昭和40年代半ば、「三無主義」という言葉が流行った。当時の若者気質を表した物で、「無気力」、「無関心」、そして「無責任」を指している。
先日放送されたNHKスペシャル「新・映像の世紀」は、第3集「第二次世界大戦・時代は独裁者を求めた」【動画】という内容。第二次世界大戦勃発前、世界中にファシズムが台頭して行く背景が描かれ、非常に興味深かった。
特に印象に残ったのは、「ナチス」が力を持って行く過程。何処ぞの国の“今”と、非常に似通った部分が多かったからだ。「社会に、フラストレーションが満ち溢れている。」、「為政者が(共産主義やユダヤ人といった)仮想敵を作り上げ、其れ等を叩く事でフラストレーションの捌け口とし、自分達の支持勢力を増やす。」、「為政者がデマ等を流す事で、“政敵”を次々に排除。」、「過度なパフォーマンスを多用し、国民の支持を高める。」、「高い支持を背景に、次々と強権的な法律を成立させる。」等々。
此方に詳しく記されているが、重要なのは「ナチスは基本的に、“合法な形”で独裁集団となって行った。」という点。「或る日突然、独裁集団が出現した。」という訳では無く、「国民の多くが支持した結果として、独裁集団が出来上がった。」のだ。
何故、国民の多くがナチスを支持したのか?色々理由は在ろうが、“国民の無関心さ”というのも大きかったのだろう。先日の記事「仕方が無い症候群」の中で、最近の日本に広まっている「『自分は、不利益を被る立場に陥る事は絶対に無い。』という無根拠な思い。」を懸念したけれど、当時のドイツにも同様の思いが蔓延していた様に感じる。
冒頭で「三無主義」を紹介したが、今の日本には「新・三無主義」が広がっている。「無関心」、「無思考」、そして「無根拠(での主張)」だ。
以前にも書いた様に、「日本が戦争に巻き込まれる事なんか、絶対に在り得ない。戦争に巻き込まれても、海外に逃げれば良い。」なんぞとしたり顔で答える人間が少なからず居るが、「莫大な資産を有していたり、余人を以ては代え難い人間。」なら話は別だが、そうじゃ無い人間なんか、何処の国が受け容れてくれるだろうか?今、世界各地で「難民排斥問題」が火を噴いている理由を少しでも考えれば、「戦争に巻き込まれても、海外に逃げれば良い。」なんて思わないだろう。“無思考の極み”と言って良いだろう。
「第二次世界大戦・時代は独裁者を求めた」の中で、ドイツのルター派牧師で在り、反ナチ運動組織「告白教会」の指導者のマルティン・ニーメラーの言葉が紹介されていた。「新・三無主義」が広がっている日本に在って、多くの人に知って貰いたい言葉なので、最後に記す。
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ナチスが最初、共産主義者を攻撃した時、私は声を上げなかった。私は、共産主義者では無かったから。
社会民主主義者が牢獄に入れられた時、私は声を上げなかった。私は、社会民主主義では無かったから。
彼等が労働組合員達を攻撃した時、私は声を上げなかった。私は、労働組合員では無かったから。
そして、彼等が私を攻撃した時、私の為に声を上げる者は、誰一人残っていなかった。
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私は従来の三無にgiants-55さんの仰る「無思考」「無根拠」を加えて五無主義ではないかと思います。
「無気力」も「無責任」も現在も蔓延していると思うから。
政治家に関してはゴム主義と言えるかもしれません。
自分たちの都合で公約を自由に変化させる、ゴムのように伸び縮み自在のご都合主義は、ダブルスタンダードどころではありません。
野党議員なら「負け犬の遠吠え」で済ませても、政権与党の中枢にいる大物議員がそれでは、庶民の暮らしに直結してきますから困ったものです。
「無気力」や「無責任」というのも、確かに広く見られる事ですね。煎じ詰めると、「他者とは、極力関わりたく無い。」という事なのかもしれません。
こういうのって概して“若者気質”と捉えられ勝ちなのですが、個人的には「結構中高年にも目立つ。」様な気がしています。若者にも見られはしますが、“確りしている者”と“そうで無い者”とがハッキリ二極化している一方、中高年は“そうで無い者”にシフト化している様な感じがしており、だからこそ余計に不安を覚えます。
最後に、今年1年、本当に御世話になりました。良い年末&年始を御過し下さい。