W A K I の気ままなトンボの目

自分流の勝手な生き方ですが、何か気付いたことを書いてみます。
コメントはタイトルをクリックしてどうぞ。

被爆国の願い 「かの国は核の脅威を振りかざし」

2005年08月06日 | 歴史
この彫刻の像は先刻紹介の「こもれび水路」の傍らにあって何となくWAKIは好きで安らぎを覚える、幸いいたずらをする人もなく雨の日も風の日もこうしてたたずんでいる。銅版に刻まれた文字で枚方市の住民の思いが伝わってくる。今日は広島に原子爆弾が落とされて60年目の日だ、WAKIは子供たちが社会科でヒロシマのことを習う頃に家族で広島に行って原爆資料館の展示や説明をみて感動を覚えた、世界中の人にぜひ見て欲しいと思う、きょうは心から犠牲になられた方々に不戦の誓いをしようと思う。

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枚方中宮平和ロード 「大陸へ続いた路を断ち切って」

2005年08月04日 | 歴史
 WAKI の住んでる町は第2次世界大戦が終わるまでは、陸軍工廠として弾薬を製造していた場所である。ここで製造された弾薬は遠く東南アジア各国で消費( ? )されて多くの人々を危険に陥れた。また、昭和14年3月には枚方製造所の弾薬庫が大爆発を起こし、1週間にわたって燃え続け大阪市内からも遠望できたそうだが新聞には一切載らなかった。戦後再び弾薬庫にとの動きもあったが、住民がたちあがってこれを阻止し団地が誕生した経緯がある。この道路は当時の弾薬を積み出す線路の跡地を枚方市が「中宮平和ロード」として永久に残すために作ったものである。ここには、当時の電柱、弾薬を運んだ機関車のモニュメント、陸軍用地の石柱、少し離れたところには、土塁の連絡通路なども保存されて、市民の不戦の誓いの象徴となっている。

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激戦地60年 「沖縄も永久(とわ)の平和を誓ってる」

2005年06月24日 | 歴史
 きのうは沖縄の「慰霊の日」にあわせて「沖縄全戦没者追悼式」が平和の礎(いしじ)のある糸満市摩文仁(まぶに)の平和記念公園で行われた。太平洋戦争で唯一、一般住民が地上戦を体験した沖縄県は一般住民約94,000人を含む20万人余の犠牲者を出したといわれている。23万9801人の戦没者全ての方の名前が刻まれた平和の礎は4年前WAKIたちも訪れてその犠牲者の多さに圧倒された。
この画面は追悼式の実況のTVニュースだがよーくご覧いただきたい。詩を朗読の少年と激戦のなかを耐え抜いたおばあさんが映っている。WAKIはもうこれ以上言うことはない。

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北の零年 「サユリちゃんお年を召して111」

2005年06月18日 | 歴史
 地元の市民会館でやっと見ることができた「北の零年」、WAKIは「長崎ぶらぶら節」以来の吉永小百合映画の鑑賞でした。
冒頭淡路の人形浄瑠璃の場面、太棹の音、淡路の伯母の家が浄瑠璃の稽古場であったので懐かしい想いがした。なかなかの大作で愛とロマンそれに壮大な北の大地、WAKIの先祖にもこの血が流れているのかも知れない、吉永小百合さんが武士の妻として凛として役を演じ、また、馬を乗りこなす場面などすばらしく、これが111作目だとか。
 
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歴史街道 「鍵やには昔の地図が生きている」

2005年05月12日 | 歴史
ここは京阪枚方公園駅、もう一方の駅前広場も整備されて立派に生まれ変わった。すぐ近くには市立歴史資料館「鍵屋」があり、枚方市駅へ続く道は歴史街道として整備が進み昔の家並みが復元保存されている。その昔紀州の殿様は、参勤交代の際総勢3,000人を従えこの宿場に泊まったという、大名行列はさぞかし立派であったことだろう。また、すぐ近くの淀川は京と大阪を結ぶ水運が盛んで歴史に名をとどめている。
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戦  後 「したたかに生きるすべを身に付ける」

2005年04月29日 | 歴史
WAKIの戦時体験(第8回)「戦 後」

手に入れたチューインガムが美味かった
僕たちはユニセフ物資で助かった
大豆粕ヤシ粉に粉乳常食に
とりあえず教科書だけは古いまま
教科書の困るところは墨で塗り
軍神と呼ばれた人が捕らえられ
貨幣価値みるみる下がりインフレに
通貨には証紙を張って物が買え
電車バス人がいっぱいぶら下がり
誰もかも二合五勺で耐え忍び
闇市は何でも欲しいものがあり

 雑 詠
鮮明に覚えているよ4年生
あの頃の軍歌はかなり知っている
僕の父兵役逃れ生き延びた
子を守る親の判断ただ感謝
           
              完

戦時川柳100句、最後まで読んでいただいてただただ感謝です。掲載の写真は小学校の卒業写真、(肖像権のこともあるがあえて掲載)WAKIもこのなかにいる、これだけ大勢の生徒を、先生もそれはたいへんな苦労をされたと思う。まえに掲載の水族館への遠足の写真(一年生)が最後で戦時中の写真は一枚も無い、やっとこの写真がこの後を受け継いでいくことになる、その空間をこの川柳が埋めてくれたとWAKIは思っている。
(お詫び、「校門の踏み絵はチャーチルトルーマン」と詠みましたが当時はトルーマンではなくルーズベルトでした。)



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韓国の歴史ドラマ 「宮廷の建物どれもきらびやか」

2005年04月23日 | 歴史
いまは韓流ブーム、ご多分にもれず我が家もTVはこれが主流。WAKIは一つだけ必ず見ている、それは「宮廷女官・チャングムの誓い」だ、これは実に見ごたえのあるドラマで、時代は16世紀初頭、朝鮮王朝の宮廷が舞台だ、おととい27回にわたる前編が終わり、これから後編がはじまる、楽しみだ。

WAKIは2001年にソウルに行ったとき、2人だけでソウルの北にある景福宮(キョンポックン)を見て歩いた、韓国は国をあげてこの地域を400年前の姿に復元し今も復元の作業は続いている。このドラマはまさにここが舞台だ。しかし、大半の撮影はMBC楊州(ヤンジュ)スタジオで行われていまはチャングムワールドとして見学ができチャングムフアン必見の地だ。ソウルにはこのほか昌徳宮(チャンドックン)徳寿宮(トクスクン)といった歴史的建造物がある。(写真は景福宮の中の慶会桜・迎賓館の宴会場・WAKIが撮影)

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戦争は終わった 「何もかも無くて戦争終わり告げ」

2005年04月21日 | 歴史
戦況はますます悪くなり、誰の目にも疲弊感が見えてきて、後は本土決戦かというような状況になってきた。そんな暑い夏、重大な放送があるという知らせが入り、老若男女みんながラジオの前に集まった。


WAKIの戦時体験(第7回)「敗 戦」

唯一のラジオを囲み玉音を
その場では子供に意味がわからない
玉音のあとはサイレン聞いてない
きのうまで竹槍作りやってたが
それまでは撃ちてし止まむ合言葉
黒幕の電気の傘を取り外す
電球がまぶしく部屋を照らしてる
やれやれと空襲ない夜かみしめる
戦争は負けたこの先どうなるの
もとの家瓦礫と化して草が生え
駐留の米兵見ては腰抜かす
装備見てこれでは勝てるはずが無い
そのうちに友の父さん帰還する
焼け跡に焼けたトタンの家が建ち

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妙見山のエントツ 「エントツは平和な町を60年」

2005年04月20日 | 歴史
この風景は我が家から遠望できる妙見山(標高77m)、WAKIが勝手に付けた名前は「エントツ山」だ、昔この辺りは陸軍工廠、香里弾薬庫があってこのエントツは唯一の当時の名残でいまは「不戦の誓い平和のシンボル」として市が保存している。作られたのは1939年(昭和14年)頃、煙突の高さは20m下の方の直径2m、当時日本最大の規模、砲弾に使用される火薬は湿気をきらい、下に繋がる煙道は多くの火薬の乾燥のために用いられたと言う、今も残るエントツの鉄の角(つの)は、当時飛行機からの攻撃をカムフラージュするための草や木を引掛けるためのものだったが幸か不幸か攻撃は全くなかったそうだ。そしてここの火薬は近くの禁野というところで砲弾に加工されたが、同年(昭和14年3月)にはこの禁野火薬庫が大爆発を起こし、大阪からも遠望できたと言う、もちろん報道管制が敷かれて新聞にも載らなかったという、これらの砲弾がどこに送られて消費されたのかはWAKIは知らない。
隣接の水タンクは一日7,000トンの水道水を団地に供給している。淀川から取水されて浄水場を経たタンクの水は毎日2~3回入れ替わるそうだ。
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無差別爆撃「これほどの酷さは見るに耐えられぬ」

2005年04月15日 | 歴史
ついに恐れていた空襲が突然やってきた。それはあまりにも大規模で想像を絶するものであった。空襲の翌々日父の特命を受けたWAKIと兄の二人は堺市の伯母の家に向かって、いまの堺東駅から出島まで焼け跡を歩き続けた。


WAKIの戦時体験(第6回)「焦土・焼け跡」
    
翌朝はやっぱり黒い雨が降り
空襲で堺全市が灰になり
被災した総数実に2万軒
やってきたB29は110機
親戚の家はどこかとたずね行く
そこかしこ火のこり異臭鼻をつく
あちこちに倒れた人が焼け焦げて
むごいこと母子の遺体川原に
手も足も無い亡骸が川原に
親戚の家は全焼人は無事
土居川の川原に積んだ家財だけ
恐ろしや頭かすめた焼夷弾
焼け跡は元気でいますと札が立ち
ピカドンの噂は子供も知っていた


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