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就活の情報交換を切っ掛けに集まった、拓人(たくと)、光太郎、瑞月(みづき)、理香、隆良(たかよし)。学生団体のリーダー、海外ヴォランティア、手作りの名刺・・・自分を生き抜く為に必要な事は、何なのか?此の世界を組み変える力は、何処から生まれ来るのか?
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第148回(2012年下半期)直木賞を、小説「何者」で受賞した朝井リョウ氏。彼のデビュー作「桐島、部活やめるってよ」の評判が高かったので3年前に読んだが、「“色んな点”で文章が読み難く、内容的にもぴんと来ない。」というのが読後感だった。
冒頭に記したのは、直木賞受賞作の「何者」の梗概。就職活動に取り組む大学生達の姿を描いているのだが、其の過程で幾つもの「何故?」に直面して行く。「何故、就職活動をしているのか?」、「何故、彼等は不毛な“装い”をするのか?」、「何故、内定を貰えないのか?」等々。そして其れ等の「何故?」は、「自分とは一体、何者なのか?」という“内なる問い掛け”に収斂され、悩みは深まる一方。
TwitterもFacebookもLINEもSkypeも実際にした事の無い自分(giants-55)。「必要性を感じない。」からしないのだが、でも「多くの人がしている。」という事実を前にすると、正直「世界の動きから取り残されている。」という焦りを感じる事も在る。今年で24歳になる朝井氏は正に「現代の若者」で在り、本文にはTwitterやらFacebookやらが登場する。其れが彼等にとっては“普通”の事なのだろうが、Twitterをしていない人間からすると文章内に行き成り「Twitterの文章」が挟み込まれると、「?」と戸惑ってしまう。
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・「就活って、トランプでいうダウトみたいなもんじゃねえの。一を百だってい言う分には、バレなきゃオッケー。ダウトのとき、1をキングだって言うみたいにな。でも、裏返されてそれが1だってバレれば終わりだし、カードがなければ戦いに参加することもできない。つまり、面接でもゼロを百だって話すのはダメ。それはバレる。」。
・いつからか俺たちは、短い言葉で自分を表現しなければならなくなった。フェイスブックやブログのトップページでは、わかりやすく、かつ簡潔に。ツイッターでは140字以内で。就活の面接ではまずキーワードから。ほんの少しの言葉と小さな小さな写真のみで自分が何者であるかを語るとき、どんな言葉を取捨選択するべきなのだろうか。
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ドキッとさせられる様な文章は在るが、今一つ「小説の世界」に入り込めない状態が途中迄在った。「同じ『現代の若者』を描き乍ら、50代の石田衣良氏の作品にはどっぷりと感情移入出来てしまうのに、20代の朝井氏が著す『何者』には、何故引き込まれないのだろう?もしかしたら「石田氏が描く若者」は「『昭和』という“濾紙”を通した若者の姿」で在り、だからこそ違和感無く、感情移入が出来るのかなあ?」という思い。又、「朝井リョウ氏が直木賞を受賞した最大の要因は『作品の出来』では無く、『男性受賞者としては史上最年少で、尚且つ平成生まれ初。』という『個人のキャラクターのユニークさ』に在るのだろうな。」とも。
しかし半分位読み進めた所で、「小説の世界」にぐいぐいと引き込まれて行った。追い込まれて行く中で、「人間の持つ邪悪な部分」がじわじわっと表出する登場人物達に不快感を抱き乍らも、「自分にも、こういった嫌な面が少なからず在るなあ。」と思ってしまったから。
一部ネタバレになってしまうのだが、「或る人物にとっては“初めての就職活動”で無い事実」が最後に明らかとなる。其の事実が明らかとなった事で、“嫌な思い”が倍増される。最後の一文に「前向きさ」を見れなくも無いけれど・・・。
「桐島、部活やめるってよ」には全く魅了されなかったけれど、「何者」には惹かれる何かが在る。「少し話しただけの相手でも、『人脈』と言ってしまう人。」や「実際に顔を合わせても“本音”を見せないのに、話している最中にこっそりとTwitterで“本音擬き”を晒す人。」等々、「こういう人、実際に居るよなあ。」と苦笑しつつ、そういう人達を“小馬鹿にしている卑しさに、自分自身“も”気付かされたから。
総合評価は、星4つ。「abさんご」の芥川賞受賞は非常に疑問だったが、「何者」の直木賞受賞は納得出来た。23歳の若さで「上がり」とも言える文学賞を受賞してしまった事は、朝井氏にとって大きなプレッシャーとなるだろうが、作風を固定する事無く、様々な作風に挑んで貰いたい。
携帯電話、正確に言えばPHSでしたが、購入する迄には結構逡巡しました。便利で在ろう事は十二分に判っていたけれど、「何処からでも連絡出来る。」という便利さは、逆に「何処に居ても、捕まってしまう。」という拘束感にも繋がるからです。
でも、実際に使い始めてみると、思っていた以上に便利(待ち合わせで相手が中々来なかった時なんぞは、本当に便利だなあと思います。昔だったら、御互いにどういう状況なのか判らず、苛々し乍ら待ち続け、結局会えず仕舞いで帰宅するなんて事も在りましたし。)で、今では手放せないツールとなっています。
しかしTwitterやらFacebookやらというツールに関しては、携帯電話程魅力を感じないし、自分の生活スタイルの中では必要性を感じ得ない状況で、周りが使っている事に焦りを感じつつも、唯我独尊のスタンスで突き進んでいます。
Twitterを例に挙げると、有益に使い熟している人も居るで在ろう一方、「~でラーメン食ってるなう」とか「テレビを見てるなう」なんぞと「状況報告」だけしている事が、自分には不毛な感じしかしなくて・・・。
「桐島、部活やめるってよ」は、何でそんなにも世評が高いのかさっぱり判らなかった。「こういうのが、若者文学の主流になるのかなあ?」と冷めた目で見ていたのですが、今回の「何者」は個人的に悪くなかった。「桐島~」が描写の羅列に終始していた感が在るのに対し、「何者」には少なくとも「人の心の揺れ」が感じ得たので。「好き嫌いがはっきり別れるタイプの作家」では在りましょうね。