北の旅人

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猫ひろし氏は、カンボジア選手の「夢」を返上すべき!

2012-04-04 11:18:33 | Weblog

お笑い芸人の猫ひろし氏が、カンボジア国籍を取得してマラソンでオリンピックに出場することに賛否両論が出ているが、これにはハッキリと反対したい。

日本陸連理事で、かつてマラソンで活躍した瀬古利彦氏は「本当におめでたいこと。五輪は参加することに意義がある。選ばれた以上、カンボジア国民の夢を背負って頑張って欲しい」と歓迎しているが、これは全くピント外れの発言だ。確かに参加することに意義はあるかもしれないが、「カンボジア国民の夢を背負う」どころか、「カンボジア国民の夢を奪う」行為だ。

カンボジア最大の新聞は、「オリンピックの出場機会を奪われたカンボジアの英雄、ヘム・ブンティンもまた怒り心頭の1人だ」と報じている。
「ブンティンは我々の取材に『ほんのわずかなタイム差(92秒)で僕に勝った彼が選ばれてしまった。彼はカンボジア人ではあるが、カンボジア人ではない。こういう陸連の決定には不満だ』とはっきり答えています」

しかも、猫氏は、「アスリートとしてではなく芸人として走る」「ゴールしたら最高の一発ギャグを見せたい」と話しており、全く不純な動機であり、自己宣伝のためのオリンピック出場に外ならない。記録的にみても、本人の努力は認めるにしても、オリンピックに出場するほど特別にいいタイムでもない。五輪憲章は、選手による自身の競技パフォーマンスの宣伝目的使用を禁止しているという。だから、五輪憲章違反の可能性もある。

作家の曽野綾子さんは、週刊現代」の2012年3月17日号で、「日本人もここまで堕ちたか」と言い、「~あまりに軽くて、常識的な人間だったら考えられない行為だ」と批判している。マラソンを通して日本とカンボジアとの国際交流を続けている、オリンピックマラソン2大会連続のメダリスト・有森裕子さんも「心情的にはこれが本当にいいことなのか複雑だ」と語っている。

私は、今から19年前の1993年(平成5)、内戦が続いていたカンボジアへ行ったことがある。陸上自衛隊が初めてPKO参加したのを、地方議員らが視察することになり同行取材するためだった。日本の自衛隊の基地「タケオ」は、首都プノンペンから約76kmのところにあり、自衛隊員600人、文民警察75人がカンボジアの和平のために汗をしていた。各国の応援部隊の中でも日本の自衛隊に対する評価は、大変高かった。

道路や橋の建設などばかりではなく、周辺住民との友好親善も積極的に図り、大変尊敬されていたことを身近に感じてきた。近隣住民や子どもたちに出会った時の表情がそれを物語っていた。しかも、地雷が1000万個も埋まっていると言われた大変危険な作業に従事した自衛隊の皆さんのご苦労などによって築かれた、極めて親日的な感情を無にしてはならい。もしかすると、あの時、裸足で歩いていた子どもたちがオリンピックに夢をかけていたかもしれないのだ。

また、日本人国連ボランティア・中田厚仁さんと、日本人文民警察官・高田晴行警部補が殺害された。二人ともカンボジアのために尽力を注ぎ、命を落とした。そうした尊い犠牲の上に、今日の両国の友好関係があることを忘れてはならない。

だから、敢えて猫氏に言いたい。今からでも遅くはない。カンボジア国民としてのオリンピック出場を考え直すべきだ。カンボジアの選手に「夢」を返上すべきだ。その方が、オリンピックに出場するよりも、はるかに価値があることだと申し上げたい。

 

 


今なぜ、中学校で武道・ダンスの必修化?②

2012-04-03 13:35:35 | Weblog

全国の中学校で、「武道」が必脩になったことについて、今なぜ?と思っていたのだが、これは2006年の教育基本法改正にあるということが分かった。(北海道新聞2012/3/31)

2006年と言えば、安倍内閣が「美しい国日本」をつくるというスローガンを掲げ、[教育再生会議]を立ち上げて、「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛する」「武道などを通じて、徳目や礼儀作法、形式美を身につけさせる」として、学習指導要領が改訂されたのだ。思い返せば、確かに、当時は「愛国心」について様々な議論が行われていた。教育委員会の指導の手引にも「愛国心」が記されているという。札幌市の場合、公立中学校97校のうち、すでに男子は全校で柔道を選択し、女子も新年度には全校で導入されるという。

また、「柔道の授業は相手を尊重する精神を学ぶ狙いがあり、受身を身につければ日常生活でも有効。(安全面でも)競技や部活動とは違う」と。すでに、女子にも柔道を取り入れている学校の教頭も、「受け身や礼儀などを重視し、技より畳になじませることが中心になっている」と説明している。

何事もマイナス面だけを心配していればキリがないが、やはり、こんな動機からの「武道」の必修化には、どうしても違和感が残る。「愛国心」「徳目」「礼儀作法」「形式美」「伝統文化」「郷土愛」などに比重をおくとするなら、他にいくらでも指導法があるだろう。たとえば、女性に対してなら、柔道よりも「着物の着付け」や「礼法」を教える時間を積極的に導入するなどした方が、よほど趣旨に適っている。若い女性のマナーの悪さが特に目立つことを思えば、なお更だ。着付けの学校や礼法学院は全国にあるから指導者養成なども可能だ。

もう一つ。生徒に、「武道」の授業を課すなら、その前に「国旗・国歌」に反対する教員にこそ指導を徹底すべきなのだ。大阪市で、国歌を歌っているかどうか「口元チェック」を行ったというのは、どうかと思うが、政権与党の幹事長が日教組のドンと言われるだけに、なかなか難しい状況ではある。我々は、この機会に、日本の教育について改めて考えてみる必要がある。同時に、有権者が今こそ賢明な選択をしなければならない時だということだ。

今なぜ、中学校で武道・ダンスの必修化?①のアドレス
 http://blog.goo.ne.jp/goo1942_december/d/20120324


小沢氏、亀井氏は、もう過去の人

2012-04-02 10:08:50 | Weblog

        こんな政治家たちが蠢く、永田町の風景は、もう見飽きた

消費税増税問題に関する民主党の小沢一郎元代表と国民新党の亀井静香代表の動きは、誠に見苦しい。小沢氏は「今これほどの大増税をやるべき時なのか。国民から負担を頂く大増税の前にやるべきことがある。私たちはいたずらに政局の中で、同じ党内で意義を唱えているわけではない。民主党が国民の期待を担った初心をもう一度取り戻し、みんなで当初目指したものに向って頑張っていこうと主張している」と、野田政権を批判している。

 だが、小沢氏らが言う、増税の前にやるべき事とは何なのか。少しも聞こえてこない。当初目指したものとは何なのか。口を開けば「国民との約束を果たさなければダメだ」という。しかし、それらは、ことごとく破綻し、すでに国民の信頼を失っているではないか。いかにも国民の見方を装っているが、東北大震災における小沢氏の仕事ぶりはどうだったのか。同じ地元出身の議員からは「もっと被災地に入ってほしい」という注文をつけられているという。

 小沢氏はまた、消費税率引き上げ関連法案の閣議決定について、「小沢グループの議員に対し、「政治家というより人間として筋道をきちんと通すことが大事だ」と語り、政務三役や党役員に就いている小沢グループの議員に「集団辞任」を促しているという。小沢氏が「人間として~」という言葉を使うなら、そっくり小沢氏にその言葉をお返ししたい。いやしくも、小沢氏は被告の身であり、党員資格停止中である。人間として言うなら、ここは謹慎すべき時だ。にもかかわらず、そんなことはお構いなしに、自分の力を誇示するため、「数は力」とばかりに政局にうつつを抜かしている。結局は、政局を混乱させ、党内で主導権を握ろうとする姿勢は見え見えだ。さらに、衆院解散となれば、小沢チルドレンの多くの再選は極めて厳しいと言われるだけに、何としても選挙は避けたいというのが本音なのだ。

政局を見渡せば、民主党執行部にしても野党の自民党にしても「小沢切り」の方向へ進んでいるようだ。自民党の谷垣総裁、石原幹事長も「野田首相が法案に反対する小沢一郎氏らと決別し、衆院解散・総選挙の時期を明確にすれば、賛成することもあり得る」と語っている。小沢氏に関しては、今月下旬に裁判の判決が下されるが、どんな結果にしても、すでに小沢氏は過去の人だ。そのことを、早く認識し、潔く政界を去るべきだ。

国民新党の亀井代表も、また同じく過去の人だ。ああだ、こうだと声高に叫んでいるが、党内で亀井氏に付いていくのは、たった一人だ。連立政権内でも、党内でも居場所がなくなると、今度は「石原新党」なるものを仕掛けているが、仮に新党が結成されたとしても、これまた終わった人たちの集まりでしかなく、国民の支持など得られるはずもない。盛んに橋下氏率いる「大阪維新の会」に接近しようとしており、新党名を「維新」にするという案が検討されているらしいのだが、そういうセンス自体がお粗末としか言いようがない。亀井氏もまた、小沢一郎氏と同様、政界を引退すべきだ。

こんな政治家たちが、蠢く永田町の風景は、もう見飽きた。次期衆院選では、有権者も、こうした政治家たちをしっかり見極めなければならない。

 


死刑執行は当然のこと

2012-04-01 13:41:21 | Weblog

3月29日、3人の死刑が執行された。2010年7月28日に、2人が執行されて以来で、民主党の政権になって2回目だ。これにより、現在の死刑確定者は132人だという。小川敏夫法務大臣は、執行後の記者会見で、「刑罰権は国民にあり、その国民の声を反映する目的で導入された裁判員裁判でも死刑が支持されている。反対はあっても職責を果たすべきだと考えた」と語った。

 新聞の見出しは、「3人の死刑執行」「死刑1年8か月ぶり執行」「死刑 裁判員支持で決断」「法相『国民が支持』」「裁判員の厳罰傾向重視」「死刑反対派『法相、聞く耳ない』などと書いているが、死刑は、至極当然のことなのだ。遺族らも「一つの区切り」「当然」と語っている。

 日本弁護士連合会の宇都宮健児会長は「民主党が公約で死刑存廃の国民的議論を行うとしていたことに対し、[議論が尽くされるどころか、方針も立てられていない中で死刑執行が再開されたことは、極めて遺憾]という声明を出した。ここにも、民主党が政権交代するために、バラ色のマニフェストを掲げてはみたものの、ことごとく破綻していることを実証していることの一例がある。

 また、超党派の「死刑廃止を推進する議員連盟」(亀井静香・国民新党代表)や人権団体のメンバーが執行を強く批判した。議連の村越祐民事務局長(民主党)は、「死刑は国民に支持されている」と強調したことについて、「執行という重い判断を国民に転嫁している」と批判し、社民党の福島瑞穂党首も「政権交代で日本も死刑廃止に踏み出すべきだが、自民党政権と全く変わらない」と述べた。

NPO法人監獄人権センターの田鎖麻衣子事務局長は「国民の支持があるというが、ごく基本的な情報すら出ていない」と死刑に関する情報公開の遅れを批判した。
国際人権団体アムネスティ・インターナショナル日本の若林秀樹事務局長は 、「死刑は生きる権利を侵害する残虐で非人道的な刑罰。たとえ8割の国民の支持があっても、それに押されて執行すべきでない」と訴えた。 

 しかし、反対派の話はどうしても理解できない。反対の最大の理由は、「死刑は生きる権利を侵害する残虐で非人道的な刑罰」というものらしいのだが、ならば、何の落ち度もない人間が、残虐な行為によって殺された場合は、まさに生きる権利を侵害されたことになるのだ。それだけに止まらず、被害者の家族にとっても人生を大きく狂わされてしまう事になるのだ。その被害者や家族を差し置いて、殺人を犯したものを擁護するということは、何の説得力もない。

 死刑廃止論者、人権派の皆さんに声を大にして言いたい!

「生きる権利を侵害する残虐で非人間的な殺人」を犯した人間は、「自らが人権を放棄した」ことになるということを。事件によっては、冤罪ということを十分に考慮しなければならないことは当然のことだ。

従来の日本の裁判は、被害者の立場よりも加害者の立場にたって、如何に更生させるかに重点が置かれてきた。本来、被害者の立場から考えなければならないのに、全くおかしな状況が続いてきた。そういう意味で、今回の死刑執行は、粛々と受け止めるべきだ。テレビなどでは、「今後、論議を呼びそうです」などと、無責任なコメントを発していたが、ほんの一部の死刑廃止論者に媚びることは止めるべきだ。

裁判員裁判が始まって、少しずつ常識的な判断が下されるようになってきたが、まだまだ理解し難い判決も多い。国民が納得できる裁判を強く望みたい。