9月初め、「にっぽん丸」で、小樽-利尻島-知床(羅臼)-小樽のクルージング(3泊4日)に参加。このコースは、毎年催行され、なかなかの人気コース。3年前にも乗ったが、この時は、知床(ウトロ)側のコースだった。
小樽駅から港まで行く途中、ぶらぶら歩いて「都通り」に立ち寄る。この通りの100年を記念した垂れ幕が掲げられている。小樽の街づくりと関わりの深い榎本武揚の足跡を記したもの。さすがに、明治時代に栄えた商都・小樽らしい歴史がある。
榎本武揚は、
1836年(天保7)8月25日江戸御徒町に生まれる。
1853年(嘉永6)中浜万次郎より英語を学ぶ。
1854年(安政元)3月 蝦夷・樺太へ出発。
1862年(文久2)9月、長崎港からオランダに留学。
1868年(明治元)海軍副総裁となる。
1873年(明治6)北海道開拓使中判官に任命される。
1874年(明治7)海軍中将拝命。
1879年(明治12)外務大臣を兼任。
1885年(明治18)第一次伊藤博文内閣で初代逓信大臣に就任。
1888年(明治21)黒田清隆内閣で農商務大臣を兼任。
1891年(明治24)徳川育英校農業科(現東京農大)を設立。
1908年(明治41)73歳で没する。駒込の吉祥寺に埋葬される。
上記、「榎本武揚の伝説」
1854年(安政元)ペリー米艦隊とプーチャン露艦隊来航の年、時あたかも榎本釜次郎(19歳)は、箱館奉行と樺太の巡見ならびに蝦夷巡察に出発する。以来、榎本は日本近代化の試練の渦中にのみ込まれ、国運を背に、隣国ロシアとの友好にかけた波乱万丈の生涯が始まるのである。
(1)気象観測所の設置
榎本は、1872年(明治5)5月、函館に日本人による最初の気象観測所を設置した。
これは、箱館戦争の際、戦闘ではなく嵐によって幕軍の主力艦「開陽丸」を失った苦い経験からだと言われている。
(2)幌内炭鉱発見への足がかり
「燃ゆる石」の情報をもとに、榎本は自ら現地に出向いて調査を行った。
かつて幕府側の先般として投獄され、獄中で最新の洋書を読みあさった彼は、日本における地質学の第一人者になっていた。この幌内炭鉱は、「日本近代化の、まさしくエネルギー源なる発見」であった。
(3)手宮-札幌間の鉄道敷設の立役者
1880年(明治13)、手宮-札幌間に国内3番目の鉄道が開通した。
その陰には、幌内炭鉱から産出される石炭の積み出し港として、小樽を強く推した榎本の姿があった。1873年(明治6)8月、ケプロンやライマンと対立する「小樽会談」でのことである。
(4)ロシアと千島樺太交換条約締結時の代表者
オランダ留学時代に「海の国際法規と外交」について学んだ榎本は、ロシアと千島樺太交換条約を結ぶため、1875年(明治8)、ペテルブルクに匿名全権公使として派遣された。
(5)小樽の街づくりの先駆者
明治初期、北海道の開拓を民間の手によって進めるため、土地の払い下げが行われていた。
小樽において榎本は、その先頭に立って北垣国道と北辰社を設立し、未開の湿地帯約20万坪(約66万㎡)の払い下げを受けた。ここに、現在の手宮線と天狗山、妙見川と荒巻山の間、塩谷間が「稲穂町」として誕生するのである。
(6)最新鋭艦「開陽丸」艦長
榎本は、南北戦争のため留学先をアメリカからオランダに変更した。
オランダでモールス電信や海律全書などを習得した榎本は、当時の世界最新鋭艦「開陽丸」の艦長として、エジプトのピラミッドやナポレオンが住んだセントヘレナ島を経て、帰国する。
(7)日本で最初の選挙と「幻の蝦夷共和国」
大政奉還の後、榎本は、徳川家の幕臣団による「北辺の防衛と開拓」を新政府に請願し続け約2000名の仲間を引き連れて蝦夷地に上陸した。五稜郭で榎本は、わが国初の選挙で総裁に選ばれ、海外から「蝦夷共和国」として承認されたことがあった。
小樽運河
「にっぽん丸」
「小樽潮太鼓」に見送られて出港(18:30)
「にっぽん丸」から小樽の灯が…
前回のクルージングのブログ=小樽-利尻・礼文-知床(ウトロ)-小樽
http://blog.goo.ne.jp/goo1942_december/e/5d3f92ec9dfda88c18094187a00448ce