1942年5月24日、今は無き後楽園球場で、未だに破られていない、そして今後も破られる事は無いで在ろうプロ野球記録が樹立された。5月20日付け東京新聞(朝刊)のコラム「東京トリビア」は、「5・24後楽園球場 延長28回は・・・戦争を背負って生まれた」というタイトルで、此の凄い記録を紹介している。
真珠湾攻撃により、日本が太平洋戦争に突入したのは、今から74年前の1941年12月8日の事。其れから半年程経った1942年5月24日の14時40分、晴れ渡った後楽園球場で「大洋軍vs.名古屋軍」の試合が開始となった。先発は大洋軍が野口二郎投手、名古屋軍は西沢道夫投手。
2回表、名古屋軍が1点を先制するも、7回裏に大洋軍が逆転。そして、「4対2」で迎えた9回表、2アウトから古川清蔵選手がツーランを放ち、名古屋軍は同点に追い付く。以降、野口&西沢の両先発は救援を仰ぐ事無く投げ続けるも、18時27分、日没の為に「延長28回」で引き分けとなった。此の「延長28回」というのが、プロ野球の最多回数試合なのだ。
両投手が投じた球数は、併せて655球。長時間の試合で、走塁中に倒れる選手も居たというのだから、壮絶の一言。当時のルールには「延長の回数制限」は無く、「決着が付く迄闘い抜く。」というのが大原則。我が国で初めてナイターが行われたのは1948年8月17日という事なので、照明施設の関係から、日没でコールド・ゲームとせざるを得ななかったのだろう。
冒頭で書いた様に、此の試合が行われたのは戦時下。後楽園球場のスコアボードには、大政翼賛会が掲げたスローガン「進め!一億火の玉だ」が記されている。延長戦の大記録は、「敢闘精神」の格好のアピール材料として利用されたと言う。(当時、大リーグの最多回数試合は、「延長26回」だった。)
現在、プロ野球の延長は「最長12回」と規定されており、此の「延長28回」という最多回数試合は、もう破られる事は無いで在ろう。
午前0時を回ってもプロ野球の試合が続いたり
というのはあったようですが
さすがにいまはここまでしないですよね。
日没28回を含めて。
プロ野球も9回表、9回裏で普通にどちらかが
勝って試合終了が一番望ましいのですが。
サッカー.Jリーグのように前半45分、後半45分
ロスタイムはあれど2時間できっちり終わる
サッカー,Jリーグがダラダラ感ほとんどなしに終わると
いう意味では良いスポーツだと思うんですけどね。
プロ野球は緊迫感があるのは良いのですが
またそれが楽しみでもあるのですが。
でもどうせなら
鳴り物入りの応援は午後10時までというルールや
延長12回までのほうがまだ良いですよね。
見てるファンも長く見るのはさすがに飽きるだろうし
いまだと終電に間に合わないし。
泊まるホテル探さないといけないし。
この当時は日没まででしかも28回というのは
本当にすげえといいたくなる記録ですね。
「集中出来る時間には、限界が在る。」と言われますし、其の限界時間が近年は、どんどん短くなっていると。だから、昔の様に「笑って、泣かせ、そして又、笑わせる。」みたいな喜劇が受けなくなり、一発ギャグ的な物が重用される様になっていると、良く指摘されますね。
プロ野球の試合も、緊迫した展開だとそんなに時間を感じないけれど、だらだらとした物だと、「好い加減、早く決着を付けてくれよ。」と言いたくなる。
選手側で言えば「ちんたら走り」、そして応援する側で言えば「のべつ幕無しの鳴物応援」は、正直、見ていて嫌になります。
絶対という言葉はあまり信用しませんが、この記録や高校野球の奪三振記録(坂東英二)は絶対破れませんね。
戦時中というと“灰色の時代”というイメージが在るのですが、勿論辛くて哀しい出来事は多かったものの、一般庶民は結構図太く、そして日々を少しでも明るく生き抜こうとしていた事が、文献等から伝わって来て、驚いた事が在ります。
戦時中にプロ野球を行っていたというのも、そんな表れなのかも。「敵性語」(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%95%B5%E6%80%A7%E8%AA%9E)という事で、「ストライク」を「良し」、「ボール」を「駄目」等と置き換えさせられていたそうですが、今となっては笑ってしまいますね。
坂東英二氏の記録も、本当に凄い。凄過ぎるが故に、今の姿とのギャップを強烈に感じてしまう訳ですが。