昨日は結構風も強く寒い一日であった。このところの運動不足解消のため京阪の駅までウオーキング、並木道はすっかり落葉して太陽がまぶしい、住宅街にはいるとあちこちの庭に蝋梅の花が咲いている、まるで蝋細工のようにすき通って美しい、花のない今の時期この花のお蔭で心豊かにさせてくれる。春が待ち遠しい。
きょうはゴミ出しの日、これはハシブトカラス団地内にたくさん生息している。Wakiが近づいてもマヨネーズの容器に夢中になっている、どうやら容器にへばりついているマヨネーズの残りを食べたいらしい、最初見つけた時は容器の首のあたりを足で押さえて嘴を突っ込もうとするが小さな穴には嘴が大きすぎて入らない。Wakiはイソップの寓話を思い出した、Wakiが知っているのは喉が渇いたカラスが小石を入れて水面を上に上げて水を飲んだと言う話だ。残念ながらここのカラスはあきらめたようであった。
ここはいつも買物をする店の駐車場、寒空にテーブルを広げてキャンペーンをしている、チキンラーメンの試食会だ、食いしん坊のWakiは早速いただいた、昔懐かしい味がする。つられて一袋買ったが5食で298円だ。チキンラーメンの歴史は古い1958年に池田市で安藤百福さんがはじめて考案し世に出した、さらに万博後の1971年にカップヌードルが誕生大ヒットとなり今日では日清食品のカップ麺などの商品が225種類もあるそうだ。Wakiが社会人となった頃、同期で大卒のMさんの同級生が当時創業したばかりの日清食品に入社し毎日鶏がらスープ作りで新製品の開発に苦労したと言う話を聞いたことがある。企業がこうしてキャンペーンをやってブラッシュアップするのもさすがに老舗の所以だと思う。
先日Wakiの伯父が98歳で天寿を全うした。末っ子の伯父には子供がなく伯母と二人暮らし、したがって8人兄姉の長兄の子供であるWakiが葬儀を取り仕切ることになった。そんな訳でトンボの目は暫くお休みをいただいた。伯父は淡路島洲本市出身。幼い頃はこの風光明媚な三熊山にも登って町を見下ろしたことと思う。大阪では丁稚奉公から商売を始めたが応召で中国の前線に送られたが無事に帰還、戦後は胃潰瘍で胃を全摘している。リタイア後の健康法は毎日の住吉公園までのマラソンと一番風呂であった。ときどき購読の新聞の投書欄に自分の戦時体験等を投稿していたが悠々自適の晩年であった。Wakiが疎開から帰ってすぐ隣に住んでいたころは商店街も活気にあふれていたが今はシャッターの閉まった寂れた街になってしまった、けれどもご近所の方々が家族のように親身になって見て下さり葬儀もたくさんの方が見送ってくださって感謝している。西国巡礼時の装束の伯父はおだやかでいい顔をしていた。合掌。
間寛平さんが世界のだれもが成しえなかったアースマラソンを完走昨夕大阪に無事ゴールした。極寒と酷暑の大地を走り抜き慣れぬヨットで荒海を乗り越えたその様子は毎日Blogで克明に報じられて世界中に伝えられた。Wakiはこれを見るのが日課になってしまった、おかげで手に取るように殆んどリアルタイムに道中の様子を見ることができた。大阪城音楽堂の歓迎集会にはあのアメマのおっさんも来ていたのには驚いたが世界中の人達の人間性にふれさせていただいた感動の2年間であった。寛平さん、奥さんの光代さんはじめこの偉業を支えたスタッフの皆さん本当にごくろうさまでした。
(WAKIのトンボの目都合でしばらくお休みをいただきます。ご了承ください。)
(WAKIのトンボの目都合でしばらくお休みをいただきます。ご了承ください。)
ここは古都奈良の玄関口「JR奈良駅」いろいろお世話になった先輩の墓参でしばらく振りに訪れた。前に見たときはうしろのクラッシックな駅舎がそのままコロに乗せられて移動中だったから随分前の話だ。中は案内所になっていて歴史と観光の都にふさわしい建物に生まれ変わっていた、一方改札口やホームは高架で二階建てになり近代的な作りになってさいごの工事が進められている。通りに面した向かい側はまだ手つかずで以前のままであったがやってきたバスは古都にふさわしいレトロなバスであった。そこで思い起こすのはJR京都駅とJR大阪駅、京都駅はモダンすぎて京都らしくないし、大阪駅も改装中だが人が多すぎてゆとりがない、その点JR奈良駅は考えさせてくれる何かがある。
今年のように冬が寒いと無性に食べたくなるのがキムチ、と言って沢山買ってきても保存しておくとすぐに変質して味を損なってしまう、その点このキムチは50gづつに小分けしてあって便利にできていて発酵の具合も食べごろで味がいい、食べ切りだからこのまま冷蔵庫で保存も効いて匂いも移らない優れものだ。かつてWAKIは韓国で覚えてきたキムチを冬になるとプラスチックの樽に漬けて親戚や友人に配ったが今はその気力も失って食べる方に回っている、材料は韓国の粗挽き唐辛子にニンニク、あみ塩辛、生のイカにだしじゃこ、セリにネギ、生姜に松の実、それに塩と砂糖そして白菜に大根と多彩だ。一旦水抜きのために漬けて本漬けのあと待つこと一週間、発酵は今年のように寒いと最適だが、これが実に旨い。韓国パワーの源は何と言ってもこのキムチだ。
パソコン同好会のTさんが所属しておられる写真クラブは大和郡山市で活動しておられる、会の名称は「健やか写真クラブ」写真展は今回で3回目。大和郡山城ホールであったので新年会の帰りに行ってきた。この写真クラブは指導の先生をはじめいずれも第一線をリタイアされたかその奥さんでTさんもご夫婦で参加されてめきめきとその腕前を挙げられている。会員総数50名近く丁度男女半々こんな写真クラブも珍しい、今回の出展数は全部で100点近くさぞかし撮影会も賑やかで楽しいことと思われる、そしてこの会を主宰されているのが奇遇にもNさん、Wakiがリタイア後にいろいろお世話になった方でこの方もご夫婦で出展されている。また、習字の仲間のOさんとNさんは郡山の環境ボランティアで活動された方で世間は狭いなあと感じた次第。写真は皆さんあまり背伸びもせずわかりやすい生き生きと健やかさ伝わってくる力作が揃ってお上手であった。
おとといはこの冬一番の寒さを記録した。このところ連日日本海側は雪、それが南下して大阪や奈良もひょっとすると雪が降るかもと天気予報のお嬢さんはまことしとやかに解説するが幸か不幸か大阪は滅多に降らない。こう言うWakiはひそかに雪の降るのを待ち焦がれている、それは写真を撮りたいからだ、豪雪地帯の人には叱られるかもしれないが、申し訳ないが純白の雪景色に魅力を感じているからだ、この日朝起きたとき洗面所の水は7℃室温は14℃でこの冬最低を記録し、ベランダの小さなビオトープには厚さ1.5㎝の氷が張った。外へ出るといつものサクラの木にはおよそ30羽の雀の群れが体をボールのように膨らませてとまっていた。
1月17日が巡りくるたびにあの日のことを思いだす。亡くなった方が6,434名、行方不明者が3名、負傷者が43,792名というとてつもない人数で避難人数が30万名以上、住家被害全壊104,906棟、半壊144,274棟、全半壊合計249,180棟(約46万世帯)、一部損壊390,506棟さらに火災被害、住家全焼6,148棟全焼損(非住家・住家共)合計7,483棟、罹災世帯9,017世帯さらにその他被害道路10,069箇所、橋梁320箇所、河川430箇所、崖崩れ378箇所、被害総額 : 約10兆円規模、約5000人が木造家屋の下敷きで即死というありさま。あれから16年の月日が経ったが。この被害から建物の耐震性や耐火の基準は強化された。WAKIが大切に持っている当時の週刊朝日緊急増刊号もご覧のようにセピア色に色褪せてしまった。われわれはこの尊い教訓を風化させてはならないと思う。(資料はWikipediaより引用しました。)