山口県周南市の徳山工業高等専門学校の校内で、20歳の女子学生が絞殺された事件から10日後の昨日、容疑者として指名手配されていた同級生の男性(19歳)が首吊り遺体で見付かった。遺体は死後10日程経過しており、一部が白骨化していたという事なので、件の事件が起きて間も無くの死と思われる。理不尽且つ非道な殺人事件が、加害者死亡の形で幕を下ろしてしまう事になれば、被害者の御遺族はさぞ遣り切れない事だろう。
被害者の遺体に付着していた髪の毛等の遺留物と、この男子学生のDNAの型が一致した事から、事件発生の翌日には逮捕状が取られた上、全国に容疑者として指名手配されていた。しかし男子学生が19歳だった事から、少年法第61条の「家庭裁判所の審判に付された少年又は少年の時犯した罪により公訴を提起された者に付いては、氏名、年齢、職業、住居、容貌等により、その者が当該事件の本人で在る事、推知する事が出来る様な記事又は写真を、新聞紙その他の出版物に掲載してはならない。」の規定により、容疑者の顔や名前等の情報が警察から公開される事は無かった。「青いバイクで逃亡している。」という話も、警察から”公に”発表されたものでは無かったのだとか。*1
奇しくも容疑者の遺体が発見された昨日、男子学生の顔写真及び実名を掲載した「週刊新潮」が発売された。「殺人事件で犯人の身柄確保以上に優先す可き事は無い。凶悪犯が逃亡し、指名手配されており、実名も顔写真も公開されないのはおかしい。」というのが週刊新潮編集部の見解。
「神戸連続児童殺傷事件」の際にも、”酒鬼薔薇聖斗”を名乗っていた加害者少年(当時14歳)の顔写真&実名が写真週刊誌に掲載された事が在ったが、出版社側の「売らんかな意識」が強く働いている面は当然在ると思う。しかし諸々の状況を鑑みると、こういった凶悪犯罪を為した少年に関して、その個人情報、即ち顔写真や実名等が公開されても致し方無い時期に来ているのではないかという気がする。
理不尽且つ非道な犯罪を為しながら、「少年法で守られている。」と嘯き、全く反省の色を見せない少年達の話をしばしば見聞する。加害者の側の人権が過度に守られて、被害者の側の人権が蔑ろにされている事のおかしさを当ブログでも何度か指摘して来たが、今回も被害者の女性に付いては顔写真や実名どころか、彼女の映像や文章等ありとあらゆる物が晒されて来た。中には猟奇的且つ恥辱的な犯行現場の様子迄もが、事細かく報じられもした。これは被害者に対してのみならず、御遺族に対しても冒瀆的行為だと思う。翻って容疑者の男子学生は、遺体が発見される迄週刊新潮を除き、一切”姿形の無い”状態で守られて来たので在る。
そういった感情的な受け入れ難さを別にしても、今回の場合は容疑者の顔写真や氏名は公表しても良かったのではないかと考えている。その事により、容疑者が自殺する前に身柄を確保出来たかもしれないし、それ以上に容疑者が第2、第3の犯行に手を染める可能性だって在り得た訳だ。凶悪犯罪の容疑者が逃亡しているのに、一般市民はその容疑者の情報が無い(若しくは極めて限定的な情報しか無い)というのでは、一人の人権を守る事により、その他大勢の人権が踏み躙られていると言えなくもない。何でもアメリカでこの手の事件が起こった際には、特例的に少年(少女)の個人情報が公開されるケース”も”在ると聞く。
そこで皆様にズバリ聞きます。「今回の事件、容疑者の個人情報が少年法の観点から公開されなかった事をどう考えますか?」
少年法というものが実際に存在し、其処に少年の個人情報を公開してはならないという条文が在る以上、法的な見地からは警察の採った措置が正しいと言わざるを得ない。それは理解した上で、出来れば”感情的な面”を排除して、「加害者の確保及び二次的犯罪の予防」や「少年法の在り方」等の観点から御意見を戴けると幸いで在る。
*1 容疑者が亡くなっていたという事を受け、マスメディアでは一斉に男子学生の顔写真や実名の公開に踏み切った。「死亡により、少年の更正を妨げる要因にはならない。」という判断からの様だ。逃亡している際には非公開を貫き、いざ亡くなると全面公開。この”メリハリ”の付け方も、何か妙な気がする。
また今回のように被疑者死亡の場合は不起訴となりますが、これも止めるべきです。江戸の頃みたいに犯人の遺体を塩漬けにして裁判にかけてもよいのでは?ちょっとケースは違いますが一家心中なんか只の子殺しじゃないですか。何の罪もない子供を大人の都合で殺めたに過ぎません。
被害者は殺された後でもあることないこと書き立てられるおかしな世の中、加害者なればこそ死者に鞭打つ事も必要ではないですか?
現状報じられている範囲では、被害者が殺害されてから間もなく、この男子学生は縊死していた様ですので、直ぐに顔写真や氏名等を公開していても身柄確保は出来なかったかもしれませんね。
この事件が突発的なもので在ったのか?それとも、計画的なものだったのか?今となっては真相は闇の中ですが、”今回の一件に関しては”遺族の側の哀しみと共に、加害者側の家族(遺族)の哀しみも判るだけに辛いです。
不勉強な為初めて知ったのですが、2003年の12月11日に警察庁が全国の警察本部等に「犯した罪が凶悪で在り、その手段や方法が特に悪質で再び凶悪な犯罪を行う恐れが高い場合、少年自身の保護と社会的利益との均衡、捜査の必要性等の諸要素を総合的に勘案し、その要否を判断した上で公開捜査が出来る。」との通達を出していた様です。つまり日本でも上記の要件がクリアされれば、少年で在っても顔写真や実名を公開出来る訳です。今回の場合、この要件をクリアしているとは見做されなかった訳ですが、結果はともかく、その判断が本当に正しかったのかなあ?と思ってしまう所では在ります。
仰る様に、命を軽んじる様な風潮は哀しいですね。他者で在ろうが自身で在ろうが、命を奪う事でどれだけ多くの人達が、長きに亘って哀しみや苦悩を抱えて生きなければならないかをもっと考えて貰いたいのですが・・・。
今の子供の早熟化、犯罪の低年齢化を考えれば当然変わってしかるべきでしょうし、それ以前に凶悪犯罪の犯人である以上、身柄の確保が最重要である事は間違いないでしょう。その意味では今の法律に無理がある事は間違いないと思います
とはいえ一マスコミが自分勝手な理屈(例えそれが理解できるものであっても)で特ダネを物にするのは非難すべきだとは思いますが。
ちなみに今回みたいに逃亡の恐れのなくなった死者を鞭打つ必要があるのか、という疑問はあります(成人を含めて)。自分で自分に死刑判決を言い渡したわけだし、それ以上の物を求めるのは(民事裁判は別ですが)連座法の復活みたいでなんだかすっきりしないのですが(甘いのかなあ?)
少年法の建前は「加害少年の保護更生」という事に在るのですが、更正施設及びシステムが整っているとは思えない現状や、「少年法で守られているから大丈夫。」といった無反省な加害少年達の話を耳にすると、「未成年者に特権を与えている」”だけ”の法律という気がしてしまいます。
「死者は反論の機会が与えられないから。」という理由等から、被疑者死亡の場合は不起訴となってしまう訳ですが、自分もこれはどうかと思っています。「死者に鞭打たない文化」というものが、性善説がそれなりに生きていた時代には”美しさ”を伴っていたのでしょうが、今では同様の事件を再発させてしまう一つの要因になってしまっている様な感じがします。
一家心中に関しては、その判断に悩ましさを覚えます。と言いますのも、破壊王子様の書かれておられる御意見はごもっともだし、理解は出来るのですが、親の立場からすると残された子供達の行く末を考えて道連れにしてしまう気持ちも理解出来ない訳ではないからです。子供が或る程度の年齢に到っていれば未だしも、そうではないと道連れにしてしまう申し訳なさ&不憫さと、残して行く事への罪悪感&不安が心の中で相当鬩ぎ合ってしまうのではないかと。これは難しいですね・・・。
元記事の方も読ませて戴きましたが、「週刊新潮の見解が池田○作氏の論調と大して変わらないのでは?」というのは上手い表現ですね(笑)。
少年法に付いては上記(マヌケ様へのレス)で触れましたが、警察庁から”特例”の通達が為されていた様です。ですので身柄確保という観点から言えば、山口県警の判断次第では個人情報の公開が可能だった事になります。
唯、法律というものは概して特例を作らないに越した事は無いと思っています。特例に特例を重ね、気付いてみれば為政者にとって非常に都合の良い、そして逆に国民にとっては不利益を被る法解釈になってしまう危険性が在るからです。改正したばかりの少年法ですが、本当にこれで現状に対応出来るものなのか?それとも、抜本的に改めなければならないのか?考えて行く必要が在りそうですね。
死者に鞭打つ様な行為。単なる好奇心を喚起する為の報道は在ってはならないと思います。しかし、真相を究明する事で、又、凶行を為した場合にはそれなりの責めを、例え亡くなった後でも負わされるのだという事を一般に知らしめる事で、同じ様な事件の再発を防げる可能性が在るので在れば、死者に鞭打つ様な事が在っても致し方無い様に”自分は”考えます。
最近少年犯罪が頻発しており、少年法の意義をないがしろにするような被告の発言も見られることから、少年犯罪の抑止という目的と、多感な少年少女が先走った行動(今回のような自殺、さらに犯罪を犯すなど)を取らせないためにも、公開すべきではなかったかと思います。
もちろん公開、非公開はケースバイケースで熟慮の上判断すべきであり、今後一転して一律で公開ということはやるべきではないと思います。
愛着の在る地域で起こった事件という事で在れば、さぞかし複雑な御気持ちだと御察し申し上げます。
少年犯罪って非常に難しい問題で在る事は事実だと思います。成人に比して心身共に未熟な面から、更正の余地をより考慮しなければいけないでしょうし。法律云々を論じるのもそうですが、更正施設やシステムが果たして相応しいものなのだろうか?という、犯罪後の部分も論じられて行くべきなのかもしれませんね。
今回男子学生が亡くなって以降の報道には、媒体によって異なった判断が出ています。彼の個人情報を公開した所も在れば、従前通り非公開の所も在る。媒体毎の判断に異なりが在るという事で、今後も議論を呼びそうなテーマでは在ります。