ミンダナオ島で元日本兵2人が生存しているというニュースが報じられてから3週間になろうとしているが、最近では新たなニュースが報じられる事も無く、どうやらガセネタの類だった様だ。元々フィリピンでは、山下財宝や元日本兵の生存に関する情報は日本人に高く売れるという話が常識化しており、怪しげな情報が過去にも多く流されて来た。最初このニュースを目にした際、「又、怪しげな情報だろう。」という思いは在ったものの、外務省が確認作業に乗り出したという事で「もしかしたら・・・。」という期待感も膨らんでいただけに、ガセネタだったとしたら非常に残念な話だ。
「帰らなかった日本兵」という本が在る。日本の敗戦をインドネシアで迎え、その後、様々な理由から日本に帰る事を断念した元日本兵(日本政府の帰還事業で、”一時”帰国を果たした者も含まれる。)及びその肉親52人の証言が載っている。著者の長洋弘(ちょう ようひろ)氏がジャカルタ日本人学校に勤務されていた頃から、自らの足で拾い集めていった貴重な証言だ。
残留元日本兵は、大きく次の4つに分類される。
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① 日本兵(陸海軍の兵士、憲兵、収容所関係の兵、義勇兵の指導教官、海軍特別警察隊員(陸軍の憲兵隊に代わる組織。)等。)
② 軍属、雇員
③ 一般邦人
④ 特務機関員
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インドネシア福祉友の会が厚生省未帰還者名簿(1958年作成)を元に、1980年に纏めた調査結果に拠ると、インドネシアの地に在って日本に帰れなかった者の数は780人にも上るという。
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独立戦争時の戦病死者 247名
独立戦争後の死亡者 118名
行方不明者 238名
生存者 177名
計: 780名
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この調査はジャワ島とスマトラ島だけを対象に行なわれたという事で在り、西はスマトラ島の先端から、東はニューギニア島の南端迄約5,000キロという広さを持つ群島国家インドネシアを考えると、その他にも未だ多くの残留日本兵が存在していたと思われる。
残留せざるを得なかった動機に付いても、人によって様々だ。
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① 戦犯になる事を恐れた。
② インドネシアの独立の為に挺身した。
③ 戦陣訓を忠実に守った。
④ 日本の荒廃を聞き、現地に残り一旗揚げようと思った。
⑤ 現地結婚し妻子が居た。
⑥ インドネシアが好きであった。
⑦ 帰るべき故郷が日本領土で無くなっていた。
⑧ 自暴自棄になった。
⑨ 独立軍に拉致された。等々
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「勝てば官軍、負ければ賊軍」が戦争の常。敗者が、勝者から理不尽な裁きを受けるのも又、常で在る。戦犯に処せられる事を恐れる気持ちは当然在ったろう。
又、「生きて虜囚の辱めを受けず。死して罪禍の汚名を残す事勿れ。」という戦陣訓の存在も大きかったろう。「捕虜になるよりは死ぬ事を選べ。」というこの教えによって、沖縄を始めとした多くの地で自らの命を絶った日本人が居た事は諸記録からも知られている。
そして、戦時中の子供達が修身の時間に暗誦させられたという「日本良い国、清い国。世界に一つの神の国。日本良い国、強い国。世界に輝く偉い国。」フレーズからも判る様に、「神の国で在る日本が戦争に負けるはずがない!」と幼き頃より叩き込まれて来た日本兵が、いざ敗戦を迎えた段階でその現実を受け容れる事がどうしても出来なかった事も確かだろう。敗戦を認める事は、それ迄に自分自身が成して来た事を全面否定する事にも繋がってしまうからだ。だからこそ、インドネシアを再統治しようとするオランダ軍と、それを阻もうとする独立軍の間で起きた独立戦争に加わる事で、己の存在意義を証明したかったと元日本兵が思ってしまったのも理解出来なくはない。(勿論、本人の意思に無関係の内に、独立戦争に加わらざるを得なかった元日本兵も存在していたのだが。)
近代兵器を装備したオランダ軍に対し、火縄銃の様な旧式装備で戦わざるを得なかった独立軍。必然的にゲリラ戦術の色合いが濃くなる。同じ独立軍に所属していても、インドネシア人の場合は捕まっても収容所送りで済むが、元日本兵の場合は即刻銃殺されたという。オランダ軍が元日本兵の首に多額の懸賞金をかけ葬り去ろうとしていた事。そして、第二次大戦前の約350年の間、オランダによって統治されていたインドネシアには親蘭(オランダ派)分子も多く、表面的にはインドネシアの独立を唱えながらも、オランダの独立潰し工作に加担する者も多く居た事は、本来見方で在るべきインドネシア人に対しても心を許し切れない状況が元日本兵達には在ったという事だ。実際問題、オランダ兵や地元民に惨殺された元日本兵は少なくなく、この本の中でもそういった場面が幾つか語られている。(テビンティンギ事件等。)
惨殺されなくとも、オランダ軍との戦いで敗走を余儀無くされ、その過程で次々と飢え死にしていったり、気がふれて死んでいった元日本兵の描写には心が痛んだ。
故国日本に妻子を残しながらも、最早日本には戻れぬ身と諦め、異国の地で現地人と結婚せざるを得なかった元日本兵の場合も、又、別の意味で悲劇的だ。戦後暫くして、日本の妻子が無事で在った事を知るも、彼女達を結果的には裏切ってしまったという罪悪感から、日本に帰ろうとしなかった元日本兵も多い様だ。夫が異国の地で生きており、現地で妻を娶っている事を知った日本人妻が、それでも日本に帰って来て欲しいと26年に亘って手紙を送り続け、願い叶わずに苦悶の内に病死して行く話は痛ましさを覚えたが、同時に、妻子の元に帰りたくても帰れないという心理的抑制を抱えていた元日本兵の夫も、苦悶の中で生きた人生だったのではないか。戦争は亡くなった者だけではなく、生き残った者も不幸にするという典型だろう。*1
国の犠牲となった元日本兵達の証言は、どれも心を打たれるものが在ったが、或る元日本兵(この方は、二度帰国を果たしている。)が吐いた故国を憂う言葉が特に印象に残った。
「あんた、東京には女が裸でコーヒーを持って来る喫茶店(ノーパン喫茶)が在るんだって!日本は酷いですな。今度日本に帰ったら、経営者と女と客を全部叩き斬って、靖国神社で戦友と会います。その時、日本の指導者が私をどう裁くのか見たいものです。故郷のおふくろは、、貧しい一人暮らしをしています。今もサイパンで戦死した兄の帰りを待っています。遺骨も遺品も在りません。我々はあんな日本にする為に、戦争に行った訳では在りません。それなのに何だ!これでは祖国は破滅します。」
*1 この話に付いては、かおり様という方が運営されている「普通の女の子じゃイヤ!!」というブログ内の「あまりにも悲しすぎる」という記事に詳細が載っているので、御一読願えたらと思う。
「帰らなかった日本兵」という本が在る。日本の敗戦をインドネシアで迎え、その後、様々な理由から日本に帰る事を断念した元日本兵(日本政府の帰還事業で、”一時”帰国を果たした者も含まれる。)及びその肉親52人の証言が載っている。著者の長洋弘(ちょう ようひろ)氏がジャカルタ日本人学校に勤務されていた頃から、自らの足で拾い集めていった貴重な証言だ。
残留元日本兵は、大きく次の4つに分類される。
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① 日本兵(陸海軍の兵士、憲兵、収容所関係の兵、義勇兵の指導教官、海軍特別警察隊員(陸軍の憲兵隊に代わる組織。)等。)
② 軍属、雇員
③ 一般邦人
④ 特務機関員
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インドネシア福祉友の会が厚生省未帰還者名簿(1958年作成)を元に、1980年に纏めた調査結果に拠ると、インドネシアの地に在って日本に帰れなかった者の数は780人にも上るという。
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独立戦争時の戦病死者 247名
独立戦争後の死亡者 118名
行方不明者 238名
生存者 177名
計: 780名
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この調査はジャワ島とスマトラ島だけを対象に行なわれたという事で在り、西はスマトラ島の先端から、東はニューギニア島の南端迄約5,000キロという広さを持つ群島国家インドネシアを考えると、その他にも未だ多くの残留日本兵が存在していたと思われる。
残留せざるを得なかった動機に付いても、人によって様々だ。
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① 戦犯になる事を恐れた。
② インドネシアの独立の為に挺身した。
③ 戦陣訓を忠実に守った。
④ 日本の荒廃を聞き、現地に残り一旗揚げようと思った。
⑤ 現地結婚し妻子が居た。
⑥ インドネシアが好きであった。
⑦ 帰るべき故郷が日本領土で無くなっていた。
⑧ 自暴自棄になった。
⑨ 独立軍に拉致された。等々
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「勝てば官軍、負ければ賊軍」が戦争の常。敗者が、勝者から理不尽な裁きを受けるのも又、常で在る。戦犯に処せられる事を恐れる気持ちは当然在ったろう。
又、「生きて虜囚の辱めを受けず。死して罪禍の汚名を残す事勿れ。」という戦陣訓の存在も大きかったろう。「捕虜になるよりは死ぬ事を選べ。」というこの教えによって、沖縄を始めとした多くの地で自らの命を絶った日本人が居た事は諸記録からも知られている。
そして、戦時中の子供達が修身の時間に暗誦させられたという「日本良い国、清い国。世界に一つの神の国。日本良い国、強い国。世界に輝く偉い国。」フレーズからも判る様に、「神の国で在る日本が戦争に負けるはずがない!」と幼き頃より叩き込まれて来た日本兵が、いざ敗戦を迎えた段階でその現実を受け容れる事がどうしても出来なかった事も確かだろう。敗戦を認める事は、それ迄に自分自身が成して来た事を全面否定する事にも繋がってしまうからだ。だからこそ、インドネシアを再統治しようとするオランダ軍と、それを阻もうとする独立軍の間で起きた独立戦争に加わる事で、己の存在意義を証明したかったと元日本兵が思ってしまったのも理解出来なくはない。(勿論、本人の意思に無関係の内に、独立戦争に加わらざるを得なかった元日本兵も存在していたのだが。)
近代兵器を装備したオランダ軍に対し、火縄銃の様な旧式装備で戦わざるを得なかった独立軍。必然的にゲリラ戦術の色合いが濃くなる。同じ独立軍に所属していても、インドネシア人の場合は捕まっても収容所送りで済むが、元日本兵の場合は即刻銃殺されたという。オランダ軍が元日本兵の首に多額の懸賞金をかけ葬り去ろうとしていた事。そして、第二次大戦前の約350年の間、オランダによって統治されていたインドネシアには親蘭(オランダ派)分子も多く、表面的にはインドネシアの独立を唱えながらも、オランダの独立潰し工作に加担する者も多く居た事は、本来見方で在るべきインドネシア人に対しても心を許し切れない状況が元日本兵達には在ったという事だ。実際問題、オランダ兵や地元民に惨殺された元日本兵は少なくなく、この本の中でもそういった場面が幾つか語られている。(テビンティンギ事件等。)
惨殺されなくとも、オランダ軍との戦いで敗走を余儀無くされ、その過程で次々と飢え死にしていったり、気がふれて死んでいった元日本兵の描写には心が痛んだ。
故国日本に妻子を残しながらも、最早日本には戻れぬ身と諦め、異国の地で現地人と結婚せざるを得なかった元日本兵の場合も、又、別の意味で悲劇的だ。戦後暫くして、日本の妻子が無事で在った事を知るも、彼女達を結果的には裏切ってしまったという罪悪感から、日本に帰ろうとしなかった元日本兵も多い様だ。夫が異国の地で生きており、現地で妻を娶っている事を知った日本人妻が、それでも日本に帰って来て欲しいと26年に亘って手紙を送り続け、願い叶わずに苦悶の内に病死して行く話は痛ましさを覚えたが、同時に、妻子の元に帰りたくても帰れないという心理的抑制を抱えていた元日本兵の夫も、苦悶の中で生きた人生だったのではないか。戦争は亡くなった者だけではなく、生き残った者も不幸にするという典型だろう。*1
国の犠牲となった元日本兵達の証言は、どれも心を打たれるものが在ったが、或る元日本兵(この方は、二度帰国を果たしている。)が吐いた故国を憂う言葉が特に印象に残った。
「あんた、東京には女が裸でコーヒーを持って来る喫茶店(ノーパン喫茶)が在るんだって!日本は酷いですな。今度日本に帰ったら、経営者と女と客を全部叩き斬って、靖国神社で戦友と会います。その時、日本の指導者が私をどう裁くのか見たいものです。故郷のおふくろは、、貧しい一人暮らしをしています。今もサイパンで戦死した兄の帰りを待っています。遺骨も遺品も在りません。我々はあんな日本にする為に、戦争に行った訳では在りません。それなのに何だ!これでは祖国は破滅します。」
*1 この話に付いては、かおり様という方が運営されている「普通の女の子じゃイヤ!!」というブログ内の「あまりにも悲しすぎる」という記事に詳細が載っているので、御一読願えたらと思う。
ただ「自分は被害者」と言うのは違うと思います。国が違い、時代が違う人々と感覚が合わなくても、是は是・非は非で自分で責任もって行動すればいいこと。
最近知ったのですが、沖縄で長い間骨を拾ってる人がいるそうです。頭が下がります。「日本に帰ったら殺したい」という人に、人々はどう思うでしょうか。その人に共感を感じるかどうかは、行動が基準と思いますが。。