「着物の販売&レンタル等を手掛ける『はれのひ』が突如閉店し、予約していた大勢の新成人達が8日の成人式で晴れ着を着られなくなった。」というニュース、トラブルに巻き込まれた人達は、本当に気の毒だと思う。取引先への支払いや社員への給料支払いが滞り続けていたり、客に対して入金を異常に責っ付いたりと、昨年に倒産した旅行会社「てるみくらぶ」と似た悪質さを感じる。警察による徹底的な捜査、そして其の捜査結果を元に、法律で厳しく裁いて貰いたい。
で、今回の事件の舞台となった「成人式」だが、自分は出席した経験が無い。此の手の“集団主義的で格式張った式典”が嫌いというのも在るし、何よりも父を亡くし、自分で学費を稼がなければいけなかった事から、「そんな式典に出席する時間が勿体無い。」というのが在った。(今でも連絡を取り合う同い年の友人5人の内、矢張り成人式に出席しなかった者は3人。)出席しなかった事に対する悔いは、ウン十年経った今でも、全く無い。
メキシコやエチオピア、バヌアツ等、「成人式」を行っている国も在るが、アメリカやイギリス、オーストラリア、ドイツ等、海外では行っていない国の方が主流の様だ。行っている国でも、日本の様に地方自治体が血税を投入し、大々的な式典を行っているのは、非常に珍しいのではないだろうか。
日本の成人式に付いては、其の必要性の有無が良く取り上げられる。「“不要派”が“必要派”を、若干上回る。」というのが、アンケート結果等で良く見られる傾向。「『血税を投入するのは無駄。』と言うけれど、一生に1度の祝い事なのだから良いじゃないか。」、「本人よりも、晴れ着等を購入する親達が喜んでいるのだから、必要な式典だと思う。」、「呉服屋や美容院、飲食店等、成人式が存在する事で儲かる業種が在り、経済活性化の為に必要。」等が、必要派が挙げる主な理由だろう。
彼等の主張は判らないでも無い。経済活性化という面は、確かに在ると思うし。でも、個人的には「地方自治体が血税を投入して迄行う大々的な式典は、もうそろそろ無くしても良いのではないか。」と思っている。
「未来を背負って立つ子供達は、国が責任を持って育てる。」という考え方には大賛成だけれど、「“大人”という節目を国(正確に言えば地方自治体だが。)が血税を投入して迄、式典仕立てで祝う必要が在るのだろうか?」と疑問に感じるからだ。「新成人の家族達が、個人的に祝う。」というのは、全くの自由だけれど・・・。
そんなこんなで、皆様にズバリ聞きます!“地方自治体が主催する成人式”を、どう思いますか?
それに、私は、若い人が、体制側ともいうべき、市や県、国といったモノが行うイベントに、唯々諾々となんの疑問も疑わず参加するのは、どうも違和感を感じます。かといって、成人式で暴れるバカは論外ですが。
それに、人はそれぞれでしょう、法律で人が成人に達したかどうかを定めるのは不合理ではないでしょうか。15や16でも立派な大人といってもいい人がおります。いくつ何十になってもガキな人はおります。でも、日本は法治国家で成人すればそれなりの義務と責任も生じるから、便宜上、法律で20歳と定めているのでしょう。
だから、成人に達したと自分で判断すれば、仏教徒であれば自分の菩提寺、キリスト教徒であれば教会に、それでもない人は、地元の氏神さまにでもお参りして、親に感謝の言葉を述べる。成人式はそれで充分ではないでしょうか。
自治体から案内があったのかも記憶が定かではありませんし、すでに社会人として働き、親兄弟の庇護から独立して暮らしていたので、何をいまさらという気持ちがあったのかもしれません。
子供は国の宝という「建前」のある国ですから、成人を公的機関が祝うのを頭から否定するつもりはありません。
しかし、テレビニュースなどで荒れる成人式を見ていると、まだ反抗期から抜け出ていない子供を大人扱いして税金を使って祝う必要があるのかと、つい感情的に思ってしまいます(苦笑)。
成人式で騒動を起こす馬鹿連中、情け無い限りです。自分が若い頃にもああいう手合いは居たと思うし、“今”でもそういうのは極めて少数派で、殆どは真っ当な者だとは思っているけれど、「騒動を起こす。=自身の存在意義を示す。」とでも思っているのならば、最早“成人の資格”無し。
此れは自分のが若い頃も同じでしたが、「個性を否定するな!」と主張していた連中が、流行りのファッションを盲目的に取り入れ、皆が皆同じスタイルを取り入れていたりする。変人の自分なんぞは「何だかなあ・・・。」と白い目で見ていたけれど、そういう“群れたがる習性”や“異分子と見られる事を極度に恐れる”というのは、我が国の国民性なのかもしれません。成人を迎えられた事への感謝や祝福って、仰る様に色んな形が在って良い筈。
悠々遊様も、成人式に出席されなかったのですね。当時、出席した“同級生”から聞いた話では、「会場で大きな盃に注がれた酒を、皆で回し飲みさせられて、凄く嫌だった。」と。其れを聞いて益々「出席しなくて良かった。」と思ったもの。
成人式が「大人になった事を祝う場」で在るならば、個人的には「着る晴れ着等の購入費(乃至はレンタル費)は、成人本人が(借金という形も含め)自腹で払うべきなんじゃないかなあ。」と思っています。「社会人になっても正規雇用の道が厳しく、生きて行くだけで精一杯。」というケースは別ですが、学生時代の奨学金の返還を親が変わって行ったり、晴れ着等を親が購入したりというのは、自分で奨学金をせっせと返済&完済した自分からすると、「少し甘過ぎるのではないか。」とどうしても感じてしまうからです。
いずれにしても、若者が、自分の時ぐらいは好きにやりたい、と考えており、それを見逃してくれることを、おそらくは見抜いているのでしょう。メディアが騒ぐのであれば、そうした、暴れる若者の心理や、大人たちに見逃してくれよ、という、甘い幻想を抱いている事を、論じ尽くしてもらいたいです。
成人式はあるので当たり前だと、僕も含めて思っているので、中止すれば大変なことになると思います。式はあるだろう、良い再会があるだろう、大人たちは見逃してくれるだろう、と若さゆえの、希望の再会でもあり、甘さでもあると思います。
インスタグラムで自身の何でも無い日常を、延々と公開したり、自身が書いた事に対して“いいね!ボタンを押して貰う事に必死になっている人達が結構居る。そういう人達は概して「自身の存在を、多くの人達に認識して欲しい。」、「自分はこんなにも多くの人達と繋がっているのだという事を、目に見える形で確認したい。」という気持ちが強いのではないかという気がしています。成人式で暴れる人達も又、同じ様な気持ちからしている事ではないかと。
成人式の中止、此の式典で潤う業種が幅広く存在している事から、現実問題としては無理でしょうね。でも、仮に“国”が中止を決めたとしたら、中止に反対する一時的な騒ぎは起こるものの、騒ぎは意外と早い段階で収束しそうな気もしています。と言うのも、秘密保護法案や安保法案に対する反対が結構合ったのに、通ってしまえば「何事も無かったかの様な状態」になっている現実が在るからです。“仕方無い症候群”なんて用語が在りますけれど、今の日本は老若男女を問わず、「“御上”が決めた事には、逆らっても仕方無い。」という諦観の念に支配されている様に感じています。
当時、親元から離れて都会の大学に行ってたので、正月休みには帰省していましたが、その頃は祝日である成人の日は1月15日と決まってたので、多分地元(住民票は田舎のままだったので)で開催されたであろう成人式に、またわざわざ帰省してまで参加するのは交通費ももったいないし、それ程の意味も感じなかったので、それで参加しなかったのではないかと思います。
そもそも、“成人(大人)になった”という感覚は、“本人がそう自覚した時”に感じるものであって、例えば20歳の誕生日に親から祝ってもらってもいいし、高校又は大学を卒業した日、会社に就職が決まって社会人に初めてなった日、など、「一つの節目を迎えた日」に、“これから大人になるのだ”という責任を肌で感じ、自分自身の気を引き締める、その日が自分の「成人の日」なのだと思います。
国や自治体が勝手に決めた日に、お仕着せで祝ってもらったって、意味は無いと思います。そもそもなんで晴れ着を着ないといけないのか理解出来ません。業者の商売に利用されてるだけだと思います。
なので、国や自治体が取り決めて、「晴れ着での参加は認めない」とルール化するならやってもいいと思いますが、今のような晴れ着コンテストみたいになってる成人式なら、止めた方がいいと思います。
ちなみに私の二人の娘が成人になった時は、お祝いにスーツを買ってあげて、誕生日に写真館で記念写真を撮りました。成人式も本人の意思に任せましたが、その買ってあげたスーツで参加しました。本人たちも周りが晴れ着でもまったく気にならなかったそうです。
---------------------------------------------
(追記)
ちょうどネットで、この件の構造的な問題を指摘した記事を見つけましたのでhttpを貼り付けておきます。私の考えにも近いですね。ご参考までに。 ↓
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20180111-00155406-diamond-bus_all
「“成人(大人)になった”という感覚は、“本人がそう自覚した時”に感じる物。」、全く同感です。法律的な手続き等が在りますから、“公式的な成人の線引き”は必要ですが、だからと言って地方自治体が態々血税を投入して迄式典を行う必要は無いと思うし、そういう御仕着せ的な物に“個性の重要さを訴える若者”が、何の疑問も感じずに出席している事に、自分は違和感を覚えます。
Kei様の様に、心からの祝意を持って御子様にプレゼントするというのは「在り。」だと思うのですが、「皆が皆、親から晴れ着を購入して貰っているから、内も合わせなければいけない。」という“強迫観念的な思い”から購入している親達というのは、正直気の毒な感じがしています。
以前、或る高齢者(女性)が、孫にランドセルを購入した際の話を、TV番組で紹介していました。孫が来年から小学校に入学する事になった際、娘(孫の母親)が突然家に来て、「ランドセルを選びたいから、付き合って欲しい。」と言われたそうです。で、一緒に行ったら、孫に娘が「今日は、御祖母ちゃんがランドセルを買ってくれるから、好きなの選びなさい。」と言い、孫は5万円のランドセルを選んだ。孫は可愛いし、ランドセル購入の為の御金を少しは出して上げ様と思っていたけれど、そんなに高い物を、其れも全額払う事になるとは思っていなかったと。少額の年金でかすかすの生活を送っている身としては、5万円の出費は正直痛かった。そんな話を仲の良い高齢者にした所、「実は、私も同じ経験をしたのよ。」という話で盛り上がり、其の中の1人から「そういう場合はね、最初から『入学祝いを用意したから、此れでランドセルでも買ってね。』と“支払える範囲の御金”を渡すのが一番よ。」と言われ、皆で「其れは良い考えだわ。」と言い合いました。そんな話でしたが、強迫観念的思いから晴れ着を購入している親達と相通じる部分を感じました。
リンク先の記事拝読しましたが、自分が以前から思っていた事が記されており、「だろうね。」という思いが。慣習として行われる事柄って、概して悪意を持った輩が跋扈し易い環境に在るんですよね。