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「アメリカは、日本に原爆を投下なんかしていない。『原爆投下』とされる映像は『アポロ計画陰謀論』と同様に、捏造された物だ。終戦直後に日本に行った父親は、多くの子供達が『Give me chocolate!』と笑顔で寄って来たと言っていた。もし原爆を投下して多くの日本人を殺していたなら、笑顔で寄って来るなんて事は在り得ない。だから、アメリカが原爆投下してる筈が無い。」
「アメリカは日本に原爆を投下したけれど、其れで殺傷したのは兵隊だけ。民間人は1人たりとも殺傷していない。もし原爆で民間人を殺傷していたならば、日本人はアメリカを絶対に許す筈が無く、今の様にアメリカ文化を日本人が有り難がって受け容れている訳が無い。」
「アメリカが原爆を投下した事で亡くなった日本人は30万人以上という説が在るけれど、此れは大虐殺とは言えない。『大虐殺』とは殺害した人数が40万人以上を指し、其れより1人でも少なければ『大虐殺』どころか『虐殺』とすら言えない。」
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想像して欲しい。或るアメリカ人が冒頭の発言をした“ならば”、貴方、そして多くの日本人は一体どう思うだろうか?自分ならば、其のアメリカ人に対して激しい怒りを覚えるだろう。況してや其のアメリカ人が然る可き立場の人物、例えば州知事で在り、公式の場でそういった発言をした“ならば”、とても許せない。
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「『南京事件無かった。』と河村氏発言 中国からの訪問団に」(2月20日、朝日新聞)
名古屋市の河村たかし市長は20日、姉妹友好都市で在る中国・南京市の共産党市委員会の常務委員等一行の表敬訪問を受けた際、1937年の南京大虐殺を取り上げて「一般的な戦闘行為は在ったが、南京事件というのは無かったのではないか。」と発言した。
河村氏は理由に付いて、事件後の1945年に現地に駐屯した父親が優しくもて成された事を挙げたと言う。
河村氏は2009年の9月市議会でも、終戦を南京で迎えた父親の例を挙げて「親父は南京で本当に優しくして貰った。大虐殺が在ったなら、こんなに優しくしてくれるんだろうか?」と語り、「一般的な戦闘行為は在ったが、誤解されている。」等と発言していた。
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其の言動に共感を覚える事が少なくないし、「叩き上げ的な人間が好き。」という事も在って、「河村たかし」という政治家は個人的に嫌いじゃない。だがしかし、今回の発言は戴けない。多くの証言や文献を元に様々な推計が出されているが、“一定数の”民間人が殺害されたで在ろう事は否定出来ない以上、「南京事件が無かった。」と公式の場で発言するのはどうかと思うから。其れも「南京事件が無かった。」とする理由が、「事件後の1945年に現地に駐屯した父親が優しくもて成されたから。」という“だけ”では、余りに説得力に欠ける。非常に狭い空間の、其れも1人の人間が受けた印象に頼っているだけだから。自分達が逆の立場だったら、即ち冒頭に記した発言が我々日本人に向けられたなら、どう思うかを想像出来ないのだろうか?
其の後に河村市長は「発言の趣旨が南京では恰も何も無かったと誤解されたとすると、遺憾で在る。」、「相互理解と友好親善を一層深める為に南京市と名古屋市で率直な意見交換、話し合いをしたいという私の真意が伝わらなかった。」、「30万人もの非武装の中国市民を日本軍が大虐殺した事は無いと思っており、『所謂南京事件は無かったのではないか。』と申し上げた事は撤回しない。」等と説明している。
実際に在り得ない数字、其れこそ中国側が“白髪三千丈的な数字”を持ち出して来るのは、自分も受け容れ難い。だから「30万人以上が殺された。」というのは、現実的では無いだろう。河村市長が「数字的な疑問」を持っているならば、其れは其れで理解は出来る。だがしかし「民間人は一切殺害していない。」とか、「民間人が殺害されたとしても○○人で在り、其の程度の人数ならば大虐殺では無い。」と“本気で”思っているならば、其れは支持出来ない。上記した如く、様々な推計を考慮すると、一定数の民間人が殺害されたで在ろう事は否定出来ないし、「殺害された人数が○○人ならば、大虐殺では無い。」と主張するのは、「何年の何月何日、何時何分何秒に言った?」と言い募って、其の場を逃げようとする幼子と何等変わらないと思うので。
所謂「自虐史観」は、自分も好きじゃない。でも「自らに都合の良い事だけは認め、不都合な事は一切否定する。」というスタンスも、同様に好きじゃない。明らかにおかしな事柄は、きちんと証拠を挙げた上で反論し、不都合な事で在っても事実と思われる事は、きちんと認めるべきで在る。
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「河村・名古屋市長:南京事件否定発言 橋下・大阪市長『慎重にすべきだ。』」(2月28日、毎日新聞)
名古屋市の河村たかし市長が南京事件に付いて「無かったのではないか。」と発言した事に付いて、大阪市の橋下徹市長は27日、記者団に「首長は歴史家では無い。歴史的事実に付いて発言するなら、政治的な思いだけで無く、色々な歴史研究家の発言も踏まえないといけない。」と述べ、発言は慎重にすべきだとの考えを示した。
一方で、反発を強める中国側には「大国が軽く見られる様な過剰反応はしない方が良い。中国と日本は隣国なのだから、上手く付き合わないといけない。」と注文を付けた。南京事件其の物に付いての見解を問われると「其れを言った所で、日本にプラスは無い。歴史家が言論を戦わせたら良い。」と述べるに留めた。
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「All-or-Nothing Thinking」という記事でも書いた様に、橋下市長の言動には否定的な思いを持つ事が多い自分だけれど、今回の件に関しては橋下市長の意見に同感だ。公式の場で河村市長がああいう発言をする事で、日本にプラスする要素は無いし、百歩譲って「白髪三千丈的な在り得ない数字を持ち出して来る事に、1人の政治家としてきちんと釘を刺すべき。」という思いを尊重するにしても、其れならば「発言が“加工”される危険性」も考慮して、何度も「殺害された数字を問題にしている。」という事を口にすべきだし、裏付けとなる論拠を提示しないと駄目。「政治家の言葉は、其れだけ重さを持っている。」という事を、河村市長は肝に銘じて欲しい。
落合博満氏が其の著書「采配」の中で、「歴史から学べない人は駄目。」といった趣旨の主張をしていましたが、此れは全く同感。
マヌケ様が指摘されている様に、個々人がどんな主義&主張を持とうが其れは全くの自由なれど、公の場に在っては「思いを、其の儘披瀝して良い物か否か?」を考えられない人は、少なくとも「真っ当な大人」として軽んじられても仕方無いでしょうね。こういう人は概して、「何故思った事を其の儘口にして駄目なんだ!!」と意固地になってしまう事が多いのですが、大人になり切れない“御子ちゃま振り”はどうかと思うし、其の事で周りに何れだけ余計な迷惑が掛かるのかも考慮して欲しい。
「自身及び自身が属する組織、又は自身に近しい人間や組織に対して不都合な事柄は一切否定する。」という人が結構居たりしますが、此れじゃあ「恋は盲目状態」と言わざるを得ない。河村市長の今回の発言も、「自分の父親は日本軍に所属していたから、日本軍に不都合な事柄を少しでも認めてしまうと、父親を蔑にした事になる。」という“方向違いな思考”が在ったのではないかという気がします。自身の身内を愛する事と、事実から目を背ける事はイコールでは無いので。誤りを徹底的に正すのは当然だけれど、正しい事迄否定するのでは、其の主張に多くの共感を得られる事は無いでしょうね。
酷い目にあわされた人というものは、加害者につながる人間に寛容に接したりは絶対にできないに決まっているのだ、と。
減税一本やりの彼の政策を、「人は所詮カネで動くもの」と市民をバカにしている姿勢だ、とする批判を読んだことがあります。今回の発言と根っこではつながっていることのような気がしますね。