ぶらっと 水戸

水戸の見て歩き

水戸のアートタワーいろいろ

2024-11-30 21:44:22 | 水戸


  アートタワーはそうとう奇抜な形なので、それを形にしようという試みはたくさんあるようです。ぶらっと歩きで気がついた、そうしたものを選んでみました。

 

水戸駅北口イルミネーション(三の丸1-1)
 北口芝生広場のイルミネーションに、今年はアートタワーが加わったようです。自らは光っていないようですが、周囲の光を反射して輝いているようでした。写真右側はネオンのみとちゃんです。

 

厚紙折紙(アートタワー1F 五軒町 1-6-8)
 アートタワーに登る1Fに、アートタワーの無料折紙がありました。老化のせいのようで、苦心惨憺して折ってみましたが、なんとか形だけにはなったようです。ご報告までに写真を撮ってみましたが、ご興味があったらチャレンジしてみてください。

 

大塚製作所製造見本(リリーアリーナMITO 水府町864-6)
 大塚製作所(谷津町字細田1-64)が、自社の製造見本という意味なのでしょう、金属製のアートタワーを、先日開催された水戸市産業祭に展示していました。

 

模型(水戸芸術館1F 五軒町 1-6-8)
 サザコーヒーの脇にありました。中の骨組みが見える、半透明なパネルが表面にはられているようです。実物の中心には、エレベーターが上下する円筒があるようです。

 

スネークキューブ(水戸芸術館 五軒町 1-6-8)
 令和4年に開催された中崎透展に展示されていたアートタワーです。解説には、「家にあった懐かしいおもちゃ、スネークキューブを水戸芸のタワー風にくねくねっとしてみた。よく見ると全然違う。」とありました。

水戸のアートタワーが見える場所(7)

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水戸の商人

2024-11-29 21:32:46 | 水戸

 

道明作兵衛
 江戸初期に紀州から水戸に来て、本1町目に井筒屋という酒屋を開き、寛文年間(1661-73)に大きくなり、醸造高3000石という酒蔵になったそうです。正月8日におこなわれた田町(本町)の初市開きでは、「作兵衛の五色の吹き流しが立てられたぞ!エンヤラヤ!」という合図で市が始められたそうです。東照宮の吹き流しも、道明ひとりで奉納していたそうです。備前堀対岸の紺屋町先にあった田へ行くためにつくった橋が、道明橋という名前で、今にその名を残しているようです。その後、道明は、衰退して紀州に戻ったそうです。写真は備前堀にかかる道明橋です。

 

高野惣兵衛之茂
 水戸下市・本七町目で酒造業を営んでいたそうです。御目見得格(おめみえかく 藩主への謁見がゆるされる家格)で、藩主が水戸に来る際には七軒町の木戸際に並んで出迎えることのできる家柄だったそうです。長男は林家の養子となった画家の林十江で、次男が家を継いだそうです。俳名は悟井で、俳僧・遅月の弟子だったそうで、遅月が瓦谷に瓦隣居(がりんきょ)と号して住んだときはそれを支えたそうです。

 

大高織衛門守善
 木葉下の庄屋大高清左衛門の弟が、元禄時代に水戸城下に出て呉服太物商を営み、3代目が天明3年(1783)に庄屋になったそうです。6代目守善は御目見得格になり、呉服太物の本業の外に、弘道館の医薬館が精製した紫雪などの薬種などを一手販売したり、茶を好み宍戸(ししど)藩主命名による延年楼という茶室を建てたそうです。また、斉昭の追鳥狩にも参加したそうです。神力宇賀大妙神稲荷(末広町2-1-40)は、屋敷内に7代守之が建てたものだそうです。写真は東日本大震災で立入禁止になっている神力宇賀大明神稲荷です。

 

塙載(はなわとし)
 寛永2年(1625)に、大町から金町に移ったとき、藩主から土地をもらった2人の商人の内の一人だったそうです。代々、呉服商を営み、町年寄だったそうです。幕末の戴は父とともに松平頼徳勢に加わったりしたそうです。戴は息子の七平に早く代を譲り、隠居して能楽に打ち込んだり、茶の水戸何陋会2代目会長になったり、水戸鉄道敷設に参加したりしたそうです。

 

富田彦市
 富田屋は、江戸初期に大町から上金町に移った商人で、塩などの問屋だったそうです。明治の富田彦市は、明治8年にハカリや枡などの衡器を扱う専門店となったりして急拡大したそうです。明治20年代に泉町の酒屋伊勢富の屋敷2万坪を買収して富田新地という飲食店街や寄席をつくって水雷稲荷を勧請したり、釜神町に富田公園といわれた別荘(現在の県営釜神町アパートの地)をつくったりしたそうです。

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水戸のロゴマーク(8)

2024-11-28 21:40:03 | 水戸

 

ケアレジデンス水戸新館(大塚町1741)
 北水会がたちあげた介護付有料老人ホームで、2番目の施設のようです。1番目は昭和59年に大塚町1661に、この新館は平成4年に開設したそうです。ロゴマークはケアレジデンス共通のようですが、梅の花を、ハートのような形にデザインしているようです。

 

ホテル サトー(南町3-4-50)
 上市中央部の芸術館道路に面したビジネスホテルのようです。最近は、コロナの後遺症もなくなってきていることでしょう。Sの字をマークにしたようです。

 

モダン懐石とワイン とう粋庵(千波町2755-1)
 和風にあまりこだわらない懐石料理の食べ方をうたった店のようです。予約すれば黄門料理も楽しめるようです。ロゴマークは、屋号がかごやというようなので、籠をデザインしたのでしょうか、それとも、千波湖の水紋なのでしょうか。

 

水戸衡器製作所(北見町7-336-2)
 はかり・計量器の総合卸販売会社だそうです。写真は北見町のメンテナンスオフィスのようで、本社は大町3-2-38のようです。ロゴマークはかつての両天秤をつかったようです。昔、中学校の化学の実験で、何かの粉を量ったときに、似たようなものを使ったような気がする懐かしい器具の絵柄です。

 

ミルスタ(宮町1-1-1 水戸駅ビル エクセル 2F)
 茨城県産の牛乳や乳製品が飲んだり購入できるスタンドだそうです。平成22年に開店したそうですから、すでに13年続いているようです。駅利用者などになじんだ店なのでしょう。茨城県牛乳普及協会が運営しているそうです。ほのぼのとしたロゴマークのようです。

水戸のロゴマーク(7)

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水戸の寺にある宗祖像(4)

2024-11-27 21:43:45 | 水戸

 

空海(神崎寺(かみさきじ) 天王町8-17)
 錫杖(しゃくじょう)や数珠、托鉢(たくはつ)の椀を持った、修業大師像だそうです。神崎寺は、真言宗豊山派の寺だそうです。県指定文化財の長承2年(1133)の年号がある焼けた銅製経筒徳川光圀の書がある青銅釣灯籠や、境内に俳句僧・遅月(ちげつ)の碑があったりするそうです。写真で傘から垂れているのはつららです。

 

親鸞(善重寺 酒門町2096-2)
 真宗大谷派で、創建は善念、二十四輩(にじゅうしはい)寺院の十二番目の寺だそうです。寺には、覚如、蓮如の来訪伝説があるそうです。「寛文の善重寺坂戸(酒門)中興」といって、光圀によって現在地へ移転されたそうです。国の重要文化財・聖徳太子像でも有名だそうです。

 

親鸞(報仏寺 河和田町887)
 報仏寺は、歎異抄を書いた唯円が開いた寺だそうで、光圀によって復興されたそうです。唯円は北条平次郎則義で、妻を疑って斬り殺したそうですが、妻は平然としていて、親鸞から与えられた「帰命尽十方旡碍光如来(きみようじんじつぽうむげこうによらい)」の十字名号札が切られていたそうです。それを見て、平次郎は親鸞に帰依したという伝説があるそうです。

 

道元(安国寺 大足町 1184-1)
 安国寺は曹洞宗の寺だそうです。像は若き日の道元だそうで、暑い中で汗を流しながらシイタケを干す老いた典座(てんぞ 禅宗で食事に携わる役職)に理由を聞くと、修業であることや、早く干すとおいしいだしになるとの答えを聞いて、後にそれを典座教訓に記したそうです。写真は、その様子をあらわす像のようです。

 

日蓮(感応寺 千波町1667-15)
 感応寺は日蓮宗のようです。日蓮の銅像は、写真のように経巻を持つものと、合掌するものがあるようです。

水戸の寺にある宗祖像(3)

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水戸で詠まれた北原白秋の歌

2024-11-26 21:39:53 | 水戸


 北原白秋は水戸市歌の依頼を受けて昭和10年に水戸を訪問し、偕楽園等各所を巡って構想をねるとともに、歌も詠んだそうです。白秋没後の昭和18年に出版された「渓流唱」の中にある「水戸頌」がそれだそうです。「昭和十年二月、市歌作成のため水戸に赴く、即ちこの数聯成る」というただし書きがあるそうです。その中のいくつかをご紹介します。
 これより前、市会では「一体この白秋とは文壇上どの地位にいる人か、白秋はこの水戸市に、さらに水戸学にどれだけ交渉のあった人だったのか。新聞にはにわか造りの水戸通になるために徹宵水戸市を駆歩いたと報道している。…眉つば物だと私は信ずる」などといった議論がおこなわれたそうです。それを聞いたであろう白秋は不愉快だったのでしょう、その時もらった制作費を水戸で払いきって飲んでしまい、大荒れしたそうです。もっとも歌とトラブルは別のようです。

 

水戸弘道館
 梅おほ(多)き ここの月夜の うら庭は ひとり明らかに 歩を移すべし
 (弘道館は、昭和20年の戦災に耐えて、上市で残った希少な文化財で、徳川斉昭の代表的遺跡なのでしょう。)

 

志士墓地(常磐共有墓地)
 月あかり 杉の一樹に くだりゐて 東湖先生の 墓どころここは
 (斉昭の改革をを支えた藤田東湖の墓です。写真上部の「表誠之碑」という題字は、斉昭の筆だそうです。)

 

清香亭から見た千波湖
 千波沼 ひろき明りの 上にゐて 国思ふ心 今朝ももちつぐ
 (清香亭は、かつてあった偕楽園直近の料亭で、伊藤博文も歓を尽くしたこともあったそうです。千波湖は、千波沼とも言われていたようです。写真は夕暮れの千波湖です。)

 

好文亭楽寿楼
 円刈(まるがり)の 幾むら躑躅(つつじ) 春あさし 早や開(あ)けはなつ 楽寿楼見ゆ
 (好文亭の3Fを楽寿楼というようです。俯瞰して見えるツツジの大樹の満開は、水戸を代表する絶景といっていいでしょう。)

 

好文亭梅の間
 梅の間よ 今は眺めて しづかなり 一際(ひときわ)にしろ(白)き 梅の花見ゆ
 (明治維新後に、斉昭の正妻・吉子が数年間住まいした部屋だそうです。現在の梅の絵は、昭和33年に好文亭が復元された際に、須田珙中が描いたものだそうです。)

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