接頭語、丁寧な意味を添える、おー 御ー の使い分けである。敬語の分類に美化語と分類され用法もある。その用例をあげてみると、平仮名の語に、お 漢字の語に 御 と使いわけているように見える。それぞれ、平仮名で書く、漢字で書くという原則である。片仮名には使わない。、とすると、表記上の規則も働くようであるが、おジュース、おもちしました おテーブルは3番です などと聞かないこともない。食べ物には、お料理、お弁当、お給仕、お醤油などというし、お賽銭、お給料、お財布、お布施などの、お金の使い方もある。 . . . 本文を読む
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ゼミ学習⑧
2006年06月24日08:34
日本語クイズが出た。
15問のうち4問不正解で、われながら何を間違ったかと
思い半ばに過ぎる、遠慮会釈なく、そして、弱冠、と
いずれも字義通りに解釈して、あとひとつは
弱冠20歳と言うではないか、記憶も戻らないようでは
元服は16歳、12歳もあったりで、果て、かの地では何歳か
タバコも飲酒も法律があるわけでない、選挙権か、納税 . . . 本文を読む
日本語教育用文法を母語話者別に考える。それをもって、日本語文法研究とする。中国語を母語とすると学習者に必要とする日本語文法は何か。そのためには日本語文法をまずとらえるか、話者別に習得の困難点をあげて日本語教育文法の分析をもって学習に役立てるか、そこに議論を集中させると、日本語文法のための日本語教育文法がなければならないとの結論を得る。学習者の日本語運用の文法力にどのような文法を与えるか。日本語にあって中国語にないもの、中国語にあって日本語にないものを文法項目にして一覧する。その各論をおこなうと、問題の解決になる、というふうに、話を進めて、はた、日本語教育文法とは何かと、もとの出発点に戻った。つまり、あってないもの、なくてあるものを、それぞれを対照することができるように、日本語教育文法項目を立てて、中国語文法項目を立てて、それをとらえるために中国語話者の中国語文法、日本語教育用の中国語文法がなければならないわけであるから、それをどのように見ていくが必要となる。 . . . 本文を読む
あるブログが話題になる。がんとの戦いを記録した。ステージ4だから、壮絶なことになった。歌舞伎役者の妻となって5年、二人の子がいる。年端も行かない幼さであるから、母の死は、ブログを読む者にとってつらい思いである。フォローが26万人とか、 . . . 本文を読む
言志耋録四四から 四七まで
(天地の気象)
一息の間断なく、一刻の急忙無し。
則ち是れ天地の気象なり。
(理・気の説)
主宰より之を理と謂い、流行より之を気と謂う。
主宰無ければ流行する能わず。
流行して然る後其の主宰を見る。
二にあらざるなり。学者輒ら分別に過ぎ、支離の病を免れず。
(一旦豁然)
一旦豁然の四字、真に是れ海天出日の景象なり。
認めて参禅頓悟の境と做すこと勿れ。
(心を養う . . . 本文を読む
昔の武士の侍が馬から落ちて落馬して、というのは、はやしことばであったものかと、検索すると、>いにしえの昔の武士の侍が、馬から落ちて落馬して、女の婦人に笑われて、赤い顔して赤面し、家に帰って帰宅して、自分の妻の細君に、遺書を書いて書き置きし、仏の前の仏前で小さな刀の短刀で、腹を切って切腹した。 という、バージョンが紹介されていた。重言、じゅうげん、じゅうごん と言ってきたのは、その出展を示して、>「浄瑠璃『鑓の権三重帷子(やりのごんざかさねかたびら)』(近松門左衛門作、1717年初演)で重言という言葉が使われている。この作品に何度か出てくる「馬から落ちて落馬」というフレーズは有名で、典型的な重言の例として頻繁に言及される。
竜の駒にもけつまづき、馬から落ちて落馬いたしたと、片言やら重言やら
これが現代にも伝わり、「古の昔、武士の侍が―」と頭に挿入される言葉遊びになった。 . . . 本文を読む
>20060623 WC戦
カテゴリ:思い遥かに
4時からの中継試合を観た。
強豪、ブラジルに負けてしまった。
前半ロスタイムでふらりと上がったヘッディング、同点になって、後半は大量失点へとつながる。
あれれ、これでは気抜けしてしまう。
南のほうでは梅雨明けのニュースが流れて、オヤッと、思うと、雨のニュースだ。
車検の仕上がった車を取りに行って、良い天気の中を走った。
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WCブラ . . . 本文を読む
政治における、高官の行政上のやり取りが表ざたになって、収拾がつかなくなっている。つまり、官僚が守秘すべきものを、それは高度な機密事項でも何でもない、部下同士が確認してメモをとするようなものであるが、メモリーがコンピュータとなり、その電子情報の記録となっては、公開するものでないはずのものが共有するという名目で保存され、それを持ち出すことは、脳内言語のやり取りを暴露するようなもので、それこそ、メモが独り歩きをする。ある省の最高事務レベルの担当者が退官後に喋々として自らの責めを負うことなく、省庁の内部を言い立て始めてから、その役所は崩壊を始めている。次々とそのおしゃべりに付き合い始めたからであるが、そこに増幅される文書の持ち出しは政治の道具となって不必要な言葉を重ねて繰り返し検証という名のもとにゆがめられていく。ネット上に飛び交うことばが、それを用いることで実証とするような状況である。 . . . 本文を読む
同音異義語がある、という現象は、言語によって見られる。ことばと意味内容が対応していて、発音形式による違いを一つ一つのことばが表わされることは望ましいことである。しかし、発音と文字にかき分ける組合わせがあると、その言葉をすべて異なる発音形式で書き表わすことが困難であることは容易に想像がつく。
もちろん、言語によって発音を形式とするためにその違いを持たせているが、言語接触が起こると、それぞれの体系に影響して、それを書き表す工夫があることになる。その言語にとっての正書法として確立する。
例えば、漢字は文字が言葉そのものとしてあらわされて、漢字一文字に意味があるので、その数を常用する漢字およそ6000文字に対して発音の区別をもたせているが、そこには漢字数がおよそ5万文字に対しての発音を区別して持たせることになる、
また、英語ではラテン文字26文字を連ねてことばを書き表している。いずれも同音異義語が生じている。
日本語は仮名文字に音韻をもって、発音の別として表わしてイロハ47字を組み合わせている。そこで、漢字など外来語音を入れて仮名文字を工夫して、濁音符、細字にして、発音を書き表そうとしてきている。洋語などの取り入れには、いまも発音の表記としての片仮名文字を用いて音韻とし、拡大50音図を示すことになる。
日本語音韻が母音で構成する開音節、連母音の現象であることから、外来語音をその音韻で書き表そうとしてきたが、おのずと、漢字外来語をその発音のままに、音韻による文字意識の工夫によって、中国語通りに音読みすることができずに日本語発音に直している。この時に、漢字表記があるので意味の違いを知ることができる。
漢字の発音は日本語発音となって慣用的に単純化して同音を生じている。その文字を組み合わせた熟語を表記そのままに、一方で音節構造を変えて発音を日本語化しているので、結果、同音異義語が多く生じてしまっていても、意味内容を捉えるには表記によって、ことばの衝突を起こしても使いわけることができるようになっている。
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本を買ってしまった、しまったというのは、もう買うことがないだろうと、買わない、買うのをやめると言ったような思いが、この3か月であるが、買わないわけではなくて、買ってしまって、しまったというわけである。しかしそうまでして何を買ったのか。駅前のゲートタワ-8fに上がったのが、どうにもならない、御託があるわけでない、ごたごたいうのはさておき、石川九楊全集の1冊を見つけてしまった。手にしたのは、3巻:日本語とはどういう言語か 言語論 である。もう一冊、5巻:漢字がつくった東アジア 東アジア論 が書棚にあった。言語編を購入した。これはいままで、この著作、著者のものに多く親しんだ内容のものであろう。標題の、日本語はどういう言語か、という問いに対して。石川九楊氏のいうところは、それは、日本語とは漢字と平仮名と片仮名という三つの文字を使う、世界に特異な言語である、という一言に始まり、またその一言に終わる。 . . . 本文を読む