同じ物で在っても、世代によっては“違う捉え方”をするという事が、結構在ったりする。AERA(1月22日号)に載っていた記事「『。』に怒りの感情読み取る若者」によると、句読点の句点「。」も、そんな1つの様だ。
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えっ、怒っているのかな―?
佐賀県内の大学に通う23歳の女性は或る日、バイト先の年上世代の店長に「熱が下がらず明日は休みたい」旨のLINEを送った。返信で了解はしてくれたものの、最初の「御疲れ様。」に考え込んでしまったと言う。
「普段は絵文字を多用する人なので余計に、何故此処に『。』(句点)が付いているんだろう、と怖かった。LINEの遣り取りに『。』が在ると、凄く気になります。同じ言葉でも『ごめん無理」なら忙しいのかなと思えるけど、『ごめん無理。』だと、あー何か怒らせたかなと・・・。」。
九州の大学に通う22歳の女性も、LINEでの句点に違和感を持ってしまうと言う。
「普段はフランクに話してくれる目上の人から、『そうだと思います。』等と書かれると、何故そんなに畏まるのだろうと。怒りの意思表示なのかなとか、『貴方とは、其処迄話したい訳じゃ無い。』って事かなとさえ考えてしまいます。」。
若い世代はLINE等SNSでの「打ち言葉」に句点が在ると、其処に違和感、特に「怒りの感情」を読み取ってしまうらしい。
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自分は社会人になって以降、一貫して海外関係の仕事をして来た。で、社会人になって直ぐ、客先と英文で遣り取りする事になったのだが、教育係の先輩が指摘してくれて、今も忘れられない事が在る。昔、此の話を書いた事が在るけれど、「面と向かっての遣り取りでは無いので、客は御前からの文章“だけ”で色々判断する事になる。そうなると、『?』や『!』を簡単に使ってしまうと、客は『そんな事も判らないのか?』等、相手から馬鹿にされている様な感じを受けてしまう可能性も在るので、出来る限り避けた方が良いよ。」という指摘だった。「確かにそうだなあ。」と、目から鱗が落ちる思いだった。以降、「?」や「!」を使うのは最低限にする様に努めたのは言う迄も無い。
今回の「。」の話は、そんな思い出を呼び起こしてくれる物だったが、申し訳無いけれど「コミュニケーション(方法)に関しては概して無頓着。」という印象が若い世代に対して在ったので、「こんな所迄気にしているんだ・・・。」と意外な思いが在った。
「読む相手の読み易さを考慮して、文章の“区切り”には読点(「、」)を、そして文章の終わりには句点を打つ。」というのが“習い性”になっている自分にとっては、一定年齢以下の人達の文章に多く見受けられる「読点や句点の少なさ(乃至は、全く使用していない)。」には、以前から違和感を覚えていたけれど、「若い世代はLINE等SNSでの『打ち言葉』に句点が在ると、其処に違和感、特に『怒りの感情』を読み取ってしまうらしい。」という今回の記事には、「えー。」という驚きしか無かった。
で、「若い世代がSNSの『打ち言葉』に句点が在ると、其処に違和感、特に『怒りの感情』を読み取ってしまう。」事の理由に付いて、国立国語研究所の石黒圭教授は次の様に述べている。
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・「若い人達の間では言文一致が進み、話し言葉の感覚を打ち言葉に持ち込んでいるからだ。」。
・「対面での会話のキャッチボール、詰まり話し言葉に於ては、『出来るだけ御互いの話を切らずに続けて行く』事を私達は年代を問わず、大事にしています。例えば、バイト先の店長に『一寸週3日のシフトはきついんで、2日にして戴きたいんですけども』等、接続助詞を使い余韻を残しつつ、出来るだけ話の終わりを『終わりらしく無くする方法』を使い、コミュニケーションを円滑にしている面が在る。此れを『週3日は私にとってきついんです。2日にして下さい。』と終止形で切ってしまうと、高圧的で怒っているかの様に響くので、避け様とします。」。
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「話し言葉のルールを、デジタル・ネイティヴ世代は其の儘LINEに持ち込み、『如何に話を終わりにしないで、余韻を相手に預け、会話を繋げて行くかに腐心している結果。」が、「若い世代はLINE等SNSでの『打ち言葉』に句点が在ると、其処に違和感、特に『怒りの感情』を読み取ってしまう。」事に繋がっているという事らしい。
正に言葉は生き物、という事ですね。
句点で文章を終えると、「改まった」や「畏まった」「よそよそしい」「他人行儀」と捉え、それが「怒っているように感じ→怖い」となっていくと書いてある記事もありました。
若い人たちからすると、普段馴れ馴れしく接している相手から句点付きの文章が来ると、確かにちょっと怖いのかもしれませんね(苦笑)。
私などは思ってもみなかった反応なので、逆にびっくりするやら戸惑うばかりです(苦笑)。
今回の話題から外れるかもしれませんが、ちょっと気になることがありまして・・・。
小説が好きで若いころは同人雑誌に参加し、自分でも文章を書き、仲間の文章を読んできた経験からすると、鍵括弧”「」”の使われ方について違和感を持つことがあります。
”「」”は主に会話文に使われますが、その時”」”の前に句点を入れる方がおられます(giants-55さんもそうですね)。
句読点も鍵括弧も、文章を読みやすく構成するための「区切り記号」であり、鍵括弧”」”自体が文章を区切って終えるという句点の役割も持っているので、そこに改めて句点を入れる必要はないのではないでしょうか。
また「改行の後には1字分下げる」というルールを厳格に守って、”「”で始まる会話文の時に1字下げてから”「”を入れる人もおられます。
「こんなふうに」
これも”「”自体が文字を1次分下げる役目を担っていると思われるので、2字分下がって文章が始まっているようで読みにくく感じます。
その辺の事情(ルール?)もあってか、小説その他、出版物の文章を見ると概ね”」”の前に句点は入れてないし、改行1文字目が”「”の場合は1文字下げずに始めるように構成されているようです。
と言いながら私も(苦笑)。などと括弧区切り記号の後に句点を打っているのですが、本来は(苦笑)
で終わっていていいはずですね・・・。
今回は敢えて改行ごとに1文字下げてコメント文を書いてみましたが、SNS文章のような句点ひとつごとに改行するようなスタイルだと、我ながら却ってくどい感じがしてしまいました(苦笑)。
余計なことを書いてしまい、気分を害されるようなことになっていたら申し訳ありません。
先ず「気分を害される。」とかそういう事は、一切気になさらないで下さい。明らかに喧嘩腰の文章“だけ”で構成された書き込みは別ですが、人は其れ其れの考え方が在り、他者の考え方に関して「少し違うんじゃないかなあ。」とか、「こういうのは違和感覚えるなあ(気分的に良くないなあ)。」と感じるのは、当然の事と思っています。悠々遊様とは非常に考え方が近い様に思っておりますけれど、例えば「死刑制度の是非」の様に、全く異なる考えの時も在る。でも、数学の様に「明々白々に答えが定まっている。」場合は別にして、深刻な問題程、様々な答え(考え方)が在って然るべきです。なので、今後も気にしないでバンバン書き込んで下さい。自分の勉強になる事が多いので。
で、本題に入りますが、実は「」内の最後の」所に句点を付けるか否かに関しては、自分も昔から考えていました。悠々遊様が書かれている理由を読ませて貰うと「成程なあ。」とは思うのですが、自分の場合は逆に昔から「小説等で」の前に句点が無い事に、文章に締まりが無い様に感じられ、何か居心地の悪さを感じるタイプの人間。」だと思っています。悠々遊様の御指摘には納得させられる部分が在りますけれど、もう長年の習い癖になってしまっているので、申し訳在りませんが従来の形を踏襲させて下さい。
もう1つのルールに関しては、今回の書き込みを読ませて戴く迄特に何も感じておりませんでしたので、目から鱗が落ちる思いでした。自分も“読み物”を愛する人間ですが、悠々遊様はより其の思いが強いからこそ、違和感を色々感じられるのでしょうね。自分は根本的に、結構好い加減な人間なので。