最初に断っておきたいのだが、この記事は1ヶ月程前に書き上げ、そのアップをずっと保留していた。アップするタイミングを逸し続けていたというのが正確かもしれない。先だって“突発事項”が発生した為、似た様な記事を新たに書き上げた。従ってこの記事をアップすると、くどく感じられる方も居られるだろうから、“御蔵入り”させる事も考えたが、自分なりに考え考え書いた記事故、それも忍びなくてアップする事に。そんな訳で、チラッと読まれて「この前、同じ様な内容の記事が在ったなあ。」と思われた方はスルーして戴けたらと思う。
6年程前、或る個人運営のサイトをちょこちょこ覗かせて貰っていた。過激な事が書かれるでも無く、淡々と世の中の出来事に付いて触れるというスタンスが心地良く、好きなサイトの一つだった。或る日、そのサイトに当時流行っていたSMAPの「世界に一つだけの花」(動画)に関する記事が載る。「No.1にならなくても良い 元々特別なOnly one♪」という歌詞に関して、「そういう考え方を全面否定する気は無いけれど、この歌を元にして『順位付けは良くない!』といった主張をしている人には違和感を覚える。社会に出たら厳然とした競争社会が存在している訳で、個人的には少々綺麗事に過ぎる気がするから。」といった趣旨の内容が、何時もの如く淡々と記されていたのだが、アップされてから数日経った辺りから急に批判のコメントがドサッと寄せられる様に。「そういう考え方も在るだろうな。」と思える批判は良いのだが、中には「あんたの考えは絶対におかしい。謝罪しろ!」とか「SMAPの悪口は許せない。即刻サイトを閉鎖しなければ、然る可き対応を採ります!」といった首を捻らざるを得ない物も。
くどい様だが、その運営者は感情的になる事無く淡々と「あの歌詞が、自分の考え方には合わない。」と記していただけ。その考えを他者に押し付けていた訳でも無く、ましてやSMAPの悪口なんか書いてもいない。その旨を運営者は逐一レスとして記されていたが、“彼等”は「謝罪しろ!」だ「閉鎖しろ!」だの一辺倒。やがてその手のコメントが半端じゃない数になるに到り、そのサイトは閉鎖されるに到ってしまった。「面白そうな“祭り”だから乗っかってやれ。」という便乗犯も少なくなかったと思われるが、「自分と少しでも異なる考え方は一切認めない!」という極めて偏狭な思考の人も結構居る様に感じた。
巨大掲示板への書き込みを見ていると、「わざわざそんな事を書かなくても良いのに。」と思ってしまう物が結構在る。或る事柄に関して懇切丁寧な書き込みが為された際、「そんな事興味無いから書くな!」と書き込みがされるケースもそうだ。その事柄に興味が在ろうが無かろうが、そんなのは個人の勝手。自分が興味無いからといって、わざわざそれを理由に「書くな!」と書き込む事に、「何だかなあ・・・。」という思いがしてしまう。別に読む事を強制されている訳でも無いのだから、興味無ければ読まなければ良いだけの話ではないか。
以前よりネット場ではその手の人が結構居たけれど、最近は実社会でも「自分だけが正しく、その他の考えは存在し得ない。」といった独善的な主張を繰り広げる人が目立ってはいまいか?どんな考えを持とうがそれは全くの自由だが、他者にそれを執拗に強いないで欲しい。例えば「愛国」という概念一つ取っても、色んな形が在って良い筈。愛国を強く表現しないと、それを以てして「愛国者では無い。」といった切り捨て方をする人が居るが、表面的な愛国行為をやたらと強調し乍ら、実際には私利私欲を最優先している人だって居る。わざわざ愛国表現をしなくとも、この国を愛しているという人は居るだろうし、そういった人が多いのではないかと感じる。
「自分と一から十迄全て思考が一致する人間だけが住む世界」を心地良く感じる人が居ても構わないが、少なくとも自分は、そんな世界に全く魅力を感じない。周りが全て自分と同じ思考だなんて、不気味以外の何物でも無いから。十人十色の世界の方が、遥かに刺激が在って面白い。
6年程前、或る個人運営のサイトをちょこちょこ覗かせて貰っていた。過激な事が書かれるでも無く、淡々と世の中の出来事に付いて触れるというスタンスが心地良く、好きなサイトの一つだった。或る日、そのサイトに当時流行っていたSMAPの「世界に一つだけの花」(動画)に関する記事が載る。「No.1にならなくても良い 元々特別なOnly one♪」という歌詞に関して、「そういう考え方を全面否定する気は無いけれど、この歌を元にして『順位付けは良くない!』といった主張をしている人には違和感を覚える。社会に出たら厳然とした競争社会が存在している訳で、個人的には少々綺麗事に過ぎる気がするから。」といった趣旨の内容が、何時もの如く淡々と記されていたのだが、アップされてから数日経った辺りから急に批判のコメントがドサッと寄せられる様に。「そういう考え方も在るだろうな。」と思える批判は良いのだが、中には「あんたの考えは絶対におかしい。謝罪しろ!」とか「SMAPの悪口は許せない。即刻サイトを閉鎖しなければ、然る可き対応を採ります!」といった首を捻らざるを得ない物も。
くどい様だが、その運営者は感情的になる事無く淡々と「あの歌詞が、自分の考え方には合わない。」と記していただけ。その考えを他者に押し付けていた訳でも無く、ましてやSMAPの悪口なんか書いてもいない。その旨を運営者は逐一レスとして記されていたが、“彼等”は「謝罪しろ!」だ「閉鎖しろ!」だの一辺倒。やがてその手のコメントが半端じゃない数になるに到り、そのサイトは閉鎖されるに到ってしまった。「面白そうな“祭り”だから乗っかってやれ。」という便乗犯も少なくなかったと思われるが、「自分と少しでも異なる考え方は一切認めない!」という極めて偏狭な思考の人も結構居る様に感じた。
巨大掲示板への書き込みを見ていると、「わざわざそんな事を書かなくても良いのに。」と思ってしまう物が結構在る。或る事柄に関して懇切丁寧な書き込みが為された際、「そんな事興味無いから書くな!」と書き込みがされるケースもそうだ。その事柄に興味が在ろうが無かろうが、そんなのは個人の勝手。自分が興味無いからといって、わざわざそれを理由に「書くな!」と書き込む事に、「何だかなあ・・・。」という思いがしてしまう。別に読む事を強制されている訳でも無いのだから、興味無ければ読まなければ良いだけの話ではないか。
以前よりネット場ではその手の人が結構居たけれど、最近は実社会でも「自分だけが正しく、その他の考えは存在し得ない。」といった独善的な主張を繰り広げる人が目立ってはいまいか?どんな考えを持とうがそれは全くの自由だが、他者にそれを執拗に強いないで欲しい。例えば「愛国」という概念一つ取っても、色んな形が在って良い筈。愛国を強く表現しないと、それを以てして「愛国者では無い。」といった切り捨て方をする人が居るが、表面的な愛国行為をやたらと強調し乍ら、実際には私利私欲を最優先している人だって居る。わざわざ愛国表現をしなくとも、この国を愛しているという人は居るだろうし、そういった人が多いのではないかと感じる。
「自分と一から十迄全て思考が一致する人間だけが住む世界」を心地良く感じる人が居ても構わないが、少なくとも自分は、そんな世界に全く魅力を感じない。周りが全て自分と同じ思考だなんて、不気味以外の何物でも無いから。十人十色の世界の方が、遥かに刺激が在って面白い。
「興味ない」みたいなことを
わざわざ書く人、ありますよね。
言うのは自由だけど
わざわざご苦労さんな話で・・
思い出したのは
テレビの番組についての苦情。
(ドリフを想像しました)
「こんな低俗番組」
「子供への影響どうこう」
チャンネル変えればよろし
スイッチ切ればよろし
おっしゃるように
いろんな意見があって当然です。
好きな言葉の一つです。
「貴方の意見には賛成できない。
しかし貴方が意見を述べる権利は尊重したい」
こういう人が増えている。恐いことです。
その「自分の考え」が多種多様だといいですが、一つの方向を持った考えで、有能なアジテーターが出現すると、あっという間に、日本全体が同じ方向に行ってしまいます。小泉郵政選挙の時がそうでした、あの時は小泉さんの口車に乗せられて、自民党大勝、郵政が民営化してしまいました。郵政民営化に反対の人もおったろうに。
「和して同ぜず」という言葉があります。あなたとは友だち。でもあなたとは意見を同じゅうせず。という意味です。
「和して同ぜず」これを座右の銘として、やっていきたいですね。
馬齢を重ねた事で柔軟性が失われたからかもしれませんが、他者の恥部を論って笑う様な番組(ロンブーの番組にこの手の物が多い気がしますが。)がどうも苦手。「嫌だなあ。」とは思いますし、そういった事をブログで書く事も在るけれど、そういった番組が「面白い。」と感じる人が居たって良い。明々白々に違法な内容なら別ですが、そうじゃないのですから。度が過ぎてしまえば自ずと見る人は減るだろうし、それだけの事だと思うんです。
ハムぞー様が御好きな言葉として挙げられた物、その通りだと思います。「相手を罵倒&愚弄する事在りき。」では無く、「常に相手に対して最低限の経緯を持つ。」というのは必要な事。それが無ければ、結局は周りから疎んじられて行くだけだと思うし。
「自分の考えこは唯一無二的に正しい!」。そんな考えを持つ人は昔から居たろうし、“自分の中だけ”で抱えているならば、それは全くの自由だと思うんです。問題は、その考えを他者に強いる事。「他者から同様に強いられたら、どう自分は思うか?」という観点が、そういう人には得てして欠落している様に感じます。
或る事柄のほんの僅かな部分を取り上げて、それが然も全体で在るかの様な主張を繰り広げ、且つそれを他者に強いるというのも好きじゃない。そうやって自由に物を言い難くする環境が出来あがってしまう程、不気味な事は無いし。
持論に自信があるなら、冷静に論理的に相手を論破すれば良いし、逆に、立場が違えばそういう考え方も出来るんだなと、鷹揚に構えることも出来るはず。
冷静に相手の論に耳を傾ければ、今までの自分に欠けていた視点に気付くこともあります。いわゆる「眼から鱗」ですね。仮に相手の論が99%間違っていると思っても、新たな視点を得ることによって、持論もまた微妙に修正されるわけです。聞く耳持たずで相手を非難するばかりでは、自分が成長する芽を自分で摘んでしまう、と気付ければいいんですが。
先日図書館で偶然手に取った本を、ぱらぱらと流し読みしたのですが、同じモンゴロイドで隣国の日本人と韓国人でも、育った環境、受けた教育によって、同じ物事に対する受け止め方が、正反対になる事もあるのを知りました。同根だから同じ価値観だろうと勝手に思い込むことが、返って事態をこじらせるということも。
親切のつもりが仇になる、とはよく使う言葉ですが、そんなことは日常に溢れ返っているんだなあと、改めて気付かされた1冊でした。
相手の立場を想像し思いやる、と言うのはそれこそ想像以上に難しいことです。でも、それを繰り返し訓練することが、本当の相互理解に繋がるんでしょうね。
・・・なんちゃって、分かった様な事を書いてしまいました・・・
自信の無さの裏返し、そういった面も在りましょうね。絶対に譲れない部分というのは誰しも在るし、それを押し通すのは理解出来るけれども、明らかに誤りな事柄を無理無理に押し通すとなると、「少しでも誤りを認めてしまうと、自身のアイデンティティーを完全喪失してしまうとでも思っているのかなあ?」と、その大人気無さをどうしても感じてしまいます。
自分と全く相容れないと思う主張でも、話をして行く中で同意出来る点が出て来る事も在る。仰る様に、端から耳目を閉ざしていては、成長の余地が無いでしょうね。
同じ日本人の間ですら考え方の相違が結構在ったりするのですから、文化や慣習の異なる外国人との間では尚更の事。良く挙げられる例ですが、日本では子供に「可愛いね。」と頭を撫でるのは自然な姿ですが、国によってはこの「頭を撫でるという行為」が侮辱に当たるケースも在る訳で、先ずは相手の立ち位置を忖度するというのが重要ですね。
「魔王」及び「モダンタイムス」で「便利なインターネットの落とし穴」を“警告”した伊坂氏。「そうだよなあ。」と頷いてしまう点が多かったのですが、マヌケ様が挙げられている点も印象に残りました。程度の差は在れ、「自分だけが可愛くて、周りが全く見えていない。」という人が増えている様に感じます。自分自身の言動を第三者としての目で見詰めないと、単なる我が侭に過ぎない。自戒を込めて、そう思います。