そこでわれわれは実質的な食物である乳廳をとった。そのとき
わたくしには五人の修行者が近づいて、「修行者ゴータマがもしも法を得
るならば、それをわれらに語るであろう」といっていた。ところでわたく
しは実質的な食物である乳服をとったから、その五人の修行者はわたくし
を嫌って、「修行者ゴータマは貪るたちで、つとめはげむのを捨てて、贅
沢になった」といって、去って行った。そこでわたくしは実質的な食物を
摂って、力を得て、もろもろの欲望を離れて、善くないことがらを離れ、
粗なる思慮あり、微細な思慮あり、達離から生じた喜楽である初禅を成就
していた。
そしてつぎに、四禅を一々成就したことをのべている。
ブッタの「さとり」の内容
ブックは、ついに苦行の無駄であることを知り、苦行を捨て、乳粥を摂り、
気力・体力を回復しつつ、アシュバッタ樹(菩提樹)の下で瞑想に入り、ここ
で、究極の「さとり」をひらいたという。
では、その~とりとはどんなものであったか。ブッダの智慧は、どんなさと
りをひらいたのか?
「四つの真理」と「十二の因縁」に関する智慧であるという。’
十二因縁とは、人間の苦しみ、悩みがいかにして成立するかということを考
察し、その原因を追求して、十二の項目の系列を立てたものである。つまり。
縁起の理法を十二の項目に分類したものである。
無明 (無知)
取 愛 受 触 六 名 識 行
処 色
(潜在的形成力、生活作用)
(識別作用)
(名称と形態、または精神と物質、心身)
(心作用の成立する六つの場、すなわち眼・耳・鼻・舌・身・意)
(感覚器官と対象との接触)
(感受作用)
(盲目的衝動、妄執、渇きの欲望にたとえられるもの)
(執着)
川作一老死 (無常なすがた)
順次に、前のものが後9ものを成立させる条件となっている。また、逆に
順次、前のものが滅すると、後のものも滅する。
律蔵等の記述によると、
そのとき世尊は、ネーランジャラー河の岸辺に、菩提樹のもとにおられ
た。
はじめて、さとりをひらいておられ・たのである。
世尊は、七日のあいだずっと足を組んだままで、解脱のだのしみを享け
つつ、座しておられた。その七日が過ぎてのち、その瞑想から出て、その
夜のはじめの部分において、縁起の理法を、「順の順序」にしたがって。
つて執着があり、執着によって生存があり、生存によって出生があり、出
生によって老いと死・憂い・悲しみ・苦しみ・愁い・悩みが生ずる。この
ようにしてこの苦しみのわだかまりがすべて生起する。
に接創によって感受作用があり、感受作用によって妄執があり、妄執によ
そわから、た、「逆の川にしたがって、よく考えられた。貪欲をなくすことによって無明を残りなく止滅すれば、生活作用が
止滅する。
生活作用が止滅するならば、識別作用が止滅する。識別作用が止滅する
ならば、名称と形態とが止滅する。名称と形態とが止滅するならば、六つ
の感受機能が止滅する。六つの感受機能が止滅するならば、対象との接触
も止滅する。対象との接触が止滅するならば、感受作用も止滅する。感受
作用が止滅するならば、妄執も止滅する。妄執が止滅するならば、執着も
止滅する。執着が止滅するならば、生存も止滅する。生存が止滅するなら
ば、出生も止滅する。
がすべて止滅する。
そこで、世尊は、この真理の意義をさとって、そのとき、つぎのような
〈詠嘆の詩〉を唱えられた。
努力しているバラモンにもろもろの理法が現われるならば、
かれの疑惑はすべて消滅する。
原因(と結果との関係をはっきり念せた縁起の理法)をはっきりと知っているのであるから。
縁起の理法
菩提樹のもとで、ブッダのさとった理法は、「縁起の法」であり、その内容
は、いまのべた十二因縁と、「四つの聖なる真理」であるといわれる。
縁起というのは、。縁りて”という語と。起こること”(回ヨ毛簒汝)という語が結合されてできたことばである。なん
らかの条件(縁)があって生起すること、というほどの意味である。それを、中国の経典翻訳者たちは、。縁りて”の縁と、。起こること”の起とをとって、
しごく直截に「縁起」としたわけだ。
縁起-―縁によって起こる、すなわち、すべてのものは縁によって生起し。
これあるによりてこれあり
これ生ずればこれ生ず
これなきによりてこれなく
これ滅すればこれ滅す
この四りの図式か、入間の「苫Lにあてはめて説かれたのが、「四諦の法門Lである。
この四諦がどう説かれたかというと、アーガマの一つの経によれば(相応部経典五六、三一、「申恕」、漢訳の同本雑阿合経一五、四五、「申恕林しつぎの
ようなものである。
一、こは苦なり
Oldam dukkham)
二、こは苦の生起なり
(Ayam dukkhasam乱IO)
三、こは苦の滅尽なり
(Ayam dukkhanirodhoj
四、こは苦の滅尽にいたる道なり
(Ayam dukkhalli1 patipada)
これが時により、別の経ではつぎのように説かれたと記されている。
比丘だちよ、苦の聖諦とはこれである。
比丘だちよ、苦の生起の聖諦とはこれである。
比丘だちよ、苦の滅尽の聖諦とはこれである。
比丘だちよ、苦の滅尽にいたる道の聖諦とはこれである。
これを、中国における翻訳者たちが、端的に、
苦諦
集諦
滅諦
道諦
とし、
さらに簡潔に、苦集滅道
と、してしまったのである。
すなわち、これが四諦の法門である。
十二因縁とならんで、有名な、ブッダの菩提樹下のさとりといわれるものである。