太平洋戦争は、ハワイ、マレー、フィリピン、香港、グアム等に日本が先制攻撃を行なって始まっている。
大本営の作戦では、ハワイ空襲開始とマレー上陸開始の相互関係については特に熟慮して同時攻撃を行っている。何故なら、一方が先行すれば他方の急襲が失敗に終わる恐れがあったからである。
昭和16年12月8日朝7時、ラジオは突然臨時ニュースのチャイムを鳴らした。
以下、その日を再現する。
臨時ニュースを申し上げます。臨時ニュースを申上げます。大本営陸海軍部午前6時発表。「帝国陸海軍部隊は本八日未明、西太平洋においてアメリカ、イギリス軍と戦闘状態に入れり。」
♪守るも攻むるも くろがねの 浮かべる城ぞ たのみなる
浮かべるその城 日の本の 皇国の四方を 守るべし
真鉄のその艦 日の本に 仇なす国を 攻めよかし~
(軍艦行進曲)
この日のラジオは、一日中数々の軍歌にのせて開戦ニュースを流していたそうである。
「真珠湾攻撃」のこと この作戦は、連合艦隊司令長官山本五十六の構想の下に行われ、これによりアメリカ・イギリスに宣戦して太平洋戦争へと突入、この時点で日本とアメリカも第二次世界大戦に参戦することとなる。 作戦経緯をみると、11月に日本海軍機動部隊は真珠湾攻撃に備え、千島列島の択捉島単冠湾に集結し、26日に、連合艦隊命令により、ハワイ沖に向け出航している。機動部隊は、12月3日に山本長官の激励の電報を受け、12月7日 0700(現地時間1230)旗艦赤城のマストに「 皇国の興廃この一戦にあり 各員一層奮励努力せよ 」の信号を掲げ、オアフ島からの敵飛行哨戒圏内に突入して行く。 これとは別に12月7日夜 開戦時の配備についた先遣部隊のうち特別攻撃隊の特殊潜航艇5隻は、同夜真珠湾外において各々母艦を発進している。その後、特別攻撃隊はラナイ島の西方海面で収容配備についたが、発進した5隻の特殊潜航艇は1隻も帰艦することはなく、♪トラトラトラ(我レ奇襲に成功セリの暗号電)を黄泉で聞く~こととなった。 なお、この奇襲攻撃で軍事施設以外を攻撃しないように目標を限定したため、一般市民に与えた被害は少なかったようである。この奇襲攻撃の戦果は、 戦艦・巡洋艦など船舶の撃沈・大破が18隻、航空機が200余機、戦死・行方不明2,400余人、戦傷2,380余人。一方、日本軍の損害は、飛行機では、喪失機29機・要修理機122機、特殊潜航艇5(乗員9名戦死 1名捕虜)、戦死搭乗員55名 とある。 しかし、その日の真珠湾には米国主力艦隊はここには居なかったので無傷で残り、その後の戦いに日本軍は窮地に追い込まれることになるのである。 「コタバル上陸」のこと 真珠湾空襲に先立つこと約数時間前、12月8日午前1時30分第18師団・歩兵第23旅団長佗美浩少将率いる先遣部隊がマレー半島東北端コタバルに敵前上陸を敢行している。 太平洋戦争がこの時に始まったのである。 守る英軍は、歩兵第8旅団を主力とする約6000の兵力で海岸一帯に防御陣地を築いていたようである。鉄条網をめぐらした陣地は水際から50~70M付近に構築され、その後方には散兵壕があり、地雷も多数敷設されていたそうである。 この戦闘で、死傷者700名、上陸用舟艇の沈没15、損傷10と、多大な犠牲を払い激闘4時間の末、海岸線を制圧した上陸部隊は直ちにコタバル市内を占領したとある。 この間、上陸船団の「淡路山丸」などが被弾し、再度の揚陸作業のやむなきに至るも、その後11日には補給基地トンバット、12日はムロン、13日は航空基地タナメラと電撃的に部隊を進めていったとある。 こうして太平洋戦争は、旧日本軍の「真珠湾奇襲攻撃」と、ここマレー半島の「コタバル敵前上陸」をもって開戦したのでる。
この先 玉砕・本土空襲の悪夢の日々が続くことになろうとは、誰もが思わないままに暮れた12月8日である。