北の旅人

旅行や、ちょっといい話などを。そして、時には言いたいことを、ひとこと。

アメリカ大陸横断「青春日記」-1972・35日間・5000km⑳

2008-02-29 08:51:21 | Weblog
1972・9・5(火) 曇りのち晴れ アーバナ→デモイン(アイオワ州)

午前6:45起床。いよいよ、マンスフィールドともお別れ。おばあさんがメッセージを書いてくれた。「3人の日本人が訪ねてきてくれて、大変楽しかった」ということを書いてあった。心温まる言葉だ。ここでは、とくに「コミュニティ」というものの在り方など、参考になることが多かった。

おばあさんの話では、イギリス人がアメリカに来て2,000ドル稼いだが、イギリスへ帰って1,000ドルしか稼げなかったとか。つまり、イギリスはアメリカの2倍の物価であるということだ。

8:30マンスフィールドを発つ。昼食は途中で立ち寄った食堂でハンバーガーを注文したが、なかなか出てこないので、キャンセルして昼食抜き。乗り換え2回。11時間でデモイン(アイオワ州)に到着。

今日はYMCAに泊まる。夕食後、街を散歩して、シャワーを浴び、洗濯。この3日間で体調を整えよう。     

     ☆      ☆             

     「岩倉使節団」

デモインは、シカゴの西方500kmのアイオワ州のほぼ中央部にある州都だ。アメリカ中央平原の肥沃な土壌に恵まれた重要な農業の中心地。金融・保険の街として知られ、とくに保険会社は、この地域に50社もあり、アメリカ最大の保険の街である。日本の甲府市と姉妹都市を結んでいる。

実は、このデモイン、私たちが訪れた時(1972年)から数えて、ちょうど100年前の1872年1月17日に、あの「岩倉使節団」(この時の中心メンバーは、岩倉具視、木戸孝允、大久保利通、伊藤博文、山口尚芳をはじめ、留学生、隋従者など、当初は108名)が、サンフランシスコから大陸横断鉄道でワシントンに向う途中、オマハーシカゴ間でアイオワ州を通過しており、「米欧回覧実記」に細かく描写されている。

街の様子や農業などのことを中心にリポートしているが、アイオワ州を「アイヨア州」、デモインを「ヂスモス」、オマハを「哈馬哈」、シカゴを「市高俄」などと表現しているのも面白い。

今、国も地方も厳しい財政難の中、議員の海外視察が問題視されているが、マスコミ報道によれば、何といい加減な報告書を提出しているケースが多いことか。そうした議員諸侯にも、こうした報告書を是非見せてやりたい。

(参考資料は最後に一括して掲載させていただきます)

   

アメリカ大陸横断「青春日記」-1972・35日間・5000km⑲

2008-02-28 08:19:23 | Weblog

1972・9・4(月) 晴れ アーバナ
(イリノイ州)
 

午前8:00起床。今日は、いわゆるピクニックだ。昨夜、どこか行きたいところはないかというので、リンカーンが住んでいたという「スプリングフィールド」へ連れて行ってもらった。ファーマーシティという街を通り、約1時間半(100㎞)で到着。ここには、イリノイ州の首都がある。

まず、リンカーンパークへ。ここには、16代大統領エイブラハム・リンカーンが眠っている。施設内には、リンカーンの生活を偲ばせる衣服、手紙、新聞、写真などが収められている。公園そのものも大変立派なもの。この旅行で、初代大統領(ジョージ・ワシントン)、16代大統領(エイブラハム・リンカーン)、35代大統領(ジョン・F・ケネディ)という3人の大統領のお墓参りをすることができ、大変ラッキーであった。

このあと、ワシントンパークを通り、リンカーンの家を見学。主に衣・住について知ることができる。2階建ての家で結構広い。続いて、「オールド・ステイト・ビルディング」という博物館へ。リンカーンの時代に使われていた議場などを見学。リンカーンの葬儀の模様を伝える写真もあった。

リンカーン・ニューセイラム村へ。リンカーンは、ここで6年間過ごした。1834年にニューセイラム村からイリノイ州の議会議員に当選。1837年に住まいを移し、ここで法律事務所を開く。若い時、店の書記、郵便局長、測量技師などをやったり事業に失敗したりした。ブラックフォーク戦争に名を連ねたりもした。1832には落選の経験もある。リンカーンは、この村の桶屋の、かんな屑を燃やしてつくった明かりで勉強したと言われる。

夜、ホームスティ先でアンケートを書いてもらう。数々の好意にお礼を言う。アーバナでの3日間も充実していた。この家の農場は450エーカーほどあり、アーリントン墓地の約5倍。1エーカーは約0.4町だから180町。1エーカー当たり30ドルの利潤を上げ、夫婦二人で、年間400万円余りの純益があることになる。日記、荷物の整理などして11:30就寝。     

   ☆          ☆             

    アメリカ第16代大統領 
    エイブラハム・リンカーン

リンカーンといえば、ゲティズバーグでの演説で語ったという、「人民の、人民による、人民のための政治」という言葉が思い浮かぶ。

しかし、中学生のころに習ったのだろうか、この言葉の前後でリンカーンは何を語ったのか、習ったのかもしれないが記憶にはない。たまたま、「リンカーンの三分間―ゲティズバーグ演説の謎」(共同通信社 ゲリー・ウイルズ著 北沢栄訳)という本を読んでいたら、この演説の経緯が書かれていた。

実際に行った演説が、どれだったかという議論はあるということだが、ここでは、「最終テキストーゲティズバーグ戦没者墓地奉献式における演説」を引用する。その言葉は含蓄に富み、144年を経た今でも輝きを放って、われわれの胸に迫ってくる。

87年前、われわれの父祖たちは、
この大陸に新しい国家を打ち立てた。
その国は自由の理念により身ごもり、
すべての人間は平等につくられたという理念に捧げられた。
今、われわれは大いなる内戦のさ中にあり、
この国が、またこのように育まれ、このように捧げられたあらゆる国が、
永くもちこたえられるかどうかの試練にさらされている。

われわれはこの戦争の激戦地に集っている。
われわれはこの戦場の一部を献じるためにやってきた。
この国が存続するようにと、ここで命を捧げた者たちへの
最後の安息の地として、である。
われわれがそうすることは
全く理にかない、正しいことである。
だが、より大きな意味において、われわれはこの地をー
捧げることはできないー神聖化することはできないー
神に捧げることはできない。
ここで戦った勇者たちが、
その生死にかかわらず、われわれの微力がはるかに及ばない次元で、この地を聖なる地としたのだ。

われわれがここで言うことを
世界はほとんど心に留めないだろう。
また、長く覚えてもいないだろう。
だが、彼らがここで成し遂げたことを
世界が決して忘れることはない。
ここで戦った彼らが、
このように気高く推し進めた
未完の事業にここで身を捧げるべきは、
むしろ生きている者たちである。
われわれの前に残されている大いなる事業に身を捧げるべきは、むしろここにいるわれわれである。

栄えある死者たちから
彼らが最後の力をふりしぼって捧げた大義に、
より一層この身を捧げよう。
これら死者たちの死を無駄にしないように、
ここにいるわれわれは決意を高く掲げる。
神のもとで、この国に
自由のあらたな誕生をもたらそうー
そして、人民の、人民による、人民のための政治は、地上から決して滅びない。                        
        
               1863年11月19日
      
エイブラハム・リンカーン

(参考資料は最後に一括して掲載させていただきます)


アメリカ大陸横断「青春日記」-1972・35日間・5000km⑱

2008-02-27 08:00:39 | Weblog
1972・9・3(日) 晴れ アーバナ
(イリノイ州)

午前9:15、マンスフィールドの教会へ。われわれのグループ13名中12名が到着していた。アメリカで初めての教会だった。クラスでは、日本の話を30分位してくれた。教会で少々疲れがでて、歌を歌っている最中に気分が悪くなった。午前中は教会にいた。

ホストファミリーで昼食の後、昼寝。 2:00ごろから、乗馬を楽しんだり、サイロ(15feet)に登ったりした。息子さんが、トラクターや耕運機について説明してくれ、大変参考になった。ほとんどが機械化されているので、息子さん夫婦と親父さんだけで、かなり広い畑で、コメ、トウモロコシなどたくさん作っている。

グループの女性、Kさん、Sさんが遊びに来る。T君が馬から落っこちたが、なんでもなくてよかった。息子さん夫婦はGE(ゼネラル エレクトリック)に勤めている。夜は、テレビでオリンピックを観て、シャワーを浴び、8ミリフィルムを見せて貰った。

これが何と、1942年頃のおじいさん、おばあさんの様子を撮影したもので、すでに、この頃から大型機械を導入して農業を営んでいた様子がよく分かる。大変貴重な記録だ。豆などは日本へも輸出していると語っていた。これを見て、アメリカ農業の所得水準の高さ、そして改めて広大なアメリカに触れることができたような気がした。アメリカから見ると、日本農業は10年ぐらい遅れているのだろうか。

5:00から、コミュニティ・パークで、われわれのホストファミリーが集まって、ピクニックを開いてくれた。それぞれがご馳走を持ち寄り、楽しい時間を過ごした。われわれも、ゲームをしたり、歌や茶道を披露したりした。英語で自己紹介もした。なかでも楽しかったのが、「box hocky」(箱のホッケー)なるものだ。何回もやったお陰か、体調が少し良くなった感じだ。

自己紹介のスピーチで「ほんとうのコミュニティに接した!」と言ったら、大きな拍手を浴び、「グッドボーイ!」と頭を撫でられ、褒められた。このマンスフィールドには約900人が住んでいるそうで、みんなゆったりと生活をエンジョイしているように見えた。これもまた、アメリカの一面だと思う。

ここに着いたときは、正直なところ、どうなるのだろうと一瞬思ったものだが、楽しい日が続いている。ここでは、お金はあまり使わない。11:30就寝。        
      
        ☆           ☆

 「モーレツ」から「ビューティフル」へ

1970年代に入り、日本でも生活をエンジョイするという考え方が芽生えてきた。この時代は、高度成長の真っ只中にあり、一般家庭でも経済的なゆとりが少しずつ出始めたころだ。東京オリンピック(1964年)に次いで、日本が世界にアピールする絶好の機会だとして、万博ムードに彩られていた。

こうした時代背景の中で、一方では日本人の働きすぎということに対するアンチテーゼとして、生活をエンジョイするという空気が広がりつつあったように思う。それをリードしたのが、「モーレツからビューティフルへ」という富士ゼロックスの広告コピーだった。時代を見事に切り取った名コピーで一世を風靡したものだ。

私は61歳でサラリーマン人生に区切りをつけ、お金はないが自分で支配できる時間を、たっぷりと手に入れた。これからは、出来るだけ好きなことだけを、ゆったりと楽しんでいきたいと、あれこれ、ささやかな夢を描いている。

(参考資料は最後に一括して掲載させていただきます)


 

アメリカ大陸横断「青春日記」-1972・35日間・5000km⑰

2008-02-26 07:53:53 | Weblog

1972・9・2(土)雨 アンダスン→アーバナ(イリノイ州)

午前7:30起床。朝から激しい雨。アメリカに来てから二度目の雨だ。8:45車で家を出る。バスターミナルへ。ここには、昨日の七面鳥農場の奥さん、子どもたち、新聞記者の奥さんも来てくれ、住所の交換などをして別れを惜しむ。非常にフレンドリーな人たちだ。大変お世話になった。この感激は一生忘れない。Mr.Paulが言っていたように、今度は家族を連れて、もう一度来たいと思う。それほど、いい人たちだ。ありがとう!別れは、いつも辛い。

9:20、アンダスンを発ち、バス(ここはグレーハウンド・バスではない)でアーバナへ。途中、インディアナポリスに立ち寄り、およそ6時間でマンスフィールド着。とにかく、クーラーが効きすぎて寒いのと、窓外は雨でよく見えないので退屈だった。

ホストファミリーのお年寄り夫婦(農家)が迎えに来てくれた。息子さん夫婦が、すぐそばに住んでいる。夜、二組の夫婦が遊びに来る。8:00ごろ、散会。われわれも疲れたので、9:30頃2階の寝室へ。日記を書いて一日を終える。       

        ☆            ☆
           
       自治体経営革命で知られる
     「インディアナポリス市」

インディアナポリスは、通過しただけだが、「あぁ、ここが有名なインディ500が開かれる街か」と思って眺めていた。今改めてインディアナポリスについて調べてみると、そのキャッチフレーズは、「自治体経営革命でリードするカーレースの街」というものである。

1980年代、大都市に成長したがゆえに、行政サービスの低下を招き、住民や企業が流出。財源確保のため増税をするという厳しい財政状況に直面していた。

1992年、新市長となったスティーブン・ゴールドスミス氏は、市の業務の7割近くを民間に委託した。そのなかには公共下水処理場運営、刑務所の管理運営なども含まれ、画期的な行革手法として全米的な注目を集めているという。そして、「働きたい、住みたい都市」のベスト3に入るほど魅力的な街になっている。

日本でも、ゴミ処理や市営バスの民間委託などが増えてきているが、もっともっと民活を導入し、効率のよい自治体運営を進めるべきだ。JRやNTTをみても、サービスの向上は歴然としているし、経営実績も上がっている。

これからの自治体のリーダーは、経営感覚を持つということが重要な条件だ。ばかばかしい箱ものを沢山つくり、にっちもさっちもいかなくなった自治体は数知れない。夕張も、その典型的な一つだ。議会も住民も、他人任せではなく、より厳しい眼で、わがマチの在りようをチェックしていかなければならないということだ。

(参考資料は最後に一括して掲載させていただきます)



 


アメリカ大陸横断「青春日記」-1972・35日間・5000km⑯

2008-02-25 07:59:26 | Weblog

1972・9・1(金) 晴れ アンダスン
(インディアナ州)

午前7:30起床。10:00 YMCAに集合。福祉施設見学。老人、身体障害児、精神薄弱児たち150人(52人が子どもたち)が入所している。大変立派な施設でホテル並み。このような施設は全米で4,000ぐらいあるだろうという。しかし、まだまだ足りない。

この後、K君と二人で彼のホストファミリーの奥さんたちと、グラス製造工場や七面鳥が13,000羽もいるところへ案内してもらう。アンダスンからは、かなり離れたところ。グラス工場では実際に製造体験をさせてもらった。灰皿をつくる。後日、日本へ送ってくれるそうだ。価格は最低で2ドル。

奥さんたちは興味があるらしく、途中グラスショップにも立ち寄る。レストランで食事。ギリシア人が経営しているところで、奥さん、娘さん、店のチーフを紹介してくれる。田舎なので日本人は珍しいのだろうか。ここでも、ホストファミリーに立ち寄った。

とにかく、大きい家には驚いた。電話が15台もある。想像がつかない。黒人の医者の家だ。子どもは4人。主人は言う。「法律では、いくら人種差別がないと言っても、実際にはある!」と。そこで、彼は、人に使われないように勉強するという信念のもとに、ハイスクールを卒業して以来11年間、一生懸命に勉強した。博士号も取得した。彼の家は、まるでお城のようだ。

6:30から、「dish picnic」がMr.George Surbaugh宅で開かれた。ホストファミリーの家族が集まったので、かなりの数になった。それに日本人家族(ガイド)が3人と、交換留学生で来ている男子高校生(名古屋から)も一緒。ここで、新聞記者とも出会う。彼の奥さんは広告の仕事をしている。コロンビア大学で7か月間、日本語を勉強した。ご主人は特に教育問題の権威とか。

ここのパーティーで、われわれは、日本の盆踊り(北海盆歌)や流行歌を披露。集まってくれた中の一人に、なかなか愉快な警察官がいて、ギター片手に大熱演。食べ物は、それぞれが持ち寄ってのパーティー。家族みんなで楽しむ習慣は実にいいことだ。 9:30に終了。

星条旗をあしらった指輪をプレゼントされる。ホストファミリーに帰ってからは、妻にインディアナ州の地図が入ったお盆、息子(1歳)には絵本、私には星条旗入りのタイピンをプレゼントしてくれた。頂いたお土産が増えていくので、スーツケースの中を整理しなければならない。大変楽しく、感激した一日だった。11:30就寝。

    ☆           ☆            

    マーチン・ルーサー・キング牧師

人種差別や黒人問題で思い起こすのは、マーチン・ルーサー・キング牧師だ。キリスト教信仰に基づく非暴力主義の人種差別撤廃運動を推し進めた。1968年、テネシー州メンフィスで暗殺された。39歳だった。

1963年8月28日、ワシントンDCのリンカーン記念公園で行われた「ワシントン大行進」でのスピーチ「私には夢がある」-I Have a Dream。は、あまりにも有名だ。

私は同胞達に伝えたい。今日の、そして明日の困難に直面してはいても、私には、なお夢がある。それはアメリカン・ドリームに深く根ざした夢なのだ。つまり将来、この国が立ち上がり、「すべての人間は平等である」というこの国の信条を真実にする日が来るという夢なのだ。

私には夢がある。ジョージアの赤色の丘の上で、かつての奴隷の子孫と、かつての奴隷を所有した者の子孫が同胞として同じテーブルにつく日が来るという夢が。

私には夢がある。今、差別と抑圧の熱がうずまくミシシッピー州でさえ、自由と正義のオアシスに生まれ変わり得る日が来るという夢が。

私には夢がある。私の四人の小さい子ども達が、肌の色ではなく内なる人格で評価される国に住める日がいつか来るという夢が。

私には今、夢がある!人種差別主義者や州知事が連邦政府の干渉排除主義を唱え、連邦法の実施を拒否しているアラバマ州にさえ、将来いつか、幼い黒人の子ども達が幼い白人の子ども達と手に手を取って兄弟姉妹となり得る日が来る夢が。

私には今夢がある!いつの日にか、すべての谷は隆起し、丘や山は低地となる。荒地は平らになり、歪んだ地もまっすぐになる日が来ると。「そして神の栄光が現れ、すべての人々が共にその栄光を見るだろう。」(後略)~。

<典拠>「マーチン・ルーサー・キング・ジュニア ペーパープロジェクト」から抜粋木山ロリンダ・斎藤真由美訳 The Martin Luther King,Jr. Papers Project at Stanford University

(参考資料は最後に一括して掲載させていただきます)
                              


アメリカ大陸横断「青春日記」-1972・35日間・5000km⑮

2008-02-24 10:15:14 | Weblog

1972・8・31(木) 晴れ アンダスン
(インディアナ州)


午前7:30起床。9:00 YMCAに集合し、バスでGMの子会社である自動車部品工場「Delco remy」を見学。今日は凄く暑かった。汚水処理の工場を見学。200万ドルをこの施設に費やした。お金を節約するために建設したという。

この会社は、GM最大の子会社で、アンダスンの人口73,000人のうち、16,000人はGM関連の工場に勤めている。20の工場があり、3交替制。16マイル離れたところからも勤めに来ている。1971年から環境維持のため、年間1億6,700万ドルを費やしている。駐車場には9,000台収容できるスペースがあり、さすがはビッグ企業だ。

従業員の給料は週給およそ150ドル。PR用のスライドを見てから社員食堂で昼食。日本の社員食堂とは違って立派だ。

午後からは、まず「Migrant Farms」(移住者の農場)を見学。1時間当たり6ドル稼ぐのを目標にしている。ここで働くほとんどはテキサスから来る。風呂なし6人家族で2部屋に住む。2か月間働いて、その後、ミシガンのサクランボ工場などへ行く。

問題点としては、①教育が困る。90%はメキシコ系アメリカ人。②一つの技術しかないので仕方ないが、昔からの慣習。農家には組合がないし、学歴もないという。次に、ケチャップ工場でソースの製造過程を見て「テキサス・デイケアセンター」へ。農場労働者の子どもたち(生後15日~4歳まで)を、屋内運動場のようなところで預かっている託児所。個人経営で、連邦政府の補助金が出ている。

アンダスンでは、かつて、白人が黒人を酷使していたが、現在は一人もいない。この後、トマト工場で、ボランティア活動をしている2人の大学生に会う。毎日、5~10人の切り傷、打撲などの手当てをしたりしている。休みの期間中だけでも協力しようと参加している。住み込みといった感じだ。もちろん無報酬。

8:00 リーダーのH先生のホストファミリーであるMr.Robert.S.Bates宅へ、仲間3人で遊びに行く。近所の人も家族連れで来ていた。日本の遊びなどを紹介している中で、特に、そろばんや折り紙(カブト、船、キモノ、鶴など)が、人気あり。

ハサミを借りたいので、Woud you lent me a chokichoki?(チョキチョキ)と言ってみたら、ちゃんと通じた。この家には、中国人女性を描いた絵や、「福禄」という書が飾ってあった。10:30 帰ってくる。拙い英会話能力だが、このところ、もっぱら「男は度胸」という感じで押し通している。まぁ、何とかなっている。       

     ☆        ☆             

       企業城下町

GMは世界第二位の自動車販売台数を誇る。アンダスンは、まさにGMの企業城下町である。日本で言えば、愛知県の豊田市のようなもの。人口約40万人で全国第一位の製造品出荷額等を誇り、「クルマのまち」として知られる。

トヨタ自動車は、自動車販売台数では世界第一位だ。市内に7か所の工場を持ち、20,000人余りが働く。ホテル、結婚式場、スポーツクラブなどの施設は社員以外も利用できるなど、地域社会とともに歩む企業でもある。

企業城下町と言えば、かつては日本有数の炭鉱として栄えた夕張もそうだった。最盛期には24あった炭鉱が1990年にゼロになり、人口はピーク時の120,000人から13,000人弱まで減ってしまった。

2007年には、財政再建団体となり、353億円の借金を18年間で返済しなければならないという茨の道を歩みはじめている。そのため、市民生活は全国最高の住民負担、最低の行政サービスとなった。

また、高齢化率(65歳以上)は全国の市で最高の41%、年少人口(15歳未満)は全国最低の約8%と実に厳しい現実と闘っている。しかし今、行政も市民も懸命に再建に立ち向っている。全国からの温かい支援の輪も広がっている。ここは是非、「ピンチをチャンスに」変えて頑張ってほしい。

(参考資料は最後に一括して掲載させていただきます)


   


アメリカ大陸横断「青春日記」-1972・35日間・5000Km⑭

2008-02-23 08:33:30 | Weblog

1972・8・30(水) 曇り ピッツバーグ→アンダスン(インディアナ州)

午前6:00起床。ピッツバーグを後に、一路アンダスン(インディアナ州)へ。まだ、空が明けきらないうちにバスに乗り、9時間ほど走る。乗り換え2回。途中、コロンバスに立ち寄り、ここで団長さんたちと再会。リッチモンド、ムンシエ、に立ち寄って午後5:30、アンダスンに到着。

早速、待ち受けていたホストファミリーと一緒に市役所へ。市長やYMCAの責任者らの出迎えを受け、30分ほどのセレモニーがあった。今回は一人でのホームスティ。私のホストファミリーは、Mr.Rev.Stanley.Delongで、教会の牧師。115名ほどの生徒を教えている。家の隣が勤務先。YMCAにも近い。早速、車でショッピングセンターに案内してくれた。

ちょうど、ボランティア活動のスクウェアダンスを見ることができた。ここでチラシを受け取ったが、そこには、「困ったことがあったら、いつでも声をかけてください。ボランティアが無料で相談に乗ります。649-5211」とあった。 9:30帰宅。

彼は大学で社会学を専攻。高校の教師を勤めた後、教会の仕事に就いている。日本へは海軍で5か月間滞在したことがある。「上等ね」「少し」「たくさん」「クルクルパー」「サッポロビール」「キリンビール」などの言葉を知っていた。彼は32歳、奥さん29歳、2歳半の女の双子と5か月の男の子がいる。

テレビでオリンピックのバスケットボール USA-BRAZIL戦を観る。今日は長時間のバス移動で、かなり疲れた。シャワーを浴びて11:00に就寝。     

          ☆         ☆              
           
             ロータリークラブ

かつて、私もロータリークラブに所属していた時期があり、奉仕活動に参加していたことがある。

ロータリークラブの誕生は、1905年、経済恐慌で人心の荒れすさんでいたアメリカ社会、とくにシカゴの状態を憂えた青年弁護士が、3人の友人と語らってつくった世界初の奉仕団体である。ロータリーとは、会員が持ち回り順番に、集会を各自の事務所で開いたことから名づけられた。

世界には、約120万人の会員がおり、200以上の国と地域に32,000以上のクラブがある。日本では、1920年に東京ロータリークラブが最初に出来た。現在、2,326のクラブ、101,398人(2006年4月末現在)が、ポリオ撲滅運動をはじめ各種の奉仕活動を展開している。

私は、1988年、Sクラブのチャーターメンバーとして所属し、数年間活動した経験がある。職業奉仕委員長を務めたときには「無料生活なんでも相談」というイベントを提案し、1991年10月に第一回を実施、約100人の市民が訪れ大変喜ばれた。現在も継続されており、優秀な奉仕活動として表彰されている。

このほかの奉仕団体としては、ライオンズクラブなどをはじめ
多くの団体があるが、奉仕活動は、これからも益々必要とされる時代だと思う。

(参考資料は最後に一括して掲載させていただきます)



アメリカ大陸横断「青春日記」-1972・35日間・5000km⑬

2008-02-22 11:46:04 | Weblog

1972・8・29(火) 晴れ ピッツバーグ
(ペンシルベニア州)

午前8:00起床。Opportunities Industrialization Center(Man Power)へ。バスの降車所を間違えて、13人がただ乗り。ここのBill.w.Johnson、(黒人、29歳、子どもさん1人)から、職業教育、開発などについてレクチャーを受ける。

公益法人で、1964年フィラデルフィアで、下級の人たちの就職斡旋を目的に全て黒人によって設立された。ナイジェリア、ケニア、エチオピア、ガーナにもある。105の支社、500人の社員がいて、年間600人の就職を斡旋する。

失業者への再訓練、麻薬患者を更生させるため、95人のインストラクターがいる。経費の19%は政府の援助。1週間56ドルを保証+交通費。テレビ、新聞の広告によって募集するが、場合によっては出かけて行って斡旋する。最低1時間1ドル60セントだが、目標は2ドル。

しかし斡旋したうちの10%は何の理由もなく去っていく。黒人についても語ってくれた。黒人にはハンディキャップがある。アメリカには3,500万人の黒人がおり、人口の10%を占める。最近は政府も配慮するようになってきているが、政府を破壊せよ!という強硬論者もいる。議会には上院に1人、下院に13人いる。

黒人は①アメリカナイズされている②固有の文化を持たないという。彼の先祖も200年前にアメリカに渡ってきた。黒人の6分の1は子どもで、その割合は少しずつ増えてきている。

その点、日本人は①日本人固有の文化を持っている。精神的な誇りを持っている。アメリカに住んでいる日本人と話していてそれを感じる。②日本人は清潔で実直。アメリカの真似をしている面もあるが、工業関係が優れている。「トヨタ」は、アフリカでは自動車という言葉と同義語。オーストラリアでは「ホンダ」だそうだ。ソニー、ヤシカの製品は大変良いと評価されている。

アメリカ人は簡単に転職する。彼自身もオクラホマの大学を卒業して高校教師を3年。ガーナに1年いて、ここに就職。ディレクターの代理を務め、現在は専務。29歳、1児の父。現在の仕事をライフワークとは考えてない。4~5年経ったら考えるという。

生活信条は、人間の平等性を説いた、ウイリアム・ジェームスの「心のふれ合い」(条件、関係を越えた)という言葉が好き。アメリカで人気のある職業(大卒)=先生、社会福祉関係、科学者(ソ連の人工衛星以来)、化学者、ジャーナリスト、電送、電話交換手など。若者の40%は大学に進学する。定年はないアメリカ人は、4分の3が東部に、4分の1が西部に住んでいる。従って、西へ行くに従って環境も良い。

2:00から、「ボランティア活動センター」を訪れる。Mrs.Hepnerからボランティア活動に関する話を聞く。このセンターには4,500人がいるが、給料は半分以上が無給。寄付などで集まったお金はここでプールし、税金はかからない。登録制。

民間会社でもボランティア活動を行っているところがある。ゼロックスでは、「社会が健康であれば会社も健康」だということがスローガン。貧しい人への援助、盲目の人、お年寄り、小さい子どもがいる人、失業者などへの手助けを行っている。

このような活動は、ヨーロッパから始まり、地域で隣から隣りへと広がったが、社会が大きくなって、こうした考え方だけでは限界がある。やはり、局や省を通すことが必要。今、大学のコースにボランティアのコースを作るよう働きかけている。 

          ☆         ☆             

              
5回の転職経験

けっして自慢になる話ではないが、私には、5回の転職経験がある。昭和42年、東京でのPR会社をはじめとして、郷里の北海道へ帰って父が経営する会社、政治家秘書、映像制作会社、政治広報の専門会社である。

転職のキッカケは、自分のやりたいことと、経済的なバランスを、いかにとるかということだった。最終的には、その両方が、まずまず納得できるような会社に25年間勤め、自分なりに満足できる仕事ができたし、責任者の立場も経験した。小さい組織ではあったが、充実したサラリーマン人生だったと思う。

私が転職した昭和40年代半ば頃から50年代半ば頃にかけては、日本では今のように転職する人が、それほど多くはなかったように思う。転職する人間に対する評価も、必ずしも高くはなかった。ヘッドハンティングという言葉が流行りだしたのは、その後のことである。

私は、4年前に早めのリタイアを決断し、今は趣味の旅行(一昨年には、JRによる日本縦断も行った)を中心に、パークゴルフ、北海道日本ハムファイターズ応援、家事手伝い(未だに見習の域を出ないが)、読書、ブログ、親しい仲間との情報交換会など、気ままな毎日を送っている。

政府は今、再チャレンジ支援策を推進しているが、2010年までにピーク時(2003年の217万人)の8割に減らすことを目標にしている。この3年間に20万人の職業訓練を行うとしているが、実際に就職までこぎつけるのは、なかなか厳しそうだ。社会構造が変化している今、働く側も、雇う側も意識改革が迫られている時代ではないか。

(参考資料は最後に一括して掲載させていたただきます)



 

アメリカ大陸横断「青春日記」-1972・35日間・5000km⑫

2008-02-21 12:09:10 | Weblog

1972・8・28(月) 晴れ ピッツバーグ
(ペンシルベニア州)

午前8:00起床。学生食堂で朝食。パン、スクランブルエッグ、ミルク。

9:30寄宿舎を出発。歩いて、コーネリー職業訓練所見学。学校の敷地の広いこと。授業料は無料。1日当たり90ドル支給される。クラスは、大工、溶接、電気、建築、自動車、ブロック、アート、印刷、広告、タイプ、コンピュータ、グラフィックデザイン、看護婦、商業英語、製図、塗装、簿記、会計、料理に至るまで多くのコースがある。

最も長いコースで2年。休暇はない。就職の斡旋もしており、大工、空調関係、ブロックなどが人気コースだそうだ。教育委員会との連携もできている。誰でもが入学でき、入学試験はない。ほぼ短大卒の力がある。管理者を目指す人には、そのためのコースもある。学生2500人、あくまでも基礎的なトレーニングだ。

しかし、再就職を目指す人たちも沢山おり、夜間コースもある。このシステムは、他の州にはない。ここでは、新聞印刷、オフセット印刷、マガジン印刷も行っている。月~金は8時間、1時間はホームワーク。このようなシステムはかなり効果を上げているということだった。技術的には、日本の方が優れているように感じた。

ちなみに、アメリカでは、小学校6年(elementary school)、中等学校3年(junior high school)、高等学校3年(high school)ということになっている。

午後2:00「 G・A・S・P」(Groop Against Smog and Pollution)を訪ね、ピッツバーグの公害対策について学ぶ。「G・A・S・P」は、1969年に設立されたスモッグや公害対策について活動するグループで、非営利市民グループ。教会の一部を借りて活動拠点としている。1970年には、公害対策市民会議ができ、14,000ドルの寄付が集まる。

市民の健康と財産を守ることが最大の目的で、測定機械も一般市民が寄付している。行政面では教育委員会から10,000ドル、政府から環境保全のためにと25,000ドル、州政府から4,000ドルの補助金が出ている。参加者は、個人5,000人、団体関係25,000。

工業地帯であるピッツバーグだけにスモッグで有名。しかし、アメリカでは一度も裁判に勝ったことがなく、現在、訴訟を起こしているところがある。現在、工場の95%が石炭だが、これをガスに変えていく。市民の交通対策が必要だ。

面白い発想だと思ったのは、環境を破壊した人には賞状のようなものを与える。日本と違い、ユーモアもある。啓発用のステッカーやTシャツには「Girty, Dirty」という文字を入れてある。息がつまるという意味合いのことだそう。この団体では、ラルフネーダーなどとは関係がないが、結果については一応報告している。帰りがけにピッツバークの街を少し散歩して帰舎。

Mr.Saul.S.Lipman(He is the president of a savings and loan company.)が迎えに来る。K君と彼の自宅へ。郊外の閑静なところ。豪華な家。秘書のような女性が来ていた。夕食をご馳走になりながら雑談。夕食は、ビフテキ、ヌードル、トウモロコシ、パン、サラダ、アイスティー、アイスクリームなど。

いくつか質問してみた。大統領選挙については、中間的な立場であるが、共和党のニクソンに投票するという。民主党はマクガバン。アメリカ人は対立民族で団結力が弱い。

18歳から選挙権を持ったことは、たいした影響はないだろう。それは、親の支持政党によって子どもが投票するからだと。ほとんどの若者は政治に関心がない。ゴーゴーや麻薬に興味を示しているものが多い。

アメリカでは、これからどんなレジャーが盛んになるか聞いてみた。ボート、ハイキング、フィシング、キャンプ、ハンティング、テニス、スイミング、ゴルフ、サッカー、乗馬など。

彼はロータリアン。浮世絵を飾ってあった。 9:30ごろから、奥さんも一緒に外出。ワシントン公園に行く。夜景が素晴らしい。きれいな月が印象的だった。教会、図書館、大学周辺を見せてくれる。

車の中で、「東京を離れるとき、奥さんは寂しがらなかったか?」と聞かれる。「結婚して5年になるので、それほどではないようだ。妻は一年ぶりに実家に帰ることができるので楽しみにしている」と答えると、不思議そうな顔をしていた。結局、11:30まで、市内を案内してくれ、アメリカの昔話の絵をプレゼントしてもらった。

         ☆         ☆                                 
            ラルフネーダー

日本における公害問題は、とくに1950~1960年代に表面化した。水俣病、スモン病薬害事件、四日市ぜんそく、PCBによるカネミ油症事件などだ。

1970年代になると、光化学スモッグ、大気汚染、自動車の排気ガス、工場の排煙などが問題になってきた。日本では美濃部亮吉・東京都知事、アメリカではラルフネーダーが公害問題に関して記憶に残っている人物だ。

ラルフネーダーは、1971 年、消費者保護団体NGO「パブリック・シチズン」を設立し、15万人の会員を擁していたという。環境問題、民主化運動に携わり、1996年と2000年には「緑の党」から、2004年には無所属から大統領選挙に立候補した経緯がある。

私たちにとっ
て、環境問題は、21世紀の きなテーマの一つだ。

(参考資料は最後に一括して掲載させていただきます)



 


アメリカ大陸横断「青春日記」-1972・35日間・5000km⑪

2008-02-20 10:40:54 | Weblog
1972・8・27(日) 晴れのち曇り ボルチモア→ピッツバーグ(ペンシルべニア州)

午前7:30起床。今朝は、リーダーのH先生が、これから乗るグレーハウンド・バスのチケットが見つからないと、大騒ぎ。部屋中に荷物を広げ青くなっていた。30分ほど探して、やっと見つかり、ほっとした。われわれのグループではハプニング続きだ。

今日は、ボルチモアを離れる日。朝食のとき、お礼にプレゼントの品を渡す。私は真珠のペンダントをあげた。ローリー嬢にはダルマを。皆が、それぞれにプレゼントした。Mr.Klineのお宅には大変お世話になった。感謝、感謝だ。

9:30に、近所に住んでいるというパイロットも、バス停まで見送ってくれた。まったく頭が下がる思いだ。ボルチモアを離れるときは、ほんとうに感無量のものがあった。ローリー嬢も寂しそうで、可哀想なくらいだった。私は、Mrs.Klineのキッスを頬に受け当惑した。

11:15ごろ出発、一路ピッツバーグへ。途中、雨が降ったり、気温が下がったりして少し寒かった。2回ほど休憩した後、ピッツバーグのデュケンス大学に到着。今日は、大学の寮に宿泊。腹が減ったので、近くのレストランで食事。(4ドル30セント)サラダ、オムレツ、マッシュルームが山ほど出てきた。店員の接客態度が極めて悪く、何回呼んでも「Just Moment!」だ。三流の店といった感じ。

ビールを飲みたいと思ったのだが、売ってくれない。日曜日に酒を売るためには、特別のライセンスが必要だとか。州の法律で決められているということだった。帰舎してから、K君の部屋へ行き、ボルチモアで仕入れてきたCarbert Extra(5ドル)を、ラッパ飲み。ドイツ人学生二人が遊びに来る。大学の授業は明日から始まるそう。

男女共学で女子が多いようだ。24時間オープンしている。われわれの部屋は923号。周囲の環境は実に良い。途中で抜け出し、日記の整理、シャワーを浴びて寝る。

    ☆         ☆ 
           
       
酒酔い運転

アメリカでビールなどアルコールを買うのには、ずいぶん苦労した。今は、ほとんど飲めないのでアルコールがなくても全く平気なのだが、当時はビールを飲みたいなと思うことが結構あった。

アメリカでは、長時間バスで移動することが多く、ホテルなどに到着した時や、フリータイムの折に「ビール飲もうか」ということになるのだが、なかなか酒屋が見つからなかったり、すぐには売ってもらえなかったりした。

日本では、酒酔い運転による悪質極まりない死亡事故が多発して大きな問題となっている。2006年8月に起きた福岡市の車自己3児死亡事故は、業務上過失致死傷罪の7年6か月という判決だったが、まったく理解できない。(2008・1・8のブログにも書きました)

危険運転致死傷罪は死亡させた場合が20年以下の有期懲役、負傷させた場合は15年以下の懲役だ。新しい改正道路交通法によれば、酒や車を提供するなどの行為にも罰則を課す規定が新設された。自動車運転過失致死傷罪を新設した改正刑法との併合罪が適用された場合、酒酔いが最高で懲役10年6月、酒気帯びは同10年となる。被害者の苦しみを思えば、当然のことだ。

私は、もともと運転免許を持っていないし、アルコールも今はほとんど飲まないが、加害者になり得るということだ。運転者はもちろんのこと、アルコールを売る側、飲ませる側を含め、みんなが徹底した意識改革をしなければ酒酔い運転の根絶はできない。

(参考資料は最後に一括して掲載させていただきます)