「気が進まない女房を、親や周りに押し付けられた。何時か代えよう、何時か代えようと思っている内に、40年も経ってしまった。見直してみると、こんな女房でも良い所は在る。第一、40年大過無く遣って来たし、良い子も作ってくれた。何よりも40年間に自分も馴染んでしまった。昔、代えようと思っていた気持ちも、段々変わって来る。」
何度か書いているけれど、田中角栄元首相は自分が好きな政治家の1人だ。「悪い事も一杯した。」とは思っているけれど、其れ以上に「人間的な魅力」が在るから。「優れた行動力」や「溢れる人間味」、「卓抜した表現力」等々、魅了される要素は幾つか挙げられるが、「柔軟性が在る思考」というのも大きい。
今や瓦解状態とも言われる「みんなの党」。結党時からの勢いが嘘の様だが、代表を務めるのは渡辺喜美氏。彼の父親で、副総理も務めた“ミッチー”こと渡辺美智雄氏も、好きな政治家の1人。田中元首相同様、悪い事も結構してそうな雰囲気は在ったし、失言も多かったけれど、彼も人間的な魅力が在った。
「時計には、短針、長針、秒針が在る。此の時計が正常に動く事が出来るのは、其の裏側に非常に細かい部品が在って、其れが上手く機能しているからなんだ。細かい部品、1つでも狂って来ると、時計は機能しない。私は表に出ているけど、皆が、其れ其れの役割を遣ってくれている。だから、私も仕事が出来るんだ。何の仕事で在れ、上とか下とか無い。此の中で、誰か1人でも狂う時には、皆が狂ってしまうんだぞ。」
夕刊フジに「角栄のDNA」(筆者:佐高信氏)という連載記事が在り、9月26日付けの其れは「ハト派になったミッチー」というタイトルだった。其の中で紹介されているミッチーの言葉だ。
ミッチーと言えば、元は青嵐会のメンバー。「青嵐会って何?」と思われる若い人達も居られるだろうが、「自由民主党所属のタカ派議員で構成された政策集団。」で在る。当時は議員として新人だった石原慎太郎氏も構成メンバーの1人で、結成時には彼の提案で会員名簿に血判状を捺したというのだから、同会のタカ派振りが判ろう。
改憲タカ派の中曽根派に属していたミッチーだが、軈て中曽根派を離れ、護憲ハト派の大平正芳元首相や宮沢喜一元首相に重用される様になる。改憲派からすれば「変節漢!」と感じてしまうのだろうが、自分は「柔軟性が在る思考」からの変化と捉えている。
1985年、当時自民党の新人議員で、宮沢元首相のブレーンでも在った田中秀征氏は、党の新綱領制定に関わっていた。新綱領では自民党の“心臓”とも言える「改憲の条項」を外す事も考えており、其の為の最大のネックと言えるのが、青嵐会メンバーの説き伏せ。元青嵐会メンバー(青嵐会自体は、1979年に解消。)のミッチーの下に向かった田中氏は、「当然、大反対されるだろう。」と思った。そんな彼に対しミッチーは、冒頭の話をしたそうだ。彼の言う「女房」とは、(改憲派が「アメリカからの押し付けで在る。」と主張する。)「日本国憲法」を指しているのは、言う迄も無い。
日本国憲法に対してどういう考えを持とうが、其れは個人の自由で在る。「変えるべきだ。」と考える人も居れば、「変えるべきでは無い。」と考える人も居るだろう。自分は「時代に合わなくなった部分は、変えても構わないのではないか。」という考え方だが、「特定の組織や人物に強大“過ぎる”権力を与えてしまう可能性が、少しでも在る様な形での改憲は絶対に認められない。」とも思っている。
「ハト派になったミッチー」の最後を、筆者の佐高氏は次の文章で締めている。
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私は2000年の11月15日に参議院の憲法調査会に参考人として呼ばれた時、冒頭、此の発言(「気が進まない女房を~。」)を紹介し、此れは見事な現実政治家の感覚だと思うけれども、此の様な良識を是非此の委員会で尊重して欲しいと話した。
すると、其の調査会の委員だった世耕弘成が、私達はそうした先輩の曖昧さも直して行きたいのだ、と反論したので在る。安倍晋三側近の世耕達には保守の知恵が判らない。知恵の無い子供政治家が増えて来た。
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「深い思慮無しに、コロコロと立ち位置を変えてしまう様な柔軟さ。」は評価出来ないが、「深い思慮が無く、形式主義に拘泥し、唯々意固地なだけ。」というのは、もっと評価出来ない。
「国旗掲揚&国歌斉唱を法律で義務付け、少しでも違反した者は厳罰に処する様にすれば、学級崩壊を初めとした学校内での問題に留まらず、世の中の多くの問題が解決する。」といった趣旨の発言を以前にした政治家が居るけれど、“普通に考えれば”「在り得ない話。」というのは判ろう。「~しさえすれば、“全て”が上手く行く。」なんて事は、世の中に存在しないのだから。そういう“おこちゃま思考”の持ち主が政界のみならず、一般社会でも増えている気がして、不安を感じてしまう。
人生の中では遅かれ早かれ現実というものに触れざるを得ないけれど、「望ましいあり方」というのは早い段階で教えるべき。必ずしも原則通りではないことはどんどん入って来ても、「望ましいあり方」は身に着けるのが大変ですから。しかし、「望ましいあり方」にこだわり過ぎず、柔軟に対応することも必要だと思います。
大河ドラマ『清盛』において、「正しすぎるということは、もはや間違うているも同じことにござります」という言葉が出てきたそうですが(私自身は視聴しておらず、あるブログのレビューを読んだだけですが)、リーダーたる者、公明正大さだけでは人は束ねられず、ときには清濁併せ呑む必要があるということなのでしょう。
>「私は表に出ているけど、皆がそれぞれの役割を遣ってくれている。だから私も仕事が出来るんだ。何の仕事であれ上とか下とか無い。この中で誰か1人でも狂う時には皆が狂ってしまうんだぞ。」
「能力的にはオール良で、1つ1つの事柄については他にもっとデキる人がいるけれど、指針を示してスタッフを配置し、彼らからの報告を受けて適切な対応ができる人」もいれば、「ある分野とその周辺分野については高い能力を持つが、全体を把握して指針を示すことは不得手な人」もいます。それぞれの役割は序列というより職能の違いなのかもしれませんね。
以前にも書いた事で、飽く迄も“私見”で在りますが、「『清廉潔白だけれど、無能な政治家。』よりも、『“或る程度”ブラックな部分を有していても、其れを上回る国益(「真に国民の為になる事柄」と言った方が適切かもしれません。)を生み出してくれる政治家。』の方が評価出来る。」と考えています。様々な見地から深く熟考した上で、「此れは未来を踏まえても、日本の為に必ずやなる。」と思ったら、時には国民に猛反対を食らっても、又は国民に“嘘”を付いてでも、押し通す強靭な意思というのが政治家には求められるのではないか。其の過程で清濁併せ呑む気概というのは、政治家にとって必要だと思うのです。
唯、何処ぞの市長の如く、女性問題(異性問題なんて、当事者間で問題無ければ、そして違法な行為が介在しないので在れば、他者がどうこう非難すべき問題では無いと考えています。)が発覚した際、当初は「全くのデマ!」と声高に批判したものの、後になって「実は事実。」という様なケースは、「こんなちんまい事で平然と嘘を付いてしまうのだから、不都合な事が起これば幾らでも嘘を付くだろうな。」と、人として信を置けなくなります。
政界も、「器の大きな人間」が少なくなったなあと感じますね。勿論、どうでも良い事柄をネチネチと取り上げるマスメディアもおかしいのですが。
マスメディアのおかしさと言えば、最近、「中国と戦ったら、日本は簡単に勝利を収められる。」といった論調の記事を良く見掛けます。戦前、そして戦中、「日本は神の国だから、アメリカなんかに負ける訳が無い。」として、連戦連勝の嘘情報が流し続けて来たマスメディア。又、同じ過ちを繰り返そうとしているのか・・・と暗澹たる思いになります。