「世論調査のいいとこどりは駄目!」という記事を始めとして、「世論調査」や所謂「国民の声」といった物に対し、過去に自分は何度か疑問を呈して来た。世論調査や国民の声といった物を100%否定する訳では無いが、其れ等が「唯一無二的に正しい。」といった感じの、恰も「錦の御旗」の如き扱いには懸念を覚えるのだ。統計学的には「此れだけの標本数(部分)が在れば、充分母集団(全体)が反映されている。」と言われても、全人口から言えば余りにも僅かな対象の“声”だし、其れに質問の仕方によっては幾らでも“答え方”が変わるという危うさが在るから。世論調査を行ったり、国民の声を集めたりした側にとって都合の良い“加工”が、絶対に無いとは言えない事も懸念を増させる。
北野武氏のエッセー集「超思考」に、「最終考 くそジジイとくそババア」という章が在る。視聴者からのクレームに対して余りに敏感になり過ぎたTV局が、クレームの可能性を少しでも避けるべく、自主規制に汲々としている様を彼は指摘。
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放送禁止用語だって、結局はそういう危険を避けるための自衛策だろう。どこかの圧力団体とか、運動家に言いがかりをつけられそうな言葉は、あらかじめ排除しておくというわけだ。まさか差別的な言葉をひとつ減らせば、世の中から差別がひとつ減るなんてことを信じているわけではあるまい。
乞食という言葉を使わなくなったって、乞食の生活が楽になるわけじゃない。乞食をホームレスと呼ぶようになって何年経ったか知らないが、それで世の中が少しでも変わったのか。 乞食と言えなくなって、ホームレスと呼ぶようになった。ホームレスを日本語にすれば宿無しだ。乞食は放送禁止で、宿無しはOKという根拠がよくわからない。だいたい、ホームレスという言葉はなんだかよそよそしくて好きになれない。
まあそれは感覚の問題なのだろうが、俺は乞食という言葉の方が、愛情というか優しさを感じる。貧乏人が貧乏人に注ぐ最後のぎりぎりの優しさ、路傍で行き倒れていたらどこかに埋めて石でも置いてやるくらいの、ぎりぎりの優しさではあるけれど。
タチの悪い子供が、ただの慰みにホームレスを暴行して殺してしまったなんてニュースをよく聞くようになったのも、彼らを乞食と呼んではいけなくなってからのような気がする。
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着飾った、無難な言葉に変える事で、其の本質を見え難くさせてしまう。時には「社会にとって不都合。」として、其の物自体が存在していないかの様に感じさせる事だって在る。「『盲』という用語は差別だ。」として、「目の不自由な人」と置き換えさせた所で、敢えて「目の不自由な人」という用語を使う事により、「悪意」を感じさせたりする事だって在るだろう。「『盲』という用語を普通に使うも、相手に対する優しさが深い人。」も居れば、逆に「『目の不自由な人』という用語を使うも、相手に対して邪悪さを秘めている人。」だって居るに違いない。
「テレビ局がどんどん自己主張をしなくなった。下手に個人とか個人の意見を出すと、視聴者に手厳しく叱られる。損をするだけだというので、なんでも曖昧で抽象的な言葉で誤魔化すようになった。バカなレポーターが『○○みたいな」という言葉を連発するようになったのもそのせいだろう。自分の想像力の欠如した部分を、相手の想像力にまかせて逃げてしまうわけだ。」とした上で、北野氏は次の様に記している。
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もっとも「みたいな」という言葉だけでは、ワイドショーはいいとしても、報道番組まで賄うことはできない。それで「みたいな」という言葉のかわりに、世論という新兵器を生み出した。
世論調査とか、街頭インタビューとか。やり方はいろいろあるが、あれも要するに「みたいな」と言ってるのと同じで、自分の意見は言わずに、他人の意見にゆだねて逃げているのだと俺は思う。
しかもひどいことに、その他人の意見に、「国民の声」とか「庶民目線」とか、わけのわからない権威づけまでしてしまった。
今の日本では、「国民の声=神の声」で、誰にも逆らえないことになっている。そんなものは、たまたま新橋の飲み屋で飲んだくれていたどこかのオヤジの口から出任せじゃないかと思っても、神妙な顔で聞いてなきゃいけない。庶民の声にケチをつけようものなら、それこそ手痛い目に遭わされる。
街で庶民の声を集めてきましたと言えば聞こえはいいけれど、どの街に行ってどんな人にどう話を聞くかで、結果はかなり違うはずだ。だいたい街でテレビカメラを向けられて、いきなり「今の与党をどう思いますか?」と質問されて、理路整然と自分の考えを述べられる人間がどれだけいるだろう。今朝の新聞で読んだことをそのまま繰り返す人がいても、ちっとも不思議じゃない。取材する人間が求めている答えを敏感に察知して、すらすらと模範回答を口にする人もいるだろう。その方がオンエアされる可能性が高いことを知っているからだ。
世論調査ならもう少しマシかもしれないが、それにしたって使い方次第でどうにでもなるはずだ。重要なのは、報道番組が街の声を聞いたり、世論調査をしたりするのは、別に本当の世論が知りたいからではないということだ。
街の声を聞くのは、あくまでも自分たちが今日流すニュースの論旨を補強するためなのだ。嘘だと思うなら、ちょっと考えてみればいい。鶏が先か、卵が先か。じゃなくて、ニュースが先か、街の声が先か。まさか、報道部のディレクターがぶらぶら適当に街を歩いて、いろんな人の話を聞いて、そこからニュースを探すなんてことをしているはずはない。まずは、たとえば野菜の値段が高騰しているというニュースがあるのだ。それで、街のスーパーに庶民の声を聞きに行く。そこでマイクを向けて、たとえば「ウチは外食ばっかりだから、野菜が高くても別に困らない。」とか「一個三百円のキャベツのどこが高いんですか?」という答えが返ってきても、そういうものは放送しないわけだ。
まあ野菜の値段くらいの話なら、それでも別に問題はないのだろうが、一事が万事だ。政治から経済からあらゆるニュースがそんな感じになっているような気がして仕方がない。大阪地検特捜部の検事と同じで、ストーリーをあらかじめ書いているんじゃないのと疑いたくなる。だいたいテレビのチャンネルをどれだけ変えて、どのニュースを見ても、ほとんど同じような意見ばかり垂れ流している最近の風潮が気持ち悪くて仕方がない。
人間なんだから、いろんな考えがあっていいんじゃないかと俺は思う。みんながみんな同じように考えるわけがない。違うことを言う奴がいなきゃ本当はおかしいはずなのだが、少なくとも真面目な顔をして異論を口にする人間が、どんどん少なくなっているような気がしてならない。まるで昔の大本営発表みたいなニュースがやたら増えた。北朝鮮のニュース番組を笑う資格がどこにあるのだろう。
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乞食は物乞いする貧しい人、ルンペンは物乞いしない貧しい人。そんな風に私の中では区別していたように思います。だから今のホームレスは私にはルンペンの言い換えのような。
今回の記事の趣旨とはズレるかも知れませんが、事の本質には眼をつぶったまま言葉狩りをするってのは、いかにも事なかれ主義のような気がしませんか。今に始まったことではありませんが。
「ルンペン」というのも、すっかり死語になってしまいましたね。子供の頃、夢中になって読んでいた「少年探偵団シリーズ」では、「サーカス」や「洋館」、「小人」等と並んで、しばしば登場した言葉で、何となく郷愁めいた物を感じます。
「事の本質には眼を瞑った儘、言葉狩りをする。=事勿れ主義」というのは、全く同感です。言葉の上っ面だけに過剰に反応し、本質を全く見ようとしないのでは、人類は退化して行くだけだと自分は思いますし、「差別」がどうこうと言うならば、其れこそきちんと本質を見ようとしなければいけない筈なんですけどね。