選択制限について、なく、いななく、ほえる を、例にして説明する。 . . . 本文を読む
言葉で世界を切り取ると、タイトルにある。言葉が違えば、物理的には同じであっても、見方、切り方が違ってくると説明する。水の例を挙げると、日本語では、水と、湯と、使い分ける。意味成分によって、言語の彼我を知るというわけである。また、食肉の例がある。フランス語の椅子の分析を、構造意味論、アルグリダス・グレマスによって紹介する。意味成分の一覧表を作ってみるとわかりよいということである。 . . . 本文を読む
語彙を語の一つ一つで議論すると、日本語教育の語彙は、語と意味の関係を考える。意味の難しさ、第1章に、単語の意味を中心として、意味とは何かについて考える、これが語彙論であると規定する。語を単体で考ええるのではなくて、語のグループでとらえると言語研究の議論を述べて、語の一つ一つを考えるとして、色彩語彙、温度語彙、身体語彙、親族語彙にグループをとらえているのを紹介している。部分体系ごとの語彙の一端を、できるところで、国際レベルで理解しやすいように模索していく、という解説は、何かわからないが、まあやってみようということなのだと、語の意味を語の意味で説明しないやり方、成分の分析を、意味成分として行う。意味成分をこれは語彙論、意味論としている。意味論では、語の意味を意味の成分あるいは意味の原子要素 semantic components or primitives へと分解する成分分析 omponential_analysis の手法がとられるので、その方法を言う。
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日本語教育の語彙、日本語学の語彙、この分野と、国語の語彙、国語学の語彙、この分野と、名称が異なれば、その何が変わるか。日本語と国語の違いによるものか、教育によることか、学的体系にかかわるか。その区別があるとすれば、あるに違いないのだが、それをもって立場とするとなると、どういうことになろうか。日本語と国語は言語分析を受けるものとしての対象を同じくしながら、その手法において異なるととらえてみてもよい。日本語を言語のひとつとする立場と、国語を母語話者として内省する立場と、それぞれによって、実験実証、文献実証と別れると考えることができる。日本語を学習するのは、日本語を言語として習得する、ということになると、国語を学習するのは、これには、国語科目を学ぶこととなって、先に日本語教育と言い、またこれを国語教育として見ることになる。しかし現実に日本語科目と国語科目とすれば、その学習目的、学習方法、学習材料と、それぞれにとらえて日本語と国語とが区別されている。 . . . 本文を読む
日本語教育の語彙 と題する。勉誠社刊、城生佰太郎著、2012年4月発行である。言葉と意味の用法を国際レベルで伝えるというのが、腹巻帯の文言である。日本語教育を実学的視点にとらえるようである。日本語を何も知らない人たちに教える方法と、はしがきに見えて、日本語をよく知っている人、知らない人と、その二分類に、国語教育と、日本語教育を対置する。その言やよし、と言ってみて、果たして本当にそうであるかと思って、これを教科書に、日本語教育の語彙を考えてみよう。そこでこの目的を国際レベルの捉え方でするという例証に、日本語辞典に、見出し語の音声記号を付けた自著を挙げている。はて1996年、その共著とは何か。 . . . 本文を読む
形態文法の形態には意味がある、形式と意味の関係であるから、言語記号の考え方の基本となるもの、前提である。自由形式、結合形式のとらえかたにも、自由であるのは意味単位として成立すること、結合するのは、その単位に付属する意味内容となる、文法法則をとらえる形態論と統語論の意味の単位を知らなければ、形態はとらえられない。意味の最小形式が語を単位とすると原理原則をもってする、その意味が言語現象には意味の反映としてあるものであるから、その言語を用いる地域、ひとびと、その集団が持つものは歴史としての言語である。形式に分割する単語は共有される意義そのものであるから、その用法に規則性があるのである。 . . . 本文を読む
学習文法を学習ステップにある学習項目と捉えていくと、新しい文法事項にステップアップするとすれば、それは学習段階と教授法にかあくぁってくる。文法翻訳法の教材はその課に提出される教科書本文の文章によっているので、その学習文法項目がその提出順序に従うことになる。書き言葉の文法は読解、翻訳のために文法項目が並べられることになる。日本語教育文法は、書き言葉としてその学習段階を示すものはほとんどない。日本学で日本語古典文学に取り組む欧州での、その伝統のアカデミーでは初級相当にある教材が何かによって決まってくるだろう。それに対して、宣教師の教材と日本語学習、日本語の手引きをする会話書では、それが戦時における敵対言語の習得という命令によって、話し言葉の習得が工夫されて、そのときに採用された言語学の流行で、構造主義の学説を入れたものとなって、文法習得にも段階が設けられた。 . . . 本文を読む
日本語学習に文法を教えるか、英語学習に文法を学んできたわたしたちには、中国語学習、韓国語学習にそれぞれ文法を学ぶことをするようである。それはごく普通のこととしているから、語学に文法習得を必須と考える。それは当然であるとして、その文法のとらえ方にある。外国語としての英語、中国語、韓国語にそれぞれ文法習得のための科目がある、ということになって、英語文法、中国語文法、韓国語文法という言い方が行われる。いずれにもその言語による文法現象が目標言語による解説とはならない。教科目であるから、その文法が話し言葉のものであるか書き言葉のものであるか、本来の作文法とはなるかならないか、文章読解に役立つか、その習得で効果とするものは何か。ここで外国語としての言語習得の段階に応じた文法力は、目標とする言語の運用にあると考えれば、文法説明能力には求められない。言い換えると、日本語学習に日本語文法を科目建てして教えることはないので、学習者は日本語を話すことで、コミュニケーションを実現できる文法の運用を、その学習の結果として持つことになる。 . . . 本文を読む
話し言葉を学習するステップには、です、ます、と文体でとらえる語末の言い方から始まる。tabemasu mimasu という語形が、文の中でとらえられる。pan-o tabe-masu terebi-o mi-masu 日本語の話ことばに文体を分けるのは、初級段階のステップの段階にある。わたしたちの日常語で、国語では話し言葉に意識することなく、敬体と常体を使っている。それはどのように使い分けているかを考えると、文体の別は重要であるだけでなく、その習得には順序をもってするかどうかが考えられなければならない。言語として日本語を見れば、それはいずれにも用法があることなので、その区別をもって日本語学習にはどのスタイルから学ぶのがよいかということになる。これは議論するまでもなく、話し言葉の様子を聞いていれば、いきなり、普通のスタイルで話かけるのは限定される。会話で、話し相手がいて、そのときに話し始めるのは敬語であるから、それをふつうに話す言葉として、敬体を学ぶとよいことが分かる。
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文法は規則である、その規則とは、どのようなものか。学習者にまず意識される日本語は漢字表記のことであろう。では、日本語文法は、日本語教育ではじめにとらえられるのは、指示し、関係をとらえる言葉である。これ それ 指示代名詞と呼ぶ、国語では、こそあど言葉のことである。あれ と、どれ というふうに、使い分けがあるとして、その使い分けとはなにか。話者を主体とする、これ それ の、日本語の使い方である。話者の指示する領域で、これ を用いる。話し手と聞き手がいれば、聞き手を話者とする領域があり、話し手からその領域を指示すると、聞き手の話者領域への指示は、それ となる。対話で、話し手が指示する領域にあるものを、これ と言えば、聞き手からは、それ となる。その逆になると、聞き手が指示する領域にあるものを、聞き手が話者となって、これ と言えば、話し手からは、それ となる。話し手、聞き手を、常に自分の側とするものを、これ と言い、相手の側とするものを、それ と指示することである。次いで、話者主体の領域にそれぞれないものを、あれ と言って指示し、それを特定しないものを不定とする、どれ となる。国語で、こそあど言葉とする概念では、話者主体を領域に、近称、中称、遠称、不人称と捉えている。 . . . 本文を読む