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母と娘。2種類の女性。美しい家。暗闇の中で求めていた、無償の愛、温もり。無いけれど在る、在るけれど無い。私は母の分身なのだから。母の願いだったから。心を込めて。私は愛能う限り、娘を大切に育てて来ました。そして其の日、起こった事。
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母Aと娘Bが居る。「A」にとって「B」は「娘」で在り、「B」にとって「A」は「母」だが、では娘Bが結婚をし、そして娘Cを授かったならば、其の瞬間に「娘」だったBは、Cにとって「母」という立場になる。当たり前の事では在るけれど、其れ迄に「娘」の立場だった人間が、「母」の立場に“も”なったからと言って、「母として独り立ち」出来るかどうかは、又別の話で在る。
湊かなえさんの近刊「母性」は、祖母と母、そして娘という3代を取り上げ、「母性」に付いて描いた作品。「女性の持つ母親としての性質。母親として、自分の子供を守り育て様とする本能的特質。」というのが母性の意味合い。
母親から可能な限りの愛情を注がれて育った女性が、自分自身が「娘」を持つ「母親」の立場になった際、自分の母親と同じ様になろうとすればする程、「娘」との関係が乖離して行ってしまう。
「母親に良く思われたい。」、「母親に気に入られたい。」という思いが強過ぎた子供時代。自身が「母親」になった時、そういった意識が子供で在る「娘」にも良くない影響を及ぼし、又、「娘」も娘で「母親に良く思われたい。」、「母親に気に入られたい。」という思いが強く在るものだから、御互いが相手に対して「得体の知れない人間」という意識を持ってしまう。特に母親が「娘」の意識を捨て切れず、「母として独り立ち」出来ない事が、事態を悪い方へ悪い方へと進ませてしまうのだ。
昨今、母性を全く感じさせない、鬼畜の所業としか思えない様な、母親による子供への犯罪が目に付く。其の度に、「母性とは本当に、女性が生まれ乍らにして有する特質なのだろうか?」と思ってしまうのだが、湊さんが此の作品を書いたのも、そんな疑問を持ったからなのかもしれない。
「此れが書けたら、作家を辞めても良い。其の思いを込めて書き上げました。」。「母性」の帯に記された、湊さんの言葉だ。其れだけ強い思いを込めて書き上げた作品なのだろうが、読了して思ったのは「結局、此の作品で湊さんは、何を訴えたかったのだろうか?」という事。
湊さんの作品は全て読んで来たが、新作が出る度に、「質」が悪くなっている気がする。総合評価は、星2つ。
確かに現実に40近い娘と60代の母親が仲良く母娘旅行って珍しくもないし、上手くいってるときはいいけど、娘が結婚したり、あるいは就職したりで離れることで母親が精神に異常をきたし始めて娘への支配欲をあらわにするっていうのも珍しくないし…。
息子だとやっぱ男だから遠慮があったり、息子の側が12歳ぐらいから冷たくなっていやおうなく子離れさせられたりするんだけど娘はそうでもないからややこしい、という『最近よくある流行のトピックを書いて見ました。』
あるいは私小説だったりして。
親子関係が上手く行っているというのは良い事なのですが、最近は「友達みたいな関係」というのを口にする若い親子が結構居ますよね。其処迄行ってしまうと、正直どうなのかなあという気がしています。傍若無人な親というのも駄目だけれど、子供に対して威厳の欠片も無い様な親というのも、子供の成育にとって良いとは思えないし。メリハリが在れば、話は別なんでしょうが。
うーん・・なんか・・後味が・・・・でした。
「母」になるには「父」がいたわけで
もともと遺伝子的な父母ではあるけど、母性は本能じゃないとおりがみは思っておりますよ。
もちろん父性も。
おりがみ様も、「母性」を読まれたのですね。「後味が・・・。」と書かれたのも、凄く判ります。爽快感とは全く対極に在る結末ですし、其れに「著者は、何を此の作品で訴えたかったのか?」というのがさっぱり判らないのも、後味の悪さに輪を掛けている様に感じます。
母性や父性って、其の人が育って来た過程で付加されて行く部分が大きい様に思います。「種を残したい。」というのが人間の本能として在るのならば、遺伝子上に「母性や父性に関する最低限の何か」は在るのかもしれないけれど・・・。