ぶらっと 水戸

水戸の見て歩き

水戸の酒の話(29)

2024-08-31 21:08:48 | 水戸

佐々宗淳
 佐々宗淳(さっさむねきよ)は、黄門話の助さんのモデルだそうですが、彰考館の総裁になった人で、引退後西山荘に住んだ徳川光圀に仕えたそうです。温厚で細かいことにこだわらない無口な人だったそうですが、酒が好きだったそうです。常陸太田市増井町、正宗寺の墓脇にある、安積澹泊(あさかたんぱく 格さんのモデル)撰文という墓誌には、「善(よ)ク酒ヲ飲ミ家貧シクモ晏如(あんじょ おちついてやすらかなさま)タリ」とあるようです。写真は最近復元されたらしい、「佐佐介三郎宗淳畧伝」と彫られた墓誌です。

 

柴山市次郎拝受の盃(水戸市立博物館 大町3-3-20)
 下金町の商人・柴山市次郎が、7代藩主・治紀(はるとし)から拝領した盃だそうです。この文化7年(1810)に柴山は、3回も水戸城にのぼり、治紀に拝謁しているそうです。その3回目に盃を、大廊下で酒飯を賜わったそうです。その際に、御目見得格(おめみえかく)になったそうですので、よほどの献金をしたのでしょう。盃や酒飯で、大金が入るのですから藩にとってはありがたかったでしょうが、大赤字の藩財政にとっては大海の一滴だったことでしょう。写真は水戸市立博物館で見た、拝領した三つ重ねの盃の一つです。

 

にごり酒、四分一
 水戸では江戸時代、にごり酒がそうとう飲まれていたようです。濁り酒屋が処々にあったそうで、濁り酒に清酒を加えたものを四分一(清酒が1/4ということなのでしょう)といったそうです。小宮山楓軒の父は、友とともに飲むのはかならず四分一だったそうです。生活の苦しかった水戸の酒好き武士にとっては、にごり酒は必需品だったのでしょうか。「風軒偶記」にありました。

 

寺への年始
 以前は正月にお寺へは檀家が一軒残らず年始の挨拶に行ったそうです。1日から3日までおこなわれたそうで、寺では樽を準備して、年酒として檀家に振る舞ったそうです。「生酔(なまよい)の礼者を見れば大道を. 横筋違(よこすじかい)に春は来にけり」(太田蜀山人狂歌、酔っ払った年始客が道を斜めに歩いている様子のようです)といった景色が見られたことでしょう。今あったらいいのにと思うのは年寄りだけでしょうか。

 

ときわ路ほろよい号(水戸市民会館 泉町1-7-1)
 JR東日本による地酒列車がここ数年、毎年おこなわれているようです。写真は今年の3月に行われた、「ときわ路ほろよい号」のヘッドマークだそうです。水戸-土浦間を走ったそうで、ヘッドマークの中には、土浦の蓮根や、水戸の梅が描かれているようです。ほろよい号の名称は、絶対に過小表示だったでしょうが…。水戸市民会館で開催されたJR東日本水戸支社のイベントで見ました。

水戸の酒の話(28)

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水戸の本堂前に何かある寺社(4)

2024-08-30 21:31:55 | 水戸

  寺社の正面に樹木や大石などがある寺社は多いようです。自然物が多いので、自然崇拝との関係もあるのかも知れませんが、大事な神仏を正面で守るという、守護的な意味合いもあったのではないかとも思われます。ご紹介する中には神社もありますので、本堂という表現はまずいと思うのですが、お許しください。

 

長福寺(塩崎町1135)
 本堂の正面には、大石とコケを配した石庭があります。右斜めに行く参道は山門に通じています。この写真は、鐘楼にのぼって撮りました。

 

八幡神社(高田町440)
 この神社では鳥居と杉と神社が一直線になって見えます。この様子はみごとです。水戸では数少ない八幡神社の一つです。

 

吉田神社(開江499)
 拝殿の前には樹齢300年というサカキをはじめ何本かの木が茂っていて、さらにその前には遷座記念碑が建っていて、参道からはよく拝殿が見えません。遷座記念碑は、常磐自動車道建設に伴い、社殿が境内奥に移ったために建てられたようです。

 

厳島神社(木葉下)
 この神社の前には、子安観音の石像や樹木、神社お札などがありました。この厳島神社は、江ノ島から勧請され、市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)を祀っているそうです。

 

桂岸寺(松本町13-19)
 桜は少し右に寄っているようで、桂岸寺では、参道中央にある固定された車止めが正面のようでした。結解の表示であるともいえるような気もしますが…。

水戸の本堂前に何かある寺社(3)

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水戸の体験施設(2)

2024-08-29 21:24:01 | 水戸

踏切非常ボタン体験(千波公園 千波町)
 去年千波公園でおこなわれていた、ちびっ子広場というイベントで、踏切非常ボタンを押す体験ができるようでした。子供たちにとっては、日頃の疑問がわかって面白いだろうなと思いました。(撮影23/5/21)

 


トゥクトゥク乗車体験(茨城県庁 笠原町978-6)
 去年行われた、体験王国いばらきという、県の大きなイベントの一環らしい、県庁プレイパークが去年11月にありました。その中で、原動機付三輪自動車トゥクトゥクの体験乗車をやっていました。(撮影23/11/4)

 

クレーン車操作(茨城県立歴史館 緑町2-1-15)
 6月にあった茨城県立歴史館の歴史館まつりで、子供たちにクレーン車のクレーン操作体験をしてもらうという企画がおこなわれていました。最近、こうした子供に将来の仕事につながりそうな体験をしてもらうというイベントをよく見るような気がします。(撮影24/6/1)

 

土石流体験(水戸地方気象台 金町1-4-6)
 車内で立体映像と、音や椅子をゆらして実際に近い体験をさせるという装置でした。7月におこなわれた、水戸地方気象台お天気フェア2024で見ました。(撮影24/7/27)

 

福祉体験サポーターズ(水戸市役所 中央1-4-1)
 水戸市役所内に展示された、ボランティアパネル展に、福祉体験サポーターズという団体の紹介パネルがありました。学校や地域で、車いす体験、アイマスク白杖体験、高齢者疑似体験の指導をする団体のようです。私も以前どこかで体験したことがありますが、足などに重りを付けた高齢者疑似体験は、特に印象に残っています。(撮影24/7/10)

水戸の体験施設(1)

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水戸市植物公園薬草園の植物(3)

2024-08-28 21:32:12 | 水戸

サンザシ(山査子)
 バラ科 江戸時代に中国から小石川植物園に移された薬用植物で、中国名が山樝(さんざ)なので、それが和名に使われたようです。完熟しない赤い実を乾燥させて使うそうです。消化や下痢止めに効能があるようです。(撮影R6/5/4)

 

ムラサキ(紫)
 ムラサキ科 名前は、「群れて咲く」からとも、根が紫色だからともいわれているそうです。太い根を乾燥させると暗紫色になり、抗炎症作用や殺菌作用がある、紫根(しこん)という生薬になるそうです。(撮影R6/6/1)

 

コガネバナ(黄金花)
 シソ科 花は紫色ですが、根の断面が黄色なので、コガネバナというそうです。徳川吉宗時代に小石川植物園に朝鮮からもたらされたそうです。タツナミソウの仲間(タツナミソウ属)で、写真のように、花は似た形をしているようです。皮をむいて乾燥させた根を黄芩(おうごん)といい、胆汁分泌促進や利尿などの効能があるそうです。(撮影R6/6/29)

 

タンジン(丹参)
 シソ科 中国原産の、生薬として使われる植物で、「丹」は朱色、「参」は薬用人参の根の意味だそうです。根が、鎮痛、血液浄化の薬として使われるそうです。アキギリの仲間(アキギリ属)だそうです。(撮影R6/6/29)

 

ホソバオケラ(細葉朮)
 キク科 古語でオケラをいうウケラからきたそうです。蓑(みの)のことをウケラといったようで、それからの連想でついた名前のようです。ホソバオケラやシナオケラの根茎を蒼朮(そうじゅつ)といって、鎮静、利尿などの生薬として使われたようです。正月の屠蘇にも入っているそうです。(撮影R4/10/1)

水戸市植物公園薬草園の植物(2)

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水戸藩主・徳川斉昭の話あれこれ(20)

2024-08-27 21:41:04 | 水戸

 天保7年(1836)正月、徳川斉昭は、江戸城での年頭儀礼に参加しないばかりか、3が日が過ぎても姿を見せないので、執政が挨拶に行くと、隠居したいが、もしお前たちが前非を認め改革の申請に協力するなら考え直すと、財政改革案の承認を命じたそうです。これは、藤田東湖の書翰によって、藤田の仕組んだものだったことが分かるそうです。上の写真は、水戸市立博物館で見た晩年の斉昭像だそうです。何枚かある同様の構図による肖像の一つだそうです。

 

 斉昭は、謹慎解除となった弘化2年(1845)に、明訓一班抄を老中・阿部正弘に贈ったそうです。7条からなる、君主の心得を説いた書で、仁政を旨とし、言路を開き、攘夷を励行すべきであるなどといったことが書かれているそうです。阿部は将軍・家慶に献じたそうです。明訓は明君の意味をかけているのでしょうか。

 

 斉昭は、ペリー来航(嘉永6年(1853))への対応策を、藤田東湖に書翰で送っているそうです。それには、仕掛けをした屋敷に入れてしまえば焼き殺せるのではないかとか、江戸城内の大広間で上官らに酒をたっぷりと飲ませて頭をはね-、などといった過激なことを書いているそうです。

 

 攘夷派の斉昭は、蘭学などの洋学に関して、自身たいへん興味を持って調べたり、限られた人たちが研究などすることには寛容だったようです。ただ、豊田天功弘道館での蘭学授業を提案したときなどは、もってのほかのことと却下したそうです。西洋の思想、知識が一般に広がることをよしとしなかったようです。

 

 病気であることを知ると、自藩士ばかりでなく他藩士にまで見舞い状をだし、それに添えて薬を送ったりもしたそうです。勘定奉行の川瀬七郎衛門が、舌にでき物ができる、舌疽(ぜっそ)にかかったときには、難病だが藩医・本間玄調に診てもらうように、治療費は用立てる、と見舞い状に書いているそうです。舌ガンだったのかも知れませんが、川瀬は手遅れだったようで死亡したそうです。

水戸藩主・徳川斉昭の話あれこれ(19)

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