世界には選挙が公正に行われていなかったり、極めて限られた国民(特権階級に属する人達等)しか投票出来ない国が在ったりする。そういう国の人達からすると、「取り敢えずは公正に選挙が行われ、20歳以上で在れば、“原則として”全ての国民が投票する権利を有している日本。」を羨ましく思う一方、「そんな貴重な権利を有しているのに、何で棄権する人が多いのか?」と不思議に思うらしい。
平成に入って以降行われた衆議院議員総選挙で言えば、投票率が最も高かったのは平成2年の「第39回衆議院議員総選挙」の73.31%で、此れでも10人の内約3人は棄権している訳だ。平成24年の「第46回衆議院議員総選挙」に到っては、投票率が59.32%というのだから、10人の内4人以上は棄権している事に。
「自分1人が投票(乃至は棄権)した所で、世の中は何も変わらない。」というのが、棄権した人の少なからずが口にする理由だろう。そういう諦観の思いを持ってしまうのは理解出来なくも無いが、過去にも書いた様に「安直な棄権は、組織票の価値を高めてしまうだけ。」だし、「棄権というのは、多数票に対する賛成票と同じ事。」という事を、より多くの人が認識しないと。
嘗ては我が国でも、本の一握りの国民しか投票権を与えられていない時代が在った訳で、投票出来る事の幸せというのを噛み締めて貰いたいもの。
作家でも在るいとうせいこう氏が、政治情報サイト「ポリタス」に寄稿した「一羽の鳥について(あらゆる選挙に寄せて)」という文章が、注目を集めているとか。内容を朗読した動画も在るので、併せて紹介させて貰う。
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「「一羽の鳥について(あらゆる選挙に寄せて)」【動画】 byいとうせいこう氏
自分一人が投票したところで何も変わらない、と多くの人は思う。選挙を前にして自分が無力であると感じる。その感覚に傷ついて無関心になる人もいる。
だが、「自分一人が投票したところで何も変わらないと思う一人」が投票すると社会が変わる。私は何度かそういう選挙を見てきた。デモも同様である。
「私一人が出かけようが出かけまいが何も変わらないと思う」人が実際に出かけると、それが膨れ上がる列になる。その時、世界は何かしら変わる(ただし根本的に私は、変わろうが変わるまいが思ったことを主張しに出かければよいだけだと考えるのではあるが。そもそも世界を変えたい場合、有効性ばかりを先に考えることは無意味だ。なぜなら変わる前の世界から見た有効性の基準は必ず「古い」から)。
がらりと世界が変わることもある。それはほとんど次元の移動のようだ。今生きている世界から別の世界に、人は突然接続する。私は決して疑似科学を語っているのではない。これが選挙の謎なのである。
代議制の、つまり多数の者が少数を選び、選出された者に政策をまかせるシステム、すなわち民主主義の厳密な数学、ないしは物理学がこれである。
多数の者が少数の権力者に影響を与えるわけだから、それはデモの謎でもある。
私が変わると「私たち」が変わる。私が行かない投票には何千万人かが行かない。私が行く投票には何千万人かが行く。
特に浮動票と言われる「私たち」は渡り鳥のようなものだとイメージしてもいい。渡り鳥は飛び立つ時間をあらかじめ知っているのではなく、みんなで行きつ戻りつするうち突然旅に出る。その時、どの鳥が出発を決めたか。最後はリーダーが決まってくるとしても、飛ぶ群れの起源を遡ればどうなるか。「私」という一羽の鳥が、としか言えないのではないか。
さて、もしもあなたが「私たちが変わったところで政治家が変わらないのだから意味がない」と思うなら、それはそれである種の「政治不信というキャンペーン」によって「無力」さを刷り込まれているのだと私は考える。
国民が「政治不信」になればなるほど、組織票を持つ者が好き勝手にふるまえる。
むしろ無力なのは選挙に落ちるかもしれない政治家の方だということを思い出して欲しい。
選挙期間というのは「無力」さの逆転が起きる時間なのであり、結果を決めるのは例の「私たち」以外にない。つまり「私」以外に。その時、「力」はどちらにあるか。あなたにある。これが選挙というものの恐るべき、スリリングな本質だ。
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それでも私は投票に行きます。
投票率を上げるだけでも意味があります。
giants-55さんがおっしゃるように、棄権は多数に利する行為なんですね。
強力な組織票を持っている、特定の宗教団体や、思想信条の団体の発言力が強くなるということなんですね。そうすると、それ以外の人は肩身が狭くなります。そんなのはイヤですね。それを防ぐ意味でも投票には行くべきですね。
自分も選挙権を得てからは、一回も棄権をしていないです。古今東西の歴史を顧みると、投票出来るという事が決して当たり前の事では無いというのを痛感しますし、何よりも「一定年齢をクリアすれば、原則的には誰でも投票出来る権利を、様々な困難と闘った末に勝ち取った先人達に報いる。」意味でも、棄権してはいけないという思いが在ります。
昔とは異なり、各党の選挙公約集は判り易く記されている。其れなのにも拘わらず、「難しくて判らない。」と、どう考えても読んでもいない連中がしたり顔で口にする。
「自分が票を投じなくても、世の中何も変わらない。」としたり顔で言っている連中にも、似た匂いを感じてしまう。では、「何も行動しなければ、世の中は変わるのか?」と聞きたくもなる。
様々な方向からの情報に積極的に当たり、自分の頭で考え抜いた上で出した結論ならば、何処の政党や誰に投票し様とも、自分は其の結論を尊重したい。兎に角、棄権だけは止めて欲しい。
投票率が、毎回「99.9%」といった感じの北朝鮮。極端に高い投票率というのは独裁政権が恣意的に操作している事も在りますし、現状に対する国民の不満が余りにも大きいという面も在りますから、「投票率が高ければ、全てOK。」とは思わないのですが、でも、「労働環境が著しく良くなった。」と言い乍らも、詳細を確認すると「正規雇用が大分減った分、生活が不安定な非正規雇用が其れ以上に増えた結果。」というのを知ると、「そんな状況でも、現状に満足している人が多いのか?」と、我が国の投票率の低さに疑問を感じてしまう。
安倍首相の“御友達”で在る百田尚樹氏の言動には、全く共感出来ない事が多い。でも、先日、彼が「投票もしない人間が、政治に付いて不満を言っては駄目。不満が在るならば、きちんと投票すべき。」といった趣旨の発言をしていましたが、此の点に関しては全く同感。(「何回か棄権したら、選挙権を奪い取れば良い。」といった趣旨の極論には、流石に同意出来ませんでしたが。)
雫石鉄也様へのレスでも書かせて貰ったのですが、「自分が投票した所で、世の中は何も変わらない。」としたり顔で言う人には、「じゃあ、何もしなかったら、何か変わると言うのか?」と聞きたくなる。