いかにも中国語らしい。電子認罪とはテレビで罪を認める、そのままの意味になる。公開法廷でもあってそこでテレビ中継でも行われるかの語感である。これが中国で行われているから、この語があるわけで、その具体的な映像の内容は、自白している様子を映して、テレビで流すことにある。そんなことがあるか、どうやればできるのか、罪は何に対する自白となるか。語を検索して、日経新聞記事にたどり着く。この4月の中外時評にあった。>中国で進化する「真昼の暗黒」 上級論説委員 飯野 克彦 中外時評 4/26 具体例は、中国国営の中央テレビ、CCTVは、中国大陸の禁書を主に扱う香港の銅鑼湾書店の店長だった林栄基氏が、私は中国の法律の条文に違反した、と語る様子を放映したことと、記事は紹介している。これを、>刑事事件の容疑者が裁判を受ける前の段階で「自白」する映像だった。「電視認罪」の典型的なパターン とする。2016年7月6日のこと、記事によれば、さかのぼる2015年以降にカメラの前で自白する、銅鑼湾書店の幹部だった桂民海氏、人権派の女性弁護士として知られた王宇氏、人権擁護のためのNPOを運営していたスウェーデン人のピーター・ダーリン氏の映像があったようである。中国の裁判で有罪者が認める場面の映像は文革の四人組を断罪する姿であったから、政治の局面における扱いで、党の宣伝に目される。 . . . 本文を読む
語源の探求という、語源学を明らかにしたのはエッセイの著者、吉田金彦氏である。語源探求はその研究会の著作名となっていることは日本語論35に紹介をした。語源学は、こうして、よくもわるくも1981年から2008年までの軌跡である。国語学と語源学は、おかしな喩えでいえば、同族嫌悪もっとすすめて忌避しあうようなところがあったので、同様の文献実証を手法にしながら、地理と歴史と国語の三位一体的な研究というキャッチコピーには、文献学、言語学ともう一方にある民俗学がせめぎ合ったようである。語源が明らかになるというのは、戸籍を証明することのように、言葉の一つ一つに住居地番を振ることであると吉田氏は言っておられた。言語学者から国語の語源は格好の議論となって、岩波古語辞典に語源説を編集記載した大野晋氏の学説は証明されないものとなってしまったようである。日本語の語源であるというのは、語誌における語の発生に焦点をおく解説となる状況に変わる。 . . . 本文を読む
梅雨を、つゆと読む。梅雨は漢語でつゆは和語という。それはまた、黴雨とも書くことを、説明する。この季節の命名には歴史の時間に、地理空間がかかわる。つゆは16世紀に節用集に見え、それまでに知られた語に、ツユ、つゆ、梅雨と表記されて伝えられる。17世紀に黴雨と表現する例がある。一方で、歳時記、俳諧に見えて、語としての実感描写となる。すでに11世紀に漢詩に詠まれているから語による季節感はとらえられていただろう。きょうは、時の記念日、かつては時を刻むのは雨また露であるかと、漏刻の起こりを思う。 . . . 本文を読む