆるモノに彼等のイニシャル「T」と「A」が書き込まれている。共にスーパーで購入したモノも、後できっちり各々の分を精算する事にしている程。友人からは「恋人同士としては冷た過ぎる。」とか「大変でしょ?」と言われるものの、本人達はそれがごく普通の”習慣”として捉えていたし、順調な生活だとも思っていた。
そして或る日、友人の紹介で1匹の子猫を貰い受ける事となった。子猫を乗せて家に帰る車中での俊樹と朝世の会話。
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朝世: 「わたしがきみに最高の名前を付けてあげるからね。」
俊樹: 「おでこのまんなかにAって書かないのか。」
朝世: (そんな事は考えもしなかったので憤然と)「書くわけないじゃない。この子は家族の一員で、俊樹のテレビなんかとはくらべものにならないんだから。」
俊樹: (暫くの静寂の後)「この1年でイニシャルを書かなくていいものがうちにきたのは、初めてだ。そういうのがだんだん増えていくと、ぼくたちの暮らしも変わっていくのかもしれないな。」
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子猫を飼い出して2日後の月曜日。仕事から急ぎ足で帰宅した朝世は、子猫の様子がおかしい事に気付く。気が動転しどうして良いか判らない彼女は、オフィスの俊樹に電話をかける。子猫の状態を確認し、直ぐに近所の動物病院に連れて行く様に指示する彼。仕事を直ぐに切り上げて、自分も真っ直ぐ動物病院に向うと受話器の向こうで話す彼は、電話を切る直前に力強い声で彼女に語る。
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俊樹: 「朝世、しっかりして。その子はまだ名前さえないんだ。きみだけが便りなんだよ。」
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最寄の動物病院に駆け込んだ朝世は、獣医から子猫が心臓に先天性の欠陥を抱えている事を知らされる。子猫がペットショップで購入されたのではなく、知り合いから貰い受けた事を知った獣医は、彼女に「ペットショップのものなら、保証書がきいて元気な猫ちゃんと交換できるんですが、それは困りましたね。」と淡々と話した上で、「このままでは助かりませんから、心臓の手術が必要です。手術には危険がともないますし、多額の費用もかかります。」、「手術がうまくいっても、こうした障害をもって生まれた子猫は病弱なことが多く、あまり長生きしないかもしれません。成功しても合併症を起こして手遅れになることもあります。手術をするか、あるいはこのまま安らかに眠らせてあげるか、厳しい選択になりますが、よくお考えのうえ明日お電話ください。」と最終決断を朝世達に委ねる。
手術以外の選択肢を考えられなかった彼等は手術して貰う事を決断し、その日を迎える。手術中の待合室で、耐えられない長い時間を過ごす2人。突然、朝世がショルダーバッグから手帳を取り出し、ボールペンで走り書きを始め、そしてルーズリーフを1枚ちぎるとくしゃくしゃに丸めてバッグに押し込む。それを見て、「何をしてるんだ?」と声を掛ける俊樹に、泣きそうな声で彼女は答える。
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朝世: 「あの子の名前を考えてる。あの子は今苦しくてたまらなくて、それでも必死に闘っていると思う。がんばれって応援してあげたいけど、わたしはどんなふうに呼んだらいいのかもわからない。わたしたちのまわりにあるものは、どんなにくだらないものでも、ちゃんと決まった名前をもってるのに、あの子には名前もないの。生まれてひと月で、もっているのは穴のあいた心臓だけなんだ。そう考えたらたまらなくなって。」
俊樹: 「今はいいよ。あいつがもってるのは穴のあいた心臓だけじゃない。ぼくたちだっているし、かえる家だってある。名前のない猫だって漱石みたいで悪くないじゃないか。やつが根性を見せて無事にかえってきたら、ふたりで死ぬほど考えていい名前をつけてあげよう。」
俊樹: 「今回のことで、ぼくにはよくわかったことがある。名前ってぼくたちがやってるみたいに誰のものかあらわすだけじゃないんだ。何度も心のなかで呼んでみたり、歌うように繰り返したり、誰にも見られないように書いたりする。好きな人の名前って、それだけでしあわせの呪文なんだね。ぼくは朝世の名前が好きだよ。うちにあるツナ缶やスパゲッティやプーアール茶のうえに書いたAだって、すごく気にいっている。部屋中全部Aと書いてあってもいいくらいだ。」
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二時間半かかった手術は無事成功に終わる。獣医に揃って感謝を述べる彼等に、獣医は次の様に返す。
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獣医: 「いいえ、お礼をいうのはこちらのほうです。ああした場合、だいたいのかたは安楽死を選びます。ひどいときにはペットショップの店員が、その場に交換の子猫をもってきたりすることもある。失礼ながらわたしは、おふたりもきっとそうなさるだろうと思っていた。今日の心臓のオペは現代の技術なら、勝ち目の多い手術でした。あの子に生きるチャンスを与えてくださってありがとう。」
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その夜、動物病院から戻った二人は、二週間後に退院予定の子猫の名前を決定する。それは、二人が共に暮らし始めてから、初めて一緒に考えて選んだ”名前”。
エピソードですね。
『極めて表面的な事にこだわって生活していた
男女が小動物の生死の境を目の当たりにして
二人とも忘れていた大切な事に気づかされる』
と言ったところでしょうか...。
現代人に向けた作者のメッセージなのでしょう。
活字は苦手な私ですが、これからは読書でも
始めてみようかと思いました。
石田衣良氏の作品は読んだ事がないので、giants-55さんが紹介して下さった事を機会に読んでみたいと思います。
作品にもよりますが、小説は読む度に深さを感じるし、読むのにエネルギーを使う分、充実した読後感を味わう事ができますね。
私は読書家という訳ではありませんが、本に目が止まれば手に取りたいと思う気持ちはありますし、店頭の小冊子や雑誌などの紹介文に興味を惹かれる事も結構あります。
文字だけの表現から、読み手が想像力を他の媒体以上に働かせようとするのも活字ならではですからね。
とは言え私は理解しながら本を読むのが下手なのですが・・・。
「池袋~」の一冊目だけでしたが、
読んでみたくなりました。
giants-55さんには素敵な本を紹介される事が多くて
(と勝手に思っている、笑)嬉しい限りです。
随分前になりますが、
貫井徳郎さんの「症候群」3部作も読んだのですよ~。
hiro様を始めとして多くの皆様方が覗いて下さっていると思うと、更新にも張り合いが出て来ます。今後とも宜しく御願い致します。
わたしもあの本のなかでは、「ふたりの名前」が一番好きでした。いいですよね!
またお時間がございましたらユキデッポウの方へも是非 遊びに来て下さい。失礼します
お久しぶりです。(^^ゞ
blogのコメントとは関係なくて申し訳ありません。
いつも読んでますよ!
これからも面白い記事書いて下さいね。