カラオケボックスが登場する大分前、多分1970年代後半だったと記憶している。家族で一度だけ、歌声喫茶に行った。一定年齢以下の人だと判らないだろうから簡単に説明すると、歌声喫茶とは「リーダーの音頭に従い、(店が提供する)歌集を店内の客が見乍ら、アコーディオン等の演奏に合わせて一緒に歌を歌うというスタイルの店。」の事だ。
色々歌ったが、中でも非常に印象に残る歌が在った。一緒に歌った兄弟にとって、以降、何度も口遊む愛唱歌になった程。其の歌の名前は「四季の歌」【動画】。自分にとっても、好きな歌の1つ。
先日、ラジオ番組を聞いていたら、此の歌を取り上げていた。其処で初めて知ったのは、「『四季の歌』はレコードで発売されてから、大ヒットする迄に時間が掛かった。」という事実。具体的に言えば、最初にレコードとして発売されてから、大ヒットする迄に「4年間」も掛ったそうだ。
「あんなにも名曲なのに、何で直ぐに大ヒットしなかったんだろう?」と不思議でならないが、「名曲だからといって、直ぐに大ヒットするとは限らない。」という例は、結構在ったりする。今年1月の記事で取り上げた「今日でお別れ」【動画】や「また逢う日まで」【動画】もそうだったし。様々な要素がピタリと当て嵌まった時、大ヒット曲は生まれるという事なのだろう。
「四季の歌」が生まれてから大ヒットする迄の詳しい経緯は、此方に記されている。抜粋すると、次の通り。
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・「四季の歌」を作詞&作曲したのは荒木とよひさ氏だが、此の歌は彼が作詞家としてデビューする随分前に作られた物。
・1962年、彼が19歳の時、スキー事故で長期の入院生活を送る事となり、其れが「死ぬ程退屈だった。」事から、世話になった看護師達の為に歌を作った。病院を転々とする中、1年を掛けて作った其の歌は、「春・夏・秋・冬」と四季を歌った内容。此の歌が「四季の歌」で、看護師達の間で評判となった。
・看護師達は地域ヴォランティアのイヴェント等で、「四季の歌」を歌い繋いで行く。此の歌を偶然、同時期に2社のレコード会社のディレクターが聞き、「良い歌だ!」とレコード化する事を決定。1972年、1社はいぬいゆみさん、そしてもう1社は片山知子さんを歌い手としてレコードが発売される。彼女等に続き、ダークダックス版も発売される事に。(「四季の歌」が看護師達の間で評判になった頃、作詞者&作曲者は共に不詳とされていたが、レコード化の際、友人の勧めで荒木氏が作詞者&作曲者として名乗り出た。此れが彼にとって、作詞家&作曲家としてのデビューとなる。)
・然し、「四季の歌」は中々ヒットしなかった。此の歌が注目を集めたのは4年後の1976年の事で、或るラジオ番組で紹介された事が切っ掛け。此の年の6月、ニッポン放送のラジオ番組「あおぞらワイド」に横浜の主婦から「四季の歌」のリクエストが電話で寄せられた。番組司会者の立川清登氏は、此の歌の事を全く知らなかったので、「どんな歌なのか?」と尋ねた所、彼女は電話の向こうから「四季の歌」をア・カペラで歌って聴かせた。歌を聞いた立川氏は感動し、番組内で大絶賛したと言う。ラジオのリスナーからの反響も大きく、結果的にレコード会社6社が競作として、相次いでレコード化し、大ヒットに結び付いた。
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「彼の名曲の大ヒットに、立川澄登氏が関係していた。」というのは、意外な事実。加えて、「彼が初めて聞いたのが、主婦がア・カペラで歌った物だった。」というのも驚きだ。