今日は(12月22日)朝から大雪になり、あっという間に雪が積もった。まるで雪国にいるような錯覚をしそうだったが、窓を開けると外はしんしんと静かだった。病院の送迎、夕方からの伊丹子ども教室をキャンセルの電話を急ぐ。
午後になり、晴れ間が広がった。電車でピピアめふに行き1月の将棋大会の打ち合わせを終えて、久しぶりに「黙想の家」に行くことにした。
入り口にある「イエスの像」の写真を撮っている人がいて、一緒に並ぶ。「おたくのはスクリーンが広いですね。ちょうどイエス様に雪が積もり、顔に日が差していいですね。滅多に見られませんよ」声をかけられた。
水津さんの「旅の仙人写真館」でイスラエルやヨルダンの風景を見ていて、イエスキリストの雰囲気にひたることが増えたせいか、親近感がある。遺跡を見ていると、クリスチャンでなくとも魅かれるものがあった。
私は神や仏にすがりたいと思ったことはないが、何かに対する畏敬の念はある。
でも、怒り心頭になって、感情的になることもある。幼い頃から、自分の心の中には弱さとともにひどく激しいものも同居していたが(だから幼稚だけれど、いざとなると人や犬にもに噛み付いた)時間と共に冷めてしまうのも早い。
そして、たいてい哀しい気持ちになって、ある種の空ろな気分になる。人間にとって「許す」という行為や思いほど難しいものはない。
「ちょうど青空が見えてきましたねえ」もう1枚だけと思って撮ってみた。
午後になり、晴れ間が広がった。電車でピピアめふに行き1月の将棋大会の打ち合わせを終えて、久しぶりに「黙想の家」に行くことにした。
入り口にある「イエスの像」の写真を撮っている人がいて、一緒に並ぶ。「おたくのはスクリーンが広いですね。ちょうどイエス様に雪が積もり、顔に日が差していいですね。滅多に見られませんよ」声をかけられた。
水津さんの「旅の仙人写真館」でイスラエルやヨルダンの風景を見ていて、イエスキリストの雰囲気にひたることが増えたせいか、親近感がある。遺跡を見ていると、クリスチャンでなくとも魅かれるものがあった。
私は神や仏にすがりたいと思ったことはないが、何かに対する畏敬の念はある。
でも、怒り心頭になって、感情的になることもある。幼い頃から、自分の心の中には弱さとともにひどく激しいものも同居していたが(だから幼稚だけれど、いざとなると人や犬にもに噛み付いた)時間と共に冷めてしまうのも早い。
そして、たいてい哀しい気持ちになって、ある種の空ろな気分になる。人間にとって「許す」という行為や思いほど難しいものはない。
「ちょうど青空が見えてきましたねえ」もう1枚だけと思って撮ってみた。