19日に放送された「NHKスペシャル」は、「カラーでよみがえる東京~不死鳥都市の100年~」という内容。東京を撮影した白黒の記録映像を世界中から収集し、現実に出来るだけ近くなる様、色彩の復元に挑んだ物で、明治以降の東京の様子がカラフルに蘇っていた。
白黒映像だと今一つ現実感が無かったけれど、カラーになった事で、映し出される人々や事物に“生命”が吹き込まれた感が。「戦前の銀座のネオン・サインやモボ&モガの服装が思っていた以上にカラフルだった。」し、「苦しい中でも微笑みを忘れなかった人々。」や「終戦の翌年、華やかな晴れ着を着て初詣に繰り出す女性達や祭りで賑やかに神輿を担ぐ男衆。」には、何とも言えない逞しさが在った。
戦後直ぐ、「忠魂碑銅像等撤去審査委員会」なる物が設けられたと言う。「忠魂碑」とは「明治政府の成立以降、戦没者供養の為、自治体で建立した碑。」の事で、中には「戦意高揚を目的に建立された物」も少なく無かった。で、「忠魂碑銅像等撤去審査委員会」は忠魂碑や銅像を対象に、“戦犯”か否かを判定する役割。直接的にか間接的にかは別にして、GHQの意向を受けて作られた組織で、日本人が国内の忠魂碑等を判定。
上野の西郷隆盛像は「美術的価値在り。」として撤去を免れたが、“軍神”として神格化された(旧万世橋駅前の)広瀬武夫中佐&杉野孫七兵曹長の銅像は「国民の戦意高揚を強調し、敵愾心を煽る物だった。」と判定され、撤去される事に。広瀬中佐と杉野兵曹長の銅像が引き倒される映像には、嘗てニュースで目にした「国民がウラジーミル・レーニン像やサッダーム・フセイン像を引き倒す映像。」が重なってしまった。国の意向で勝手に軍神に祭り上げられ、敗戦によって“許し難い存在”とされ、撤去された広瀬中佐&杉野兵曹長は気の毒としか思えない。(率先して国を戦争に導いた指導者達は、非難されて当然だが。)
見甲斐の在る番組で、心に残る言葉も幾つか在った。其の中から、2つを紹介したい。1つ目は、「気が付けば、国民一丸となって戦争に突き進んで行った当時の世相。」に付いて、作家の永井荷風氏が日記に記した内容。
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国民一般の政府の命令に服従して、南京米を喰ひて、不平を言はざるは、恐怖の結果なり。麻布連隊叛乱の状を見て、恐怖せし結果なり。元来、日本人には理想無く強き者に従ひ、其の日其の日を気楽に送る事を第一に為すなり。
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麻布連隊の叛乱とは、1936年2月26日に発生した「二・二六事件」の事。「昭和維新断行・尊皇討奸」を掲げた青年将校によるクーデター未遂事件で、高橋是清元首相等、多くの要人が惨殺された。叛乱部隊は4日で制圧されたものの、此の一件で軍部の力は台頭し、軍部のする事に対して物を言えぬ風潮は強まった。
「元来、日本人には理想無く強き者に従う。」というのは、其の通りだと思う。「寄らば大樹の陰」という意識は元々日本人の中に強かったが、昨今は盲目的に強い者に擦り寄り、ネット等を使って“弱者”を集団リンチするのが大好きな輩が増えているのは、実に情け無い事だ。
2つ目は、映画監督・伊丹万作氏の言葉。彼は映画監督・伊丹十三氏の実父としても知られているが、「戦争責任を一部の人間にだけ押し付ける様な風潮」に対して厳しい目を向けている。
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多くの人が、今度の戦争で騙されていたと言う。幾ら騙す者が居ても、誰一人騙される者が無かったとしたら、今度の様な戦争は成り立たなかったに違い無いので在る。「騙されていた。」と言って平気で居られる国民なら、恐らく今後も何度でも騙されるだろう。否、現在でも既に別の嘘によって、騙され始めているに違い無いので在る。
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此方に全文章が載っているが、実に頷ける内容。軍部や特高警察の台頭、実質的な“相互監視機関”と言って良い「隣組」の存在等、国民が表立って戦争に異を唱え難い環境が当時在ったのは確かだろうが、映像や証言等を見聞すると、「勝てば、明るい未来が待っている。」と戦争を支持する国民も少なかった様に感じる。表立って戦争に反対していた人は別だが、正確な情報が与えられていなかったとはいえ、戦争に賛成する様なスタンスだった国民が、「一方的に騙されていた。」とするのは違う気もする。
「熱し易くて、冷め易い国民性。」や「特定の人や事物を熱狂的に支持するも、『騙された。』と見切りを付けたら、“全く正反対”の位置に在る人や事物を熱狂的に支持するという、余りに極端な国民性。」等、伊丹氏の「『騙されていた。』と言って平気で居られる国民なら、恐らく今後も何度でも騙されるだろう。否、現在でも既に別の嘘によって、騙され始めているに違い無いので在る。」という懸念は、非常に的を射ている。
昨日まで「鬼畜米英」だったのが、終戦をはさんで今度は何でも「アメリカオンリー」の変わり身の早さも特徴か。
でもこれは散々振り回され痛めつけられながらも、しぶとく生き抜いてきた庶民の生きるための知恵ともいえますよね。
表立って戦争に反対していなくても、そんなそぶりを見せれば「非国民」として目をつけられ、難癖を付けられて獄舎で痛めつけられるか、前線に送られるか・・・そんなことが当たり前の時代に生き延びようとすれば、「ふり」をすることは生きる方便だったでしょう。
これは現在のいじめの構図とも共通しているのではないでしょうか。誰かをスケープゴートにし、いじめる側に回っておかないと、自分がスケープゴートにされると・・・。
天変地異の前にはなすすべを持たない農耕民族の遺伝子を持つ身には、強い意志と覚悟を持って「流れ」に立ち向かうことは至難のことだと思いますが。
本題から外れるかもしれませんが、自らの力で勝ち取ったものではないから、民主主義の本当の価値と責任の重さが、日本人には実感できていないとよく言われますね。
これは西洋でも、民主主義が定着してから生まれた世代にも共通して言えることでしょうが、先祖が血をを流して勝ち取ったものという伝統が語り継がれていれば、認識も変わるのかもしれません。
どうも取り留めなくだらだらと書いてしまったようです。
ごめんなさい。
以前も書いたのですが、作家の童門冬二氏が面白い指摘をされていました。曰く「日本では『外圧を伴った改革』でしか、真の改革は達成されていない。そういった改革は今迄に3度だけで、最初は『大化の改新』、2度目は『明治維新』、そして3度目は『敗戦』だった。」と。詰まり、「日本に於ける改革は、自主的な物は無く、全てが外圧頼みだった。」というのです。悠々遊様が書かれている「自らの力で勝ち取った物では無いから、民主主義の本当の価値と責任の重さが、日本人には実感出来ていない。」というのも其の通りだと思うし、根幹には「外圧によってしか、大きな改革が出来ない国民性。」というのが在るのだと思います。
「心中では戦争に反対し乍らも、“生き抜く”為、心ならずも声を上げられなかった。」という人々も居たでしょうね。そういう人々は理解出来るのですが、全く疑問を持つ事無く、積極的に戦争を賛美していた人達が、敗戦と同時に「戦争は間違っていた!欧米文化万歳!」というスタンスに代わってしまうのは、「何だかなあ。」という思いです。