一昨日、文化勲章の受賞者及び文化功労者の選出者が発表された。国家や公共に対する功労者を表彰する為、国家が与える「栄典」には、勲章、褒章、位階等が在るが、こういったものが発表される度に、「本当に必要な制度だろうか?」という思いが湧いてしまう。今回の報道で初めて知ったのだが、文化功労者に選出されると文化功労者年金法に基づいて年額350万円が終生支払われるのだそうだ。勿論、文化功労者の中から選出される文化勲章受章者にも、同権利が与えられている。国家が文化を尊ぶ事は重要だと思っているが、樋口一葉の時代ならいざ知らず、当世に於いて文化功労者に選出される様な人々は、功なり名を遂げ、それなりの資産を有している場合が殆どではなかろうか。1人辺りの金額としては大した事はないのかもしれないが、毎年毎年人数が増えて行く対象者(亡くなった方も居るであろうから、総数はそれ程変動が無いのかもしれないが。)への総額は結構なものになるのではないか。富んだ者達へ与えるよりも、将来の文化の担い手で在る若き才能育成にそういった金銭を廻した方が、余程有意義な気がする。又、こういった栄典の選出基準が曖昧なのも疑問を感じる所だ。
以前ネットサーフィンしていた所、「人間にとって勲章とは」という記事に出くわした。なかなか興味深い内容だったのだが、「栄典制度へは、『官尊民卑だ。』とか、『等級制は差別を生み出している。』という批判が強い。」という点に付いては、取り敢えず此処では触れるつもりはない。問題に思うのは、勲章等を欲しいが為にその地位に留まり続け、結果的に”老害”を生み出している現状だ。
個人的な話になるのだが、以前務めていた会社の社長がその様なタイプだった。上場会社で在り、オーナー社長でも無かったのだが、廻りをイエスマンで固めた事で、恐怖政治が敷かれた”物言えぬ”組織だった。比類無き程にトップに君臨し続けた理由には、権力の座への固執も在ったろうが、その地位に在り続ける事で叙勲を受けたいが為という話が漏れ伝わっていた。もし、勲章を得んが為にトップの座に居座り続けたならば、その間及びそれ以降長期に亘って会社の業績を低迷させ、挙句には社会に問題を生じさせた事(詳細に触れられないのが心苦しい所だが。)は老害以外の何物でもない。
「人間にとって勲章とは」の中の「明治の様に、国が若い時は業績と地位が一致している。その地位に見合った労力が無いと絶対運営出来ないから。それが何十年も続くと、あらゆる所で弊害が生まれる。」という記述は、正にその通りだ。天皇制の是非が論じられる際、その長きに亘る歴史&文化の重要性が肯定的な理由として挙げられる。栄典制度にも同様の理由から肯定し、文化を育む為には必要で在るという意見も在ろう。又、仮に栄典に伴う諸経費が無駄な物としても、「多少の無駄が無い世の中は窮屈で住み辛い。」とする意見も在るだろう。でも、それは国力に余裕が在った時代ならば判るが、今の様な破綻寸前の我が国に見合う制度なのだろうか?
「良い格好をしているだけ。」という中傷も在ろうが、勲章授与を拒んだ伊東正義氏の姿勢には共感を覚えた。又、婦人活動家で在り政治家だった市川房枝女史は、次の様に勲章授与拒否の理由を述べたというが、自身の言動をコロコロ変えて迄「寄らば大樹の陰」と自民党に居座り続けようとしている造反議員の姿を嫌と言う程見せ付けられている今、その言葉には痛快さを感じてしまう。
「わたしゃ百姓の娘でしてね。勲章を付けてる人なんか嫌いだな。」
以前ネットサーフィンしていた所、「人間にとって勲章とは」という記事に出くわした。なかなか興味深い内容だったのだが、「栄典制度へは、『官尊民卑だ。』とか、『等級制は差別を生み出している。』という批判が強い。」という点に付いては、取り敢えず此処では触れるつもりはない。問題に思うのは、勲章等を欲しいが為にその地位に留まり続け、結果的に”老害”を生み出している現状だ。
個人的な話になるのだが、以前務めていた会社の社長がその様なタイプだった。上場会社で在り、オーナー社長でも無かったのだが、廻りをイエスマンで固めた事で、恐怖政治が敷かれた”物言えぬ”組織だった。比類無き程にトップに君臨し続けた理由には、権力の座への固執も在ったろうが、その地位に在り続ける事で叙勲を受けたいが為という話が漏れ伝わっていた。もし、勲章を得んが為にトップの座に居座り続けたならば、その間及びそれ以降長期に亘って会社の業績を低迷させ、挙句には社会に問題を生じさせた事(詳細に触れられないのが心苦しい所だが。)は老害以外の何物でもない。
「人間にとって勲章とは」の中の「明治の様に、国が若い時は業績と地位が一致している。その地位に見合った労力が無いと絶対運営出来ないから。それが何十年も続くと、あらゆる所で弊害が生まれる。」という記述は、正にその通りだ。天皇制の是非が論じられる際、その長きに亘る歴史&文化の重要性が肯定的な理由として挙げられる。栄典制度にも同様の理由から肯定し、文化を育む為には必要で在るという意見も在ろう。又、仮に栄典に伴う諸経費が無駄な物としても、「多少の無駄が無い世の中は窮屈で住み辛い。」とする意見も在るだろう。でも、それは国力に余裕が在った時代ならば判るが、今の様な破綻寸前の我が国に見合う制度なのだろうか?
「良い格好をしているだけ。」という中傷も在ろうが、勲章授与を拒んだ伊東正義氏の姿勢には共感を覚えた。又、婦人活動家で在り政治家だった市川房枝女史は、次の様に勲章授与拒否の理由を述べたというが、自身の言動をコロコロ変えて迄「寄らば大樹の陰」と自民党に居座り続けようとしている造反議員の姿を嫌と言う程見せ付けられている今、その言葉には痛快さを感じてしまう。
「わたしゃ百姓の娘でしてね。勲章を付けてる人なんか嫌いだな。」
少し昔のことなのですが、経歴書みたいなものは手書きで一字一句間違ってはパーなんだそうで、それはそれは気を使いしなくてはならず、大変なんだとか。
本人は車の運転が出来なくなるし・・。
(軽微な違反でも、受賞できなくなるから)
文化勲章や功労者は、そういう終身もらえるお金の面もあり若い人の受賞はないのですが、ノーベル賞をもらうと呉れるという内規があり、田中こういちさんが若くしてもらったのだとか。
勲章のために辞めない老人、というのは周りにとってはありがた迷惑なだけですね。
「あげるから辞めてくれ」が正しいかも。
私がもし偉い人だったら「そんなややこしい書類を作らねばならないのなら、部下が大変だからいらない」かな?
授与の基準が地位である点も首をかしげちゃいます。
また文化と政治権力は本来相容れない性質と思いますが、現実には勲章を受けることで故郷に錦を飾りたいと思う人達も多いのでしょう。
小泉政権の趣旨はわかるが実行力は…?と思うことが多いし、いっそ財政破綻・戦争突入してみたら国も変わるのでしょうか。それでも官尊民卑の国のような気もしますが。。
純粋な気持ちも、お金がからむと純粋ではなくなる。人の気持ちを汚していく行為であることを、もう少し考えた方がいいかもしれないですね。