やうちのブログ

gooの仲間と語り合う

もうすぐ終戦の日5(戦況②・昭和17年)

2011-08-13 13:25:30 | 太平洋戦争史

 往くぞ 往くぞ ガンとやるぞ~ と、 
歓呼の声に送られて 今ぞいでたつ父母の国~で あったが、 

一番乗りを やるんだと  力んで死んだ 戦友の
 遺骨をだいて 今入る  シンガポールの 街の朝 

(戦友の遺骨を抱いて)

に、なろうとは・・昭和17年の主な戦況をたどる。

102「日本軍・マニラ占領」台湾から3日連続の空襲を行い、米軍機の大半を撃破。
 /29  「日本軍ラバウル占領」

208 「シンガポール総攻撃」 日本軍がシンガポールの英軍に対し総攻撃を開始。冒頭の「戦友の遺骨を抱いて」は、その時を唄ったものである。
 /15「シンガポール陥落」 山下泰文司令官が、英軍司令官パーシバルと会談、降伏を確認している。

3/01 「日本軍・ジャワ島上陸」
 
08 「日本軍・ラングーン占領、ニュギニア上陸」

409 フィリピン・バターン半島の戦い」米軍が日本軍に降伏。後に日本軍は、捕虜に収容所までの約100kmを炎下徒歩で行軍させ、多くの死者を出し、後々問題になったあのバターン死の行進」である。          

18「米陸軍機本土初空襲」 B25・16機によって日本本土(東京・名古屋など)が初めて空襲される。

501「日本軍・ビルマのマンダレ-占領」

07「マニラ湾コレヒドール島の米軍降伏」 

05 「ミッドウェー海戦」 4月の本土空襲をきっかけに、日本は太平洋正面の防衛強化のため、この日ミッドウェー島攻略を行った。その結果虎の子の空母4隻を喪失し、アメリカの海・空軍戦力の優勢が決定的になった。

07「アリューシャン戦線」 日本軍は防衛線拡大のためアリューシャン作戦を行っている。一時期アッツ・キスカ両島を占領するも、次々と撤退を余儀なくされた。以降各地の離島で日本軍は玉砕の運命をたどることとなる。

808 「第一次ソロモン海戦」  24 「第二次ソロモン海戦」

21「ガダルカナル島で、上陸した一木支隊潰滅」

912 「ガダルカナル島で、川口支隊攻撃開始、同14日に中止」

1112 「第三次ソロモン海戦」ガダルカナル島周辺の制空・制海権は連合国側に移り、同島は孤立状態になる。

1231 「大本営、ガダルカナル島撤退を決定」

つづく


もうすぐ終戦の日-4(戦況①・昭和16年)

2011-08-13 13:05:39 | 太平洋戦争史

1208

日本時間2時、日本軍マレ-半島に敵前上陸開始。

 同3時19分、第一航空隊ハワイ真珠湾に空撃開始。

4時、野村・来栖両大使、ハル長官に最後通牒手交。               

6時、大本営開戦を発表  

1140分、宣戦詔書発布

 

こうして太平洋戦争(大東亜戦争)の幕が切って落とされたのである。
    

1210
「マレー沖海戦」
日本軍はマレー沖海戦でイギリス東洋艦隊の主力戦艦である、プリンス・オブ・ウェールズなど2艦を撃沈。これにより、東南アジア海域の制海権は日本海軍の手中に入った。そして英軍撤退により、日本軍がマレー半島西部ペナン島を無血占領し、続いて東岸のクワンタンを占領、半島を横断しクアラルンプールへ向かった。この時の日本軍の進軍は戦車でなく自転車だった。
日本軍、「グァム島を占領」、ルソン島に上陸。

1225
「日本軍 香港占領」
第23軍を主力とした日本軍が、香港ルートによる列強の中国支援を断ち切るべく、イギリス防衛軍を破って香港を攻略。以後45年8月の日本の敗戦まで香港は日本の軍政下にあった

※「関連」
12
11:日独伊三国協定終結・単独不講和をとり決め。
   12:閣議で、戦争の名称を「大東亜戦争」と決定(支那事変も含む)。
   16:呉海軍工廠で戦艦「大和」が竣工。

以下、終戦までの戦況をみてゆく。